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side友梨佳 第4話

 馬房の外で、影山はリアンデュクールの脚を一本ずつ丁寧に触れながら確認していった。その手付きは慎重かつ熟練のもので、指先で骨や腱の状態を確かめるようだった。脚を診た後は、トモや肩の筋肉のつき具合を入念に確かめる。

 リアンデュクールは隙あらば噛みつこうとするが、友梨佳が巧みに気をそらしながら落ち着かせていた。

 ひととおりの確認を終えると、影山は満足げにリアンデュクールの肩をパンパンと叩いた。

「よし、それじゃあ、走るところを見せてもらおうか」

 影山の言葉に、大岩が頷く。

「承知しました。友梨佳、準備を」

「はい」

 友梨佳は手際よくリアンデュクールを厩舎の外へと連れ出した。

 その様子を見ていた影山が、興味深そうに声を上げる。

「へえ。あのお嬢ちゃんが乗るのか?」

「ええ。彼女はリアンデュクールを生産した高辻牧場の孫娘です。何より、この馬の扱いに関しては彼女が一番理解しています。騎乗技術も申し分ありません」

「ああ、なるほど。さっきも俺のことを噛まないように、うまい具合に馬の気をそらしてくれたな。若いのに大したもんだ」

 影山は感心したように腕を組んだ。

 そのとき、馬房の入り口から声がかかった。

「先生、ご無沙汰しています」

 遥が、一人の少女を連れて歩いてきた。

 影山は遥の姿を目にすると、顔をほころばせる。

「おお、遥さん。立派な牧場を作ったじゃないか」

 遥は軽く頭を下げる。

「私は何もしていません。父が残したものと、スタッフをはじめ、周囲の方々のご尽力のおかげです」

「はは、しばらく見ないうちにすっかり一端の牧場主になったな。それで、そこのお嬢ちゃんは?」

 遥は傍らにいた少女の背中をポンと叩いた。少女は緊張した面持ちで、一歩前へ出る。

「結城エマです。この四月からJRA競馬学校の騎手課程に入学します。よろしくお願いします!」

 エマは上半身を深く折り曲げ、丁寧にお辞儀をした。

 影山は興味深げに目を細める。

「ほう、そうか。残念ながら、俺は来年度で定年だがな。まあ、厩舎を引き継ぐ奴によろしく伝えておくよ」

「ありがとうございます。あの……ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

「ん? 何だい?」

 エマは真剣な表情で影山を見つめた。

「一流の騎手に必要なものって何でしょうか? 私、天野さんを超えるような騎手になりたいんです」

「ほう……超えたいときたか」

 影山は豪快に笑った。その目には、どこか嬉しそうな光が宿っている。

「その気概に免じて、アドバイスしてやろう」

「はい!」

 エマは背筋をピンと伸ばし、真剣な面持ちで影山の言葉を待った。

「ジョッキーに求められるものは、いくつかある。まず、フィジカル面で言えば、柔軟性と体幹の筋力は絶対に必要だ。走る馬に乗るには、身体のしなやかさとバランスが欠かせないからな」

「なるほど……」

「精神面では、負けん気と、レース展開や馬場状態を読む冷静さが求められる。そして、ストイックな自己管理能力だな」

 エマは熱心に頷きながら、影山の言葉を一言も聞き漏らすまいとしている。

 影山は少し間を置いて、静かに言葉を続けた。

「だがな……一番重要なのは人間性だ」

「人間性……?」

「どんなに優れたジョッキーでも、依頼がなければ馬には乗れん。馬主や調教師をはじめ、競馬に関わる人間とどう良好な関係を築くか。それが、この世界で長く生き残るための鍵になる」

「そのためには、どうすればいいですか?」

 影山はにっと笑い、エマの肩に手を置いた。

「常に謙虚でいることだ。どんなに実力があっても、傲慢になれば人は離れていく。だが、謙虚に努力を続けていれば、たとえつまずいたとしても、誰かが手を差し伸べてくれるもんさ」

「……はい。肝に銘じます!」

 エマの目が力強く輝く。

 影山は満足そうに笑い、ぽんとエマの肩を叩いた。

「今どき、珍しくしっかりした子だな。うちの茜なんか、最初はオドオドするばかりだったぞ」

 そう言いながら、影山は厩舎の出口へと向かう。そして、振り返ってエマを手招きした。

「さあ、一緒においで。リアンデュクールの走りを見ようじゃないか」

「はい!」

 エマは大きな声で返事をし、影山の後を追う。

 その姿を見送りながら、遥が静かに声をかけた。

「良かったわね」

 エマは振り返り、満面の笑みで大きく頷いた。そして、再び前を向くと、影山の後ろを力強く歩き出した。


 ***


 周回コースを、リアンデュクールはリズミカルに単騎で駆け抜けていた。

 ラップタイムは15-15。それでも、影山の目の前のPCに映し出される心拍数はほとんど上がっていない。

 目の前を通過するリアンデュクールを、影山はじっと目で追った。

 隣では、エマが鞍上の友梨佳に見惚れている。

「首の使い方が上手い。ストライドも綺麗だ」

 影山が思わず感嘆の声を漏らす。

「それに心拍数も大して上がっちゃいねえ。こいつにとっちゃ、ジョギングみたいなもんか……。だがな――」

 影山の視線が、コーナーを回るリアンデュクールの動きに注がれた。

 速度がガクッと落ちる。

「あの曲がり方は何だ。手前を替えられないのか?」

「……あれでも、だいぶマシになったんですがね」

 横で大岩が苦笑した。

 影山は顎に手を当てて考え込む。

「それじゃあ、併せ馬を見せてもらおうか」

 大岩がインカムに指示を飛ばす。

「2頭併せだ。スローガレットを前に行かせて、4コーナーを回ったところから追い出せ」

 指示を受けて、スローガレットがリアンデュクールの前に合流する。

 4馬身差で追走するリアンデュクール。

 やがてコーナーに差し掛かると、友梨佳が手綱をしごき、鞭を一発入れた。

 リアンデュクールの体が一瞬、沈み込む。

 次の瞬間――まるで矢のように飛び出した。

 あっという間にスローガレットに並ぶ。

 200メートルのラップタイムは11秒7。

 スローガレットも必死に食らいつくが、徐々に引き離されていく。

 目の前を通過するリアンデュクールを見て、影山は目を見張った。

「すげえ柔らかい体だな……。後ろ脚が胴の真ん中まで入ってる。あの蹴り出しじゃ、加速はえげつねぇだろうよ」

 影山は腕を組みながら、感心したように呟く。

「――乗ってる嬢ちゃんは、空でも飛んでる気分だろうな」

「わ、私……あんな速く走る馬に乗れる自信がありません……」

 エマが青ざめた顔で呟いた。

「そのために、3年間修行を積むんだ。心配いらねぇよ。卒業する頃には、あの嬢ちゃんより上手く乗れるようになってるさ」

「わ、私が……友梨佳先輩より、ですか?」

 信じられない、という表情でエマはリアンデュクールに跨る友梨佳を見つめる。

 影山は苦笑しながら、遥に向き直った。

「遥さん、予定通り4月に入厩させよう。ここまで仕上がってりゃ、6月の東京でデビュー できるだろう。手前の問題は、こっちでなんとかする」

「承知しました」

「入厩の時には、あの嬢ちゃんも一緒に来てもらえ」

「友梨佳ですか?」

「ああ。あれだけのクセ馬だ。慣れた人間がいた方が、馬も落ち着くだろう」

「高辻牧場の代表に確認しますが、多分大丈夫だと思います」

「よろしく頼む。それにしても、いい馬じゃねえか……。あんなのを見せられたら、最後にひと花咲かせたくなっちまうな」

 影山は大岩の肩をパンパンと叩き、周回コースを後にした。

 ふと、コースに目を戻す。

「――それと、併走してたあの馬だけどな。すぐ獣医に診せた方がいい」

 視線の先では、スローガレットがゆっくりとその歩みを止めた。


 ***


 馬房の中で、獣医の大久保がスローガレットの右前脚を慎重に診察していた。

 馬房の外では、エマと陽菜が不安そうにその様子を見守っている。

「青山さん……残念ですが、右前脚の靭帯が損傷しています。競走能力は失われたと考えたほうがいいでしょう」

 競走能力の喪失――その言葉の意味を理解した瞬間、厩舎内の空気が重く沈んだ。エマ以外の誰もが、事態の深刻さを痛感していた。

 そのとき、体を洗い終えたリアンデュクールが、友梨佳に手綱を引かれながら馬房の前を通りかかった。

 遥は友梨佳の方を見て、静かに首を横に振った。

 その仕草を見た友梨佳は、うつむいたまま何も言わなかった。

 リアンデュクールはふと足を止めると、スローガレットの鼻先にそっと自分の鼻を寄せた。しばらくの間、お互いの首筋を擦り合わせ、言葉の代わりに温もりを分かち合う。そして、リアンデュクールが一声いななき、再び歩き出した。

「馬主には私から連絡する。厳さん、スローガレットの手当てをお願い」

 遥は短くそう言い残し、厩舎を後にした。

 大岩が馬房へ入り、スローガレットの手当てに取り掛かる。

「私たちも行きましょう」

 陽菜はそう言って、車椅子を押し始めた。その横顔は感情を押し殺すように、固く引き締まっていた。

「陽菜先輩……スローガレットの怪我、そんなにひどいんですか?」

「……うん。もう競走馬として走ることはできない」

「でも、競走馬になれなくても、怪我は治るんですよね?」

「そうね」

「じゃあ、良かったじゃないですか……」

 エマの言葉に、陽菜は車椅子を止めた。そして、ゆっくりと振り返り、エマと正面から向き合った。

「エマちゃん。あなたには、ごまかさずにちゃんと話してあげる」

 その真剣な眼差しに、エマは息をのむ。

「スローガレットは、もう競走馬としてデビューできない。血統の良い牝馬なら繁殖に上がれる可能性もあるけど、何の実績もない2歳牡馬は種牡馬にはなれない。そして……馬を生かし続けるには、莫大な費用がかかるの」

 エマは、スローガレットに待ち受ける現実を悟った。

「でも……乗馬クラブとか、養老牧場とか、そういうところで……」

「それを決めるのは馬主さん。そして、毎年7000頭以上のサラブレッドが生まれる。すべての馬を救うことはできないの」

「じゃあ……スローガレットは、殺処分されるんですか?」

「殺処分じゃない。『用途変更』よ」

「そんなの、ただの詭弁じゃないですか!」

「詭弁でも何でも、それが現実よ」

 陽菜は静かに言った。

「だからこそ、私たちは競走馬を鍛え上げる。速く、強く。結果として、それが馬を長く生かすことにつながるから」

 エマは強く唇を噛みしめた。

 しばらく沈黙が続いた後、エマは意を決したように、厩舎の方へと歩き出した。

「どこに行くの?」

「スローガレットに……お別れを言ってきます」

「……あとが辛くなるよ」

「それでも、行きたいんです」

 エマは振り返らず、まっすぐに厩舎へと入っていった。


 ***


 日高の稜線に朝日が差し込み、静かなイルネージュファームの周回コースに若駒たちの姿が現れる。

「リアン、行くぞ」

 小林がリアンデュクールの引き綱を手に取り、馬房から連れ出す。リアンデュクールは一瞬立ち止まり、寝藁の敷かれていない空っぽの馬房を振り返った。そして、鼻をひとつ鳴らし、再び前を向いて歩き出した。

 陽の光がようやく差し込む頃、エマの自宅前には中学時代のサッカー部の仲間や高校の同級生たちが集まり、エマとの別れを惜しんでいた。

「これ、サッカー部のみんなからの寄せ書き」

「エマなら大丈夫。きっとデビューできるよ」

「デビュー戦はみんなで競馬場に行くから」

 賑やかに会話を交わすエマと友人たちの姿を、少し離れた場所で陽菜は静かに見つめていた。

(私と友梨佳も、こんなふうだったのかな……?)

 友梨佳と出会った頃を思い出し、思わず微笑む。

 エマが陽菜に気づき、駆け寄ってきた。

「陽菜先輩、わざわざありがとうございます!」

「エマちゃん、いよいよだね」

「はい……。でも、やっぱり友梨佳先輩は来られなかったんですね……」

 エマの表情がわずかに曇る。

「うん。出産シーズンだし、リアンの調教もあるからね」

「そうですよね……。でも、大丈夫です! 別に今生の別れじゃないし。卒業したらまた会えますから!」

 エマは明るく笑ってみせる。

「それでね、渡そうか迷ったんだけど……」

 陽菜はカバンから、丁寧に磨かれラッピングされた二つの蹄鉄を取り出した。

「こっちはリアンデュクールの、もう一つはスローガレットの蹄鉄。あなたに競馬の素晴らしさと現実を教えてくれた二頭のものよ。それをいつまでも忘れないでいてほしくて……。ごめん、やっぱり重かったかな」

 陽菜が蹄鉄をしまおうとすると、エマがそれを制した。

「陽菜先輩、ありがとうございます。実は、あの後考えたんです。私に何ができるだろうって。そしたら、一流の騎手になろうって決めました。一流になって、一頭でも多く、一つでも多く勝たせることができたら、その馬の未来が繋がる。そう考えたんです。私、リアンデュクールのこともスローガレットのことも、一生忘れません!」

 エマは蹄鉄を胸に抱きしめる。

「良かった。私と友梨佳で一生懸命磨いたんだよ。けっこう大変だったんだから」

 二人は向かい合い、笑い合った。

「エマ! そろそろ行くわよ!」

 エマの母親が車の運転席から顔を出し、声をかける。

「じゃあ、行ってきます!」

 エマは右のこぶしを突き出した。

「行ってらっしゃい!」

 陽菜もこぶしを合わせる。

 エマは助手席のドアを開けると、大きな声で言った。

「陽菜先輩! 友梨佳先輩と仲良くね! どこまでいったか、今度教えてください!」

「どこまでって!? えっ!?」

 陽菜は顔を真っ赤にして戸惑った。

 エマは悪戯っぽく笑い、車に乗り込む。

 車が動き出し、陽菜の前を通過する。手を振るエマに、陽菜も手を振り返した。

 やがて車が見えなくなると、陽菜はスマホを取り出し、電話をかけた。

「今どきの子って、あんな感じなの……?」

『もしもし。もう出た?』

 電話の向こうで友梨佳の声が聞こえる。

「うん。今出たところ。多分、10分くらいでそっちに行く。グレーのワンボックスカーで、ナンバーは……」


                      ***


「わかった。ありがとう」

 スノーベルに跨った友梨佳は、スマホを上着のポケットにしまう。そして、スマートグラスの電源を入れた。

 視界に広がるのは、穏やかな砂浜と、それと平行に走る国道の様子。

 6年前、ここから陽菜を見送ったときは、車の色とぼんやりとした形でしか判断できず、何度も車を間違えた。

 今日は大丈夫。エマの顔も、はっきり見えるだろう。

 それにしても……と、友梨佳は思った。

(あたしも、近くで見送りたかったんだけどな)

「まあでも……」

 友梨佳はスノーベルの頭を軽くポンポンと叩きながら言う。

「驚いた顔が見れるのは、あたしの特権だから、まあいいか」

 国道を振り返る。

 陽菜から伝えられたナンバーの車が見えた。

「よし、行くよ! スノー!」

 友梨佳はスノーベルを駆け出させる。

「エマ――!!」

 友梨佳の叫び声は、波の音に溶けていった。


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