side友梨佳 第8話
「『美しすぎるバレット』だって。友梨佳ちゃん、ネット記事になってるよ」
前川は綿貫厩舎の休憩室でスマホを掲げ、友梨佳に見せた。
友梨佳はカレーを一口運びながら、ちらりとその画面を覗き込む。
緑のビブスを着た友梨佳が、茜から鞍を受け取っている写真が掲載されていた。見出しは
『桜木騎手の活躍とともに美しすぎるバレットにも注目』。内容は特に毒にも薬にもならないものだった。
「ふーん」
友梨佳は興味なさげに返事をして、再びカレーを口に運ぶ。
「あれ? 喜ばないんだ。陽菜ちゃんに自慢するかと思ったのに」
「正直、それどころじゃないんだよね」
「バレットの仕事がキツいの?」
「仕事自体はもう慣れたけど、マネージャーの方がね……」
「そっちが大変なんだ」
「うん」
バレットの仕事は、朝早くから夕方遅くまで続く。騎手がレースに集中できるよう細かい配慮が求められるが、やるべきことが決まっているため慣れてしまえば大きな問題はない。
しかし、マネージャー業はそうはいかなかった。特にスケジュール管理は、友梨佳にとってもっとも苦手な分野だった。
その時、友梨佳のスマホが震え、甲高い着信音が響いた。
画面に表示されたのは「茜」の名前。
「……はぁ」
友梨佳は肩をすくませ、大きくため息をついてから通話ボタンを押した。
「もしもし……」
『友梨佳! なんてことしてくれたのよ!』
電話に出た瞬間、茜の怒鳴り声が飛び込んできた。
「あ、あたし……何か……?」
『また横溝さんの騎乗依頼、ダブルブッキングしたでしょ!? もう私を降ろすって言われたわよ!』
「……ごめんなさい……」
『これで何人目よ? 騎手を引退させる気!?』
「……ごめんなさい……」
電話の向こうから、茜が深いため息をつく音が聞こえた。
『謝らなくていいから、降ろされた分、新規の騎乗依頼を取ってきて。できないなら、さっさと北海道に帰って』
返事をする間もなく、通話は一方的に切られた。
「……そこまで言わなくてもいいのにね」が気遣うように声をかける。
「あたし、ほんとダメなんだよね。今までスケジュール管理なんて気にして生きてこなかったから……。メモはしてるけど、一度に依頼がたくさん来ると、もう分かんなくなっちゃう」
友梨佳は力なくテーブルに突っ伏した。
「おまけに、今度は新規の依頼を取ってこいって……」
「まあ、どれも牧場経営には必要だけどね」
前川はコーヒーをすすりながら言う。
「そんなの、陽菜か遥さんがやった方がいいよ。あたしには向いてないもん」
「友梨佳ちゃんはそれでいいの?」
前川の静かな問いかけに、友梨佳は突っ伏したまま考え込む。
「……良くない」
ぼそりと返した彼女は、勢いよく立ち上がった。
「横溝さん、向島厩舎に来てるらしいから、とりあえず謝ってくる」
「頑張って」
「うん」
休憩室を出ようとする友梨佳に、前川がふと思い出したように声をかけた。
「友梨佳ちゃん」
「ん?」
「君の長所は消しちゃだめだよ。僕も綿貫厩舎のスタッフも、みんな君のファンなんだから」
「ホント?」
「本当だよ。でなけりゃ、よその厩舎の人間に昼ご飯なんて食べさせたりしないよ」
前川の言葉に、友梨佳は思わずくすっと笑った。
「……うん。ありがとう」
そう返して、友梨佳は再び歩き出した。
***
「これはどういうことですか!? 当歳の時とまるで別の馬じゃないですか。トモに肉付きがまるでないし、肩だって全然張ってない。管理に問題があるんじゃないんですか?」
向島厩舎に着くと、馬房前で馬主らしき男性が調教師に詰め寄っていた。
(取り込み中か……)
友梨佳は厩舎の前で様子を見ることにした。
「そんなことを言われましてもね、こちらとしては最善を尽くしているんです。それでもご納得いただけないなら、転厩していただくほかありません。もっとも、後藤さんに伝手があればの話ですが」
「……!」
後藤は悔しそうに口をつぐみ、踵を返した。
そのまま立ち去るかと思いきや、友梨佳の隣に立ち、電子タバコをくわえた。
「くそ。どいつもこいつも……今に見てろ」
「お兄さん、どうかしたの?」
友梨佳は何とはなしに声をかけた。
「ん? ああ……俺の馬が当歳の時とまるで別物になっていたんだ。管理に問題があるはずなのに、厩舎はそれを認めやしねえ。こっちが新参の馬主で人脈がないことをいいことに、足元を見てやがるんだ」
後藤は怒りを抑えきれない様子でまくし立てた。
「当歳の時は、こんなにふっくらしていて肉付きもよかったのに……」
スマホの画面に映し出された写真には、確かに立派な馬体の馬が写っていた。
「ふーん」
友梨佳は馬房前の馬と写真を見比べる。
「多分、コンサイニングのしすぎだね」
「コンサイニング?」
「セリに出す前に、業者に頼んでサプリやら食事をたくさん与えて運動させて、肉付きや毛づやを良くさせるんだよ。セリで見栄えが良くなるからね。その子は骨格に対して不自然にパンパンだったみたいだから、相当食べさせたんじゃないかな」
「でも、セリでは調教師が『良い馬だ』って……」
「牧場と裏でつながってたんでしょ。たぶん落札価格の数%が懐に入っているんじゃない? 新規参入の馬主がよくカモられるんだよね」
「くっそ! あのオヤジ……」
「でも、あの子の足元は丈夫そうだし、長く走ってくれると思うから可愛がってあげなよ。あと、うちのおじいちゃんが日高の舞別で『高辻牧場』って生産牧場やってるから、これに懲りずに馬主を続けるならおいでよ。うちは過度なコンサイニングはしないし、裏で手を結んでる調教師もいないから」
そう言い残し、「じゃあ用事があるから」と友梨佳は厩舎の中へ向かった。
スタッフに案内され、馬房で馬を見ている横溝を紹介された。
「君は?」
「あ、あたし、茜……桜木騎手のバレットとマネージャーをしている高辻友梨佳といいます。今回のダブルブッキングは、本当に申し訳ありませんでした」
「ああ、君が……」
横溝は厩舎の外を指さし、場所を移動するよう促した。
外に出ると、彼は静かに、しかし険しい口調で口を開いた。
「桜木さんとは、彼女が新人の頃からの付き合いでね。今の馬も、桜木さんが『自分が育てるから』と言って志願してきたんだ。それなのに、この数週間、すべて他の馬主の馬に代わってしまった。どういうことかね?」
「それは……ですから、私のミスで……」
「私の馬がないがしろにされたから、ダブルブッキングをした。そう捉えられても仕方がないとは思わないか?」
「……」
友梨佳は言葉を失った。
「それに、君のその格好は何だね? 髪だけでなく眉毛まで金髪に染め上げて、しかもサングラスまでかけて。これが謝罪に来る時の態度か? ネット記事に持ち上げられて、いい気になっているんじゃないのかね?」
「いえ、これは……」
「桜木騎手への騎乗依頼については、しばらく考えさせてもらう。話は以上だ。お引き取り願おう」
そう言い放つと、横溝は厩舎の中へと戻っていった。
友梨佳はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと向島厩舎を後にした。
空は急に曇り始め、ぽつりぽつりと雨が落ちてきた。