幕間劇 天野弓と桜木茜
3万人の歓声が、晴れ渡る京都競馬場に響き渡る。
11月のマイルチャンピオンシップは佳境を迎え、馬群が三コーナーへ差しかかっていた。
サンダースパークが前半800メートルを44.8秒のハイラップで駆け抜け、二番手以下を5馬身突き放す。
その後方、ラチ沿いの馬群の中に、天野弓の駆るシャドウスプリントがいた。
シャドウスプリントは馬ごみを嫌い、外へ逃れようとする素振りを見せる。耳を伏せ、周囲の馬を警戒するようにキョロキョロと視線を動かしていた。弓は手綱を巧みに操り、シャドウスプリントをなだめながら折り合いをつける。
後方の騎手たちから怒声が飛ぶ。
「危ねえぞ! まっすぐ走らせろ!」
「ぶつかるだろ!」
だが、弓は動じない。静かに馬に語りかける。
「まだよ、もう少し我慢して」
四コーナー手前、先頭をひた走っていたサンダースパークの脚色が鈍る。待ち構えていた馬群が一気に襲いかかり、レースは混戦模様となる。
シャドウスプリントは、再び外へと逃げようとする。だが、弓は的確な手綱さばきと体重移動で、それを抑え込む。
(大丈夫。もう少し……もう少しだけ我慢して)
四コーナーを回り、馬群がバラけ進路が開けた。
(よく耐えたわね。さあ、行きましょう)
弓が手綱をしごき、鞭を一閃する。
シャドウスプリントが、まるで解き放たれた矢のように加速する。
瞬く間に馬群を抜け出し、視界の先には広々としたターフが広がる。背後で響いていた地鳴りのような蹄音が、次第に遠ざかる。
(ほら、やればできるじゃない)
だが、勝負はまだ終わらない。
残り200メートル、風切り音の向こうから、新たな蹄音が迫る。
弓がちらりと振り返る。
そこには、桜木茜の駆るゼロブレイクがいた。
必死の形相で鞭を振るう茜。
(やっぱり、あなたね。位置取りも、追い出しのタイミングも申し分ない……でも、惜しかったわね)
ゼロブレイクが猛然と追い上げる。
一馬身、半馬身、クビ差……
弓の背中が、茜の視界に飛び込む。
「行ける!」
茜が最後の一鞭を入れた、その瞬間——ゴール板の瞬きが過ぎ去った。
結果は、アタマ差。
11番人気のシャドウスプリントが、1番人気のゼロブレイクを抑え込んでの勝利だった。
スタンドから歓喜と悲鳴が入り混じった声が響く。
弓は、首を激しく振って興奮するシャドウスプリントをなだめながら、検量室前へと戻ってきた。
そこへ迎えた調教師の顔には、喜びの色はない。
「俺は『逃がせ』と言ったはずだが」
「こんなハイペースで逃げたら潰れていました」
「理由は分かっているはずだ」
シャドウスプリントは幼い頃、放牧地で他馬に蹴られて以来、馬ごみを極端に嫌うようになった。だからこそ、これまでのレースでは常に先頭に立ち、逃げの戦法を取ってきたのだ。
だが、弓はこのレースの流れを読み、あえて馬群の中に閉じ込めた——前へ行かせず、折り合いをつけさせるために。
「でも、勝ちました」
弓はヘルメットのバックルを外し、微笑んでみせた。
調教師は、何かを言いかけたが、拳を震わせながら立ち去った。
そこへ、茜が駆け寄る。
「天野さん、あの騎乗は危険すぎます!」
「シャドウスプリントはパニック寸前でした! あんなことをすれば、馬が壊れてしまいます!」
弓は軽く肩をすくめる。
「壊れる? それは違うわね」
「違うって……!」
「天野さん、ありがとうございました!」
突然、馬主の日比谷明俊が割って入り、弓に握手を求める。日比谷は日本馬主協会連合会の会長だ。
「先ほど、牧場から連絡がありましてね。シャドウスプリントを種牡馬として迎えたいと。こいつは亡くなった家内のお気に入りでして、引退した後、引き取り手がなかったらどうしようかと思っていたんですよ。いやあ、本当に良かった!」
涙ぐみながら、馬主は弓の手をしっかりと握る。
「お役に立てて、光栄です」
馬主は感激した面持ちで、調教師のもとへ駆け寄っていった。
弓は「そういう事よ」と言わんばかりに茜を見つめる。
「だからって、どうしてあんな乗り方をするんですか?」
「そうね⋯⋯」
弓は茜の耳元に顔を寄せて囁いた。
「私とひと晩一緒に寝たら教えてあげる」
茜は弓を引き離すと、キッと睨みつける。
「ふざけないでください! あんな無茶な乗り方していたら、いつか天野さん自身も……」
茜がそう言った瞬間、乾いた音と共に弓のヘルメットが宙を舞った。
興奮の収まらないシャドウスプリントが後ろ足を高く蹴り上げていた。
「大丈夫ですか!」
大勢の係員が一斉に弓の周囲に集まってくる。
茜は何が起きたのか把握できず、呆然と立っていた。
「大丈夫よ。ヘルメットを蹴られただけだから」
何事もなかったかのように弓はヘルメットを拾い上げる。
「そうね。気を付けるわ」
そして、シャドウスプリントの額を優しく撫で、ひとこと囁くと、検量室へと入っていった。
立ち尽くす茜の耳に、弓が囁いていた言葉が響いた。
「下手くそ」
***
「私、何かしくじりましたか!?」
美浦トレーニングセンターの影山厩舎、広い休憩室に茜の怒声が響いた。手に持っていたグラスをテーブルに叩きつける。
「位置取りも、追い出しのタイミングも完璧だったのに、気づけば天野さんが遥か前にいて……!」
「いや、お前は悪くねえ。馬の調子も含めて完璧だった」
厩舎最年長の厩務員・大滝竜吾が、タバコに火をつけながら慰める。
「レース展開の“アヤ”だろう」
「そんなものじゃありません! 天野さんは読んでたんです。ハイペースになることも、荒れた内側を避けて皆が外へ持ち出すことも」
茜はグラスの中身を一気に飲み干した。
「それに、あの騎乗技術……あんなに興奮する馬を完璧に折り合わせるなんて。やっぱり流石です……」
「つまり、天野が一枚上手だったってことだな」
茜は悔しそうに両手でテーブルを叩く。
「竜さんはどっちの味方なんですか!?」
「自分で言ったんだろう? ……それより、誰だ茜に酒を飲ませたのは?」
「酒じゃないっす。ルイボスティーっす」
若いスタッフが冷蔵庫から口の開いた紙パックを取り出して見せる。
「酒なしで絡み酒とは恐ろしいな。で、お前は結局、天野が好きなのか嫌いなのか、どっちなんだ?」
大滝の問いに、茜はうつむいた。
「……どっちも、です」
膝の上で手を組み、静かに呟く。
「正直、人としては好きになれません。木で鼻をくくったような態度、人を馬鹿にしたような発言……」
思い出すのは、鋭い視線や耳元で囁かれた言葉。
「でも、馬乗りとしては見習うことばかりなんです。どこを取っても敵いません。手綱さばき、体の使い方、レース中の位置取り……控えめに言って天才です」
茜は今年でデビュー8年目。26歳にして通算400勝。G1の勝利こそないが、重賞は幾つも制している。それでも、天野弓の存在が彼女の輝きを霞ませた。5歳年上の彼女が、デビュー8年目のときには史上最速900勝を達成していた。
茜は立ち上がり、叫ぶように言った。
「一体私はどうしたらいいんですか!?」
「ダービーを勝ちゃあいいんだよ。天野も、ダービーだけはまだ獲っていない」
休憩室のドアが開き、調教師・影山幸一がゆっくりと入ってきた。
「茜、こいつに興味はないか? 来年4月にうちに入厩する馬だ」
影山は一枚の書類を差し出す。
「なかなかのクセ馬らしい。まあ、天野なら乗りこなすかもしれないな」
その一言に、茜はムッとして書類をひったくる。
「白毛の牡馬ですか。ノルデンシュバルツとスノーキャロルのアウトブリード……悪くはないですけど、パッとはしないですね。高辻牧場って聞いたことないです。先生は見に行かれました?」
「ああ。写真以上にいい馬だ。トモの張り、体のバランス、どれも水準以上だ。なんでも当歳時に放牧地の柵を飛び越えたらしい」
「ほう……」
大滝が目を見開く。
「それだけじゃない。馴致を始めた途端、逆立ちする勢いで後ろ脚を跳ね上げ、乗っていた姉ちゃんを振り落としたらしい。それに、放牧に出すたび他の馬にケンカを売って傷だらけで戻ってくる。人にも噛みつこうとするしな」
影山はどこか楽しそうに話す。
「能力はありそうですが……まともに走るんですか?」
「そこは育成牧場の仕事だ。問題は実際のレースでどうか。騎手の腕次第だな。自信がねえなら無理にとは言わねえが」
影山はニヤニヤしながら茜を見つめる。
「……乗ります」
「そう言うと思ってたよ」
影山はニコニコしながら茜の肩を叩いた。
「こいつが3歳になる頃には、俺は定年前ラストイヤーだ。最後にダービーを獲らせてくれ」
「それで勝てるなら苦労しません」
「馬主のシュバルブランのホームページを見たんですけど、胸を打ちますよ。『舞別をもう一度輝かせるために、牧場主の最初で最後の大博打』だそうです」
男性スタッフがパソコンを見ながら言った。
「いいねえ。最近はそういう物語のある馬が少なくなった」
大滝が画面を覗き込む。
この馬でダービーを獲れたら、天野弓の呪縛を断ち切れるだろうか。
茜はもう一度書類を手に取り、白毛の馬の写真をじっと見つめた。
***
4月の知床の海岸。
明け方の海には波の音しかない。
空に輝く星々は、東から昇る陽の光に溶けていく。
ずぶ濡れの弓が仰向けに横たわり、その横では弓と同じ年頃の少女が倒れていた。
少女の顔は青白く、半眼のまま口をぽかりと開けていた。
弓は、少女が死んでいたことに安堵しながらも、自分が生き残った罪悪感に苛まれる。
身体を起こし、少女の頬にそっと手を添える。
その瞬間——
少女の目がカッと見開き、弓の手を掴んで口を開いた。
「どうして一緒に死んでくれなかったの」
——弓はハッと目を覚ました。
滞在しているホテルの天井が見える。
横を向くと、裸の女が寝息を立てていた。
(誰だっけ……)
思い出す。マイルチャンピオンシップの祝勝会で、自分のファンだと言って近づいてきた女だ。
確か「女とするのは初めて」とか言っていた。
弓は手櫛で髪をすきながら体を起こす。
名前は思い出せない。というか、そもそも覚えていない。どうせもう会うこともないだろう。
ベッドサイドのスマホが鳴る。
弓は腕を伸ばし、ディスプレイを確認した。
マネージャーの桐島マーク・タカシからだ。
電話の音で目を覚ました女が、弓の胸に頭を寄せてくる。
正直うざったいが、競馬関係者と深いつながりがあると後々面倒だ。
弓は女の頭を軽く撫でながら電話に出る。
「もしもし」
『桐島です。少し話が長くなるので、とりあえず服を着てもらっていいですか』
「盗撮とは、いい趣味ね」
隣の女が慌てて掛布団で上半身を隠す。
弓は微笑みながら、手で制した。
「慌てないで」
『そんなことしなくても天野さんが“裸族”なのは分かっていますし、そもそも僕は女性の裸に興味ありません』
「ああ、そうだった。小田川翔一筋だったわね」
『翔さまのことを呼び捨てにしないでください。まだ根に持ってますからね』
桐島はゲイで小田川の大ファンだ。
彼の紹介するコスメやメイク道具は全て持っている。
先々週、レース当日に急遽の乗り代わりがあり、弓は桐島を通さず小田川の所有馬に騎乗した。
弓は勝利し、口取り式で小田川と一緒に写真を撮ったが、そのことを桐島に伝え忘れた。
結果、桐島は憧れの小田川に会う機会を逃し、今も根に持っているのだ。
『今週の騎乗依頼馬、目を通していただけましたか? 今日中に返事が必要なんですが』
「ええ……そうだったわね」
弓はスマホを肩と耳で挟みながら、ブラウスを羽織る。
ソファに座り、テーブルの上の書類の束から適当に一枚ずつ手に取った。
「騎手に嚙みつく」
「他馬を蹴り飛ばす」
「レース中にコースをそれて柵を飛び越える」
——気性の荒さのエピソードがずらりと並ぶ。
「いいわ。レースが被っていなければ全部受ける。でも、グランドデュークは乗らない」
弓は一枚の書類を無造作にテーブルへ置く。
『有馬記念の出走もほぼ確定していますが』
「父も母も一流の血統。品行方正で賢い馬。4歳になって急激に力をつけ、今年は4戦4勝……」
『それのどこが気に入らないんです?』
「つまらない。それだけよ」
『お言葉ですが、天野さん。これはグランエターナルレーシング所有馬です。本来なら外国人騎手しか乗せないところを、向こうから依頼が来たんです。意味もなく断れば、今後の騎乗依頼が一切なくなりますよ』
(これだから競馬“サークル”は……)
「分かったわ」
ため息混じりに答えると、いつの間にか服を着た女が弓の頬にキスをし、手を振って部屋を出て行った。
物分かりのいい女で助かる。
『それで、来年入厩予定の馬なんですが……』
「ええ」
弓は資料をめくりながら相槌を打つ。
『有望株をピックアップしましたが、天野さん好みの馬というと……』
「……いなさそうね」
『はい』
ふと、一枚の資料に目が止まる。
「スノーキャロルの25は? 面白そうじゃない」
『それは影山厩舎に入厩が決まっています。おそらく桜木さんが乗るでしょう。まあ、小規模のクラブ法人の所有ですし、お望みなら交渉できますが』
「そう……茜が」
『天野さん?』
「ここは茜に譲っておくわ。でも、この子の情報は集めておいて」
『承知しました』
通話を切ると、弓はスノーキャロルの25の写真を見つめた。
(その白さは天使の翼? それとも死装束かしら)
弓はソファーにもたれかかると、天井を向いて目を閉じた。
瞼の裏では、少女の半眼と青白い顔が、なおも消えずに揺れていた。




