side友梨佳 第5話
「日高も田舎だけど、この辺もなかなかのどかだね」
友梨佳は馬運車の後部座席の窓から顔を少し出し、広がる田園風景を眺めた。
4月の暖かく柔らかい風が、ポニーテールにした髪をそっと揺らす。
リアンデュクールを乗せた馬運車は、北海道のイルネージュファームを出発し、茨城県の美浦トレーニングセンターまで17時間かけて移動してきた。
「根もっちゃん。ここから横浜って遠いの?」
ハンドルを握る根本に声をかける。
友梨佳より二回りは年上の彼は運転姿勢を崩さぬまま、ちらりとバックミラーを確認しながら答えた。
「そうだな……渋滞がなければ高速使ってノンストップで2時間くらいじゃねえかな」
「そっか、意外と近いんだ」
陽菜の地元に少し近づいた気がして、友梨佳の胸に温かな感覚が広がった。
後部座席の後ろにある小窓から、リアンデュクールの様子をうかがう。
北海道からの長旅にもかかわらず、落ち着いている。
「友梨佳、美浦に来るのは初めてか?」
運転席上部の仮眠用ベッドから、小堺が声をかけた。
彼は根本と交代で4時間おきに運転をしている、友梨佳より一回り年上の男性だ。
「小さい頃にお父さんに連れられて来たらしいんだけど、全然覚えてなくて。だから実質初めてかな」
「そりゃあ、たまげるぞ。競走馬に必要なものはすべて揃ってるし、人も多い。生活に必要な店もある。まるでひとつの町みたいなもんだ」
「へえ……」
美浦のトレーニングセンターがどんな場所なのか、想像が膨らむ。
「さあ、着いたぞ」
根本の声とともに、馬運車は美浦トレーニングセンターの巨大なゲートをくぐった。
影山厩舎の前で停車すると、友梨佳は後部座席の後ろにある、馬の居住スペースへと続く扉を開ける。
リアンデュクールに引き綱をつけると、後部の扉が金属音をたてて開いた。
すべての準備が整うと、友梨佳はリアンデュクールを慎重に後退させ、スロープを降ろす。
(よし、大丈夫。落ち着いてる)
そう思いながら顔を上げた瞬間、目の前に立っていた男に思わず息を呑んだ。
髪と髭は伸び放題で、着ているジャンパーやジーパンは砂と藁で汚れている。男は無骨な表情のまま、こちらを一瞥する。
友梨佳は思わず後ずさった。
その男は無言のままリアンデュクールの脚やトモを丹念に触って確かめる。
リアンデュクールがイラついたように耳を伏せ、噛みつこうとした。
「リアン、だめ……」
友梨佳はすぐに気をそらし、なだめる。
ここでリアンデュクールが相手を怒らせたら、何をされるかわからない。
祈るような気持ちで馬をなだめ続けた。
「へえ、クセ馬を連れてくるって聞いたから、どんな荒くれが来るのかと思ったら……ずいぶん若い姉ちゃんだな」
厩務員の三枝亮太が、友梨佳の頭から足元まで品定めするように眺め、ニヤリと笑う。
欠けた前歯が覗き、ボサボサの金髪がだらしなく垂れていた。
気がつくと、影山厩舎の男たちが周りを取り囲んでいた。
皆一様に薄汚れた作業服を着て、無精髭を生やしている。まるで山賊のようだった。
友梨佳は自然と身をすくませた。
「おい、亮太。連れて行け」
無骨な男──大滝が低い声で命じる。
三枝が手を伸ばす。
「……ッ!」
友梨佳は思わず体を固くした。
しかし、三枝が取ったのは友梨佳の手ではなく、リアンデュクールの引き綱だった。
彼は軽く舌鼓を打ちながら、馬を馬房へと連れて行く。
「長旅ご苦労だったな。俺はここで厩務員をしている大滝だ」
「……高辻友梨佳……です」
震える声で名乗った直後、大滝は唾を吐いた。
その唾には血が混じっていた。
「ッ……!」
友梨佳は息を飲み、全身を強張らせる。この男が、山賊の頭領に違いない。
「すまねえ。さっき……ちょっとな」
言葉を濁した瞬間、馬房の方から激しい音と馬のいななき、そして三枝の叫び声が響いた。
大滝や厩舎のスタッフ、友梨佳は一斉に駆け込む。
リアンデュクールが前脚を振り上げ、威嚇している。
対する馬も負けじと耳を伏せ、威嚇し返している。
「クソッ、こいつ、なんて気性だ!」
三枝が引き綱を懸命に引くが、リアンデュクールの興奮は収まらない。
「リアン、ダメ!」
友梨佳は迷わず三枝から引き綱を奪い、リアンデュクールと相手の馬の間に割って入った。
馬の首を巧みに操作し、他の馬が視界に入らないように立ち回る。
「リアンの馬房はどこ!?」
鋭く声を上げると、三枝が乱暴に指をさした。
「そこだ!」
友梨佳はリアンデュクールを曳き、小走りで馬房へと入れる。
柵を閉め、一息つく。
(よかった……)
安堵したのも束の間、気づけばまた山賊たちに囲まれていた。
その群れの間を、ゆっくりと杖を突きながらひとりの男が歩み出る。
影山だった。
深い彫のある顔は無数の傷跡に覆われ、鋭い眼光だけがぎらついていた。
イルネージュファームでリアンデュクールを見に来たときとはまるで雰囲気が違う。
きっと、これが本性なのだろう。
「興奮した馬をうまく馬房に入れてくれたな。感謝する」
低くしわがれた声が響く。
影山はゆっくりと友梨佳を見据え、ニヤリと笑った。
「牧場でも思ったが、嬢ちゃんはなかなかの腕だ」
「……ありがとう、ございます。では、私はこれで……」
友梨佳はそっと馬房沿いに後ずさりながら、その場を離れようとした。
しかし、影山が杖を横に伸ばし、行く手を遮る。
「今、帰すわけにはいかねぇな」
「え?」
「嬢ちゃんには、リアンデュクールが環境に慣れるまで、ここにいてもらう」
「え、で、でも……私、牧場の仕事が……」
「心配するな」
影山は余裕の笑みを浮かべながら、軽く杖を回した。
「遥を通して話はつけてある。よろしく頼む、って言われたよ」
「……え?」
信じられない言葉に、友梨佳の血の気が引いた。
「よろしくだってよ」
「そりゃあ、歓迎しねぇとなあ」
男たちが口々にニヤつきながら囁く。
友梨佳は、反射的に胸元を隠すように腕を組んだ。
(遥さん……おじいちゃん……なんで……!?)
(ああ、そうか。二人ともこいつらの本性を知らないんだ……!)
「竜。嬢ちゃんを部屋に案内してやれ」
「はい」
(やばい……このままじゃ監禁される……! そして……厩舎の男たちの慰み者に……!)
友梨佳は、大滝に連れられながら、どうにかして逃げ出す方法を考える。
すると、視界の端に、リアンデュクールを運んできた馬運車が目に入った。
根本と小堺が帰り支度をしている。
(そうだ! 「荷物を取りに行く」と言って馬運車に乗り込めば……!)
(それで、訳を話して逃がしてもらおう!)
「あ、そうだった。荷物が馬運車に……」
友梨佳が口を開いた瞬間――
「大滝さん! 言われていた通り、友梨佳の荷物、部屋に運んどきました!」
小堺が明るい声で報告した。
(……グルだった!!)
「おう、助かる」
「じゃあな、友梨佳!」
中根が馬運車に乗り込みながら笑う。
「道中楽しかったぜ。頑張れよ!」
エンジンがかかり、馬運車はゆっくりと走り去っていく。
友梨佳は、絶望の眼差しで遠ざかる車を見つめた。
夕方遅く、陽菜のスマホが鳴った。
仕事を終え、片付けをしようとしていた陽菜が、着信を確認する。
「もしもし、友梨佳? どう? 無事に着いた?」
『陽菜……助けて……! あたし、慰み者にされちゃう……!』
「……え?」
予想外の言葉に、陽菜は思わず耳を疑った。
「慰み者って……ごめん、話が見えないんだけど……?」
『影山厩舎は、山賊の巣窟なの! 影山はその頭領! きっと今までも、言葉巧みに牧場の娘を誘い込んできたんだよ!』
友梨佳は、部屋の窓をそっと開け、外を見渡しながら早口で話した。
脱出経路はないかと、必死に探る。
「でも、この前牧場に来たときは、すごく紳士的な人だったじゃない」
『あれは表向きの顔! 遥さんも騙されてるんだよ!』
「そ、そんな……」
『とにかく、早く助けに来て!』
「わかった……! まずは遥さんに話してみる!」
『お願い……』
その瞬間――
ガチャリ。
不意に扉が開いた。
「っ……!」
友梨佳はハッと息を呑み、後ずさる。
「……来た……」
『もしもし? 友梨佳?』
「四月とはいえ、夜は冷えるからな」
大滝が、ゆっくりと部屋に踏み込んでくる。
口元に不気味な笑みを浮かべながら、友梨佳を見つめた。
「人肌が恋しいだろ?」
「い、嫌……っ!!」
友梨佳は、恐怖に駆られたまま、握りしめていたスマホを窓の外へ落した。
ガシャン!
スマホは地面に落ち、ディスプレイが砕ける。
黒い画面のまま、電源が落ちた――。