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side友梨佳 第7話

 5月上旬の早朝、美浦トレーニングセンター。

 総距離1200m、高低差33mの坂路コースを、リアンデュクールが茜を背に駆け上がる。

 まだ薄暗い空の下、朝靄を切り裂くような力強い蹄音が響いた。

 余力を残しながら、800mを52秒2。

 調教スタンド内のモニターにそのタイムが表示された瞬間、周囲がざわめいた。

 ――2歳馬が出せるタイムじゃない。

 調教師やスタッフが互いに顔を見合わせる。 まるで目の前で奇跡を目撃したかのように。

 興奮を抑えつつ、影山は坂路コースの終点へと向かった。

 クールダウンの運動をするリアンデュクールは、汗一つかいた様子もなく、悠然と歩いている。

「調子は悪くなさそうだな」

 そう声をかけると、鞍上の茜が手綱を軽く緩めながら微笑んだ。

「はい。でも、まだまだ良化途上です。ゲートの出も、これならカバーできそうです」

 茜の声には確信があった。

 影山はふっと息を吐き、腕を組む。

「高辻泰造……とんでもねぇ馬を作りやがったな」

 影山の視線がリアンデュクールの筋肉の張りをなぞるように移動する。

 日高のどこにでもある零細牧場主が、血統を極めた末に生み出した一頭。

「もう消えたと思ってた野心が、くすぶり始めちまったよ」

 彼の低い声に、茜は僅かに口角を上げた。

「相手はロイヤルストライドですか?」

 大手クラブ法人グランエターナルレーシングが所有する2歳牡馬。

 アメリカの実績馬を父に持つ良血で、募集価格は一口450万。 それでも即日満口になった。

 調教タイムも優秀。

 総合力ではリアンデュクールより上だとも囁かれている。

「栗東の八木厩舎か……グランエターナルレーシングは本来なら外国人騎手を乗せる所だが、有馬記念で八木厩舎のグランドデュークを天野が勝たせた。そのつながりでロイヤルストライドに天野が乗るかもしれん」

「天野さんが……」

 茜の表情が僅かに強張る。

 経験も実績もあるトップジョッキー。そう簡単に付け入る隙はない。

 影山は問いかけた。

「勝てそうか?」

 その声に、茜は即答した。

「勝ちます。勝たせてみせます」

 力強い宣言と同時に、彼女はリアンデュクールの首筋をポンポンと叩く。

 ウザったそうに首を振るリアンデュクール。

「早くデビューさせてあげたいです」

 茜の視線は、まだ薄暗さの残る北の空へと向けられていた。


 ***


「茜っち、おっつー!」

「馴れ馴れしく呼ぶんじゃないわよ。敬語を使いなさいって、いつも言ってるでしょう?」

 調教を終えて戻ってきたリアンデュクールを出迎えながら、友梨佳が軽やかに声をかけた。

「私の方が年上なんだから」

 リアンデュクールから下りながら、茜が少しむくれたように言う。

「年上ったって、たったの2歳じゃん」

 友梨佳はそう言いながら、茜の頭にそっと手を伸ばした。身長148センチの茜に対して、170センチの友梨佳が頭をぽんぽんと叩くのは、自然と腕が収まる動きだった。

「ちょっと! 頭を叩くんじゃないわよ!」

「相変わらず仲良いっすね」

 担当厩務員の亮太が遅れてやってきて、リアンデュクールに引き綱をつける。

「うん、仲良しだよ」

「良くないわよ!」

 茜は憤慨しつつも、どこか楽しげだ。

 子供のころから乗馬クラブに通い、年上への礼儀を叩き込まれてきた茜にとって、目上の

 人間にタメ口やあだ名で呼ぶなど本来は考えられない。けれど、友梨佳の人懐っこい性格や、年下から親しげに接されること自体に悪い気はしていなかった。

 亮太はケラケラ笑いながら、リアンデュクールを洗い場へと連れて行く。この数日間、何度か蹴られたり噛みつかれたりしながらも癖をつかみ、今ではすっかり扱いが板についてきた。

「まあ、そう言わないでよ。もうすぐあたし、北海道に帰るからさ」

「……え、そうなの?」

 茜が思わず声を落とす。

「うん。もともとリアンが環境に慣れるまでって話だったし。亮ちんもリアンの扱いに慣れてきたから、大丈夫でしょ」

「そう……。良かったじゃない。彼女にも会えるし」

「うん。陽菜に会えるのも嬉しいんだけど……。 おじいちゃんの体調があまり良くないみたいだからさ」

 今年の冬から泰造の体調の悪い日が続いており、今は自宅で過ごしながら訪問介護をフル活用している。

 そんな話をしていると、事務所の窓から影山が顔を出した。

「茜、友梨佳。ちょっといいか」

 影山に促され、二人は事務所へと入る。

「友梨佳。この一か月ほどアシスタントとしてよくやってくれた。おかげでリアンのデビューにも目途が立った」

「はい!」

 友梨佳は嬉しそうに頷く。

「友梨佳とは、リアンが環境に慣れるまでの契約だったから、アシスタントとしての仕事はこれで終了だ」

「じゃあ、北海道に帰っても?」

「そのことなんだがな……」

 影山は言葉を区切りながら、茜の方にちらりと視線を向ける。

「友梨佳。茜のバレット兼マネージャーになれ」

「はあ!? 何ですって?」

 茜が思わず声を上げる。

「お前、バレットが欲しいって言ってただろ? スケジュール管理もついでにしてもらえばいい」

「そ、そりゃあ言いましたけど、だからって……」

「ねえ、茜っち。バレットって何?」

「ほら、こんなこと言ってますよ!」

 呆れたように影山を見つめながら、茜は仕方なく説明を始めた。

「バレットっていうのは、レースで使う鞍や腹帯の用意、斤量の調整、騎手の着替えの準備とか、ようは騎手の身の回りの世話をする人のことよ」

「ふーん。まあ、あたしは別に良いけど……おじいちゃんが何て言うか……。 牧場を長く空けるわけにもいかないし」

「それについては心配いらん。これはな、泰造さんたってのお願いなんだ」

 影山の声が少し柔らかくなる。

「この世界で食っていくために必要なことを、ちゃんと身に着けさせてほしいってな。俺はひとりで気楽にやってるから、気にするなとも言ってたよ」

「おじいちゃんがそう言ってるなら……わかった、やってみる」

「よし、決まりだな」

「ちょっと待ってください! 私には何も聞かないんですか!?」

 茜が影山に抗議するように言った。

「嫌なのか?」

「べ、別に嫌というわけじゃ……」

 ちらりと友梨佳を見ると、子供のような無邪気な笑顔が返ってくる。

「……わかったわよ。でも良い? 雇用主は私になるんだから、ちゃんと言うことを聞くのよ!」

「うん、わかった!」

「『はい、わかりました』でしょ!」

「はい、わかりました。茜っち!」

「その呼び方はやめなさい!」

 ふたりのやり取りを見ながら、影山は苦笑いを浮かべる。

「そりゃあ、泰造さんは一人になりたいわけだ」


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