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Side陽菜 第2話

「高辻さんのところの仔馬、無事に産まれたそうですね」

 舞別町に一軒だけあるショットバーのカウンターで、富樫はロックのウイスキーを傾けながら隣の青山遥に話しかけた。富樫は株式会社Artemis Resortの東北・北海道支部経営企画室長で、遥が代表を務めるイルネージュファームは高辻牧場と一緒に事業提携を結んでいる。

「泰造さんは賭けに勝ったわけですね」

「まだよ。まだ仔馬が売れたわけじゃないわ」

 遥はバイオレットフィズのグラスを軽く回しながら答えた。

「でも、今をときめくノルデンシュバルツの子どもですよ。売れないわけがないでしょう」

 ノルデンシュバルツは国内GⅠを7勝したのち種牡馬入りし、以降も数々のGⅠ勝利馬を輩出。3年連続でリーディングサイアーとなっている日本屈指の名種牡馬だ。当然、種付け料も高額で、泰造が申し込んだ時点でその価格は2000万円に達していた。本来、高辻牧場のような小規模の牧場では手の届かない種だ。

 泰造は土地と家屋を担保に種付け料を借りた。もし胎児が流産したり、死産したり、あるいは買い手がつかないほどみすぼらしい仔馬に生まれたりすれば、借金だけが残る⋯⋯まさに大博打だった。

「よく種付けを認めましたね」

「もちろん止めたわよ。リスクが高すぎるって。でも押し切られたの。『スノーキャロルにノルデンシュバルツをつければ必ず走る。種牡馬になって戻ってくれば、うちらだけじゃなく日高全体の利益になる。俺の最初で最後のわがままだ』って。肺がんで死ぬかもしれない人に、そこまで言われて止められる?」

 遥はグラスの残りを一気に飲み干し、もう一杯注文した。

「それで、実際のところどうなんです? 走りそうですか?」

 富樫もウイスキーを一口飲んだ。

「可能性はあるわね。種牡馬の実績は折り紙付き、スノーキャロルの母親はイギリスの重賞を三勝してる。しかも、産まれた仔馬は五代前まで同じ血が入っていないアウトブリード。アウトブリードは精神的に落ち着いていて丈夫な馬になりやすいの。ノルデンシュバルツの血統は代々気性が荒いから、うまく中和されれば精神面でも扱いやすい馬になるかも」

「つまり、父と母の競走能力を兼ね備え、闘争心がありつつも扱いやすい馬になる……そんな都合のいい話、あります?」

「あるわけないじゃない。そんなに簡単なら、誰だって牧場経営してるわよ。でも、泰造さんは無謀な賭けをしたわけじゃないってこと。上手くいけば、スノーキャロルは高辻牧場の基礎牝系になり得る。ノルデンシュバルツの血統は日本の競馬界で三割以上を占めてるけど、スノーキャロルの血統にその血は一滴も入ってない。つまり、将来的にどんな種牡馬とも配合できる」

「よくそんな牝馬がいましたね」

「そうなるように作ったのよ。スノーキャロルの父、スノーベルは私の父が最後に作った馬。当時、うちの馬房がいっぱいで引き取れなかったのが悔やまれるわね」

 気づけば富樫はウイスキーを飲み干していた。

「なんてことはない。青山さんも思い入れがあるんじゃないですか」

「悪い?」

「悪いとは思いません。お気持ちはわかります。理解はできかねますが」

 富樫はウイスキーをもう一杯注文した。

「それにしても、アルテミスリゾートはよく反対しなかったわね」

「弊社としては、泰造さんの賭けが成功しようが失敗しようが構わないので」

 富樫がウイスキーに手を伸ばした瞬間、遥がさっと奪い取って一口飲み、富樫を一瞥した。 富樫は小さくため息をつき、もう一杯注文する。

「もし高辻牧場が借金で立ち行かなくなれば、弊社が買い取って観光施設を拡大するだけです。友梨佳さんはアルビノで視覚障害者手帳をお持ちですし、弊社に就職してもらえれば障害者雇用率も満たせます」

「抜け目ないわね」

「おそらくですが、泰造さんもそこまで考えていたと思いますよ。極端な話、どちらに転んでも良かったのでしょう。話を聞く限り、泰造さんは非常に聡明な方です。可能性や思い入れだけで銀行から2000万円も借りるとは思えません」

「まとまった資金と繁殖牝馬を残せないなら、いっそ牧場をたたんで孫娘に安定した生活を⋯⋯か」

 高辻牧場は広すぎた放牧地をイルネージュファームに売却し、その資金で厩舎を拡張。観光向けの乗馬や飲食店、グッズ販売も開始した。その結果、休養馬や養老馬の委託料、飲食店のテナント料、グッズの売上など、馬の生産だけに頼らない多角的な経営が可能になった。

 それでも、経済基盤はまだ盤石とは言えない。高辻牧場の経営をさらに安定させるには、話題性のある種牡馬と優秀な基礎牝馬がどうしても必要だった。

 規模の小さい高辻牧場がなくなったとしても、イルネージュファームとアルテミスリゾートの提携関係に大きな影響はない。生じるとすれば、イルネージュファームに入るはずの高辻牧場からの育成馬の預託料収入が減る程度だろうか。

 経営基盤の安定した牧場を残せないなら、いっそ廃業したほうが友梨佳に余計な苦労をかけずに済む⋯⋯そんな考えもあるかもしれない。

「私は……誰かに託せるのかしら」

 遥はグラスを傾けながら、ぽつりと呟いた。

 独身で、両親はすでに他界。親戚もいるにはいるが、皆離農している。牧場を継ぐ跡取りはいないのだ。

「美浦の彼とはどうなんですか?  厩務員でしたっけ?」

 富樫が探るように尋ねると、遥は肩をすくめた。

「調教助手よ。あいつ、まだ調教師の夢を諦めきれないみたい。向いてないって何度も言ってるんだけどね」

 遥の恋人、前川治は美浦トレセン・綿貫厩舎所属の調教助手。穏やかな性格と馬を見る確かな目を持つ男で、2年前から付き合っている。

 遥も今年で32歳。そろそろ将来を考えたいが、前川は調教師になる夢を捨てきれず、ずるずると今に至っている。

 遥は高辻牧場に生まれた仔馬を見てもらえないかと連絡を入れていた。もちろん、それは口実で、将来の話をするつもりだったのだが……未だ返事はない。

 遥の表情を見て、自分に火の粉が降りかかりかねないと察した富樫は、さりげなく話題を変えた。

「仔馬、買わないんですか?」

「うちが?」

「イルネージュファームというか、シュバルブランで」

 シュバルブランは、イルネージュファームが設立したクラブ法人、いわゆる一口馬主のクラブだ。自社生産馬を中心に日高の生産馬を購入し、広く出資を募る仕組みになっている。

「金額次第かしら。うちもギリギリだから」

「多少無理してでも購入した方がいいかもしれませんよ。『思い入れ』があるのなら」

「……どういうこと?」

「真田泰人さんはご存じですよね」

「当たり前じゃない。小田川さんは相当嫌ってるけど」

 真田泰人。馬主歴30年以上のベテラン。4年目で重賞初勝利を挙げると、以降G1を次々と制し、ついには牡馬・牝馬の三冠、ダービー4勝、JRA八大競走制覇まで成し遂げた。

 対して、小田川はイルネージュファームと懇意にしている馬主だが、馬主歴10年以上にもかかわらず、いまだG1未勝利。両者の実績はあまりに違いすぎる。

 しかし、近年ではクラブ法人がランキングの上位を占め、G1をはじめとした重賞タイトルのほとんどを独占している。真田ほどの大馬主といえども、ここ最近はG1を勝っていない。

「真田さんは、ノルデンシュバルツの仔の有望株……特に牡馬を探しているそうです。高辻牧場にも、いずれ声がかかるでしょう。大手の牧場で買うより『お買い得』ですから」

「やけに詳しいわね」

 遥が訝しげに目を細めると、富樫は肩をすくめた。

「弊社の顧客には馬主の方も多いもので。真田さんに買われたら、引退後の行き先も決まったようなものです」

「スタリオンステーションで繋養されて、高辻牧場には戻ってこないでしょうね」

「泰造さんとしても、青山さんに買ってほしいはずです」

 富樫が言い終えた瞬間、2人のスマホが同時に鳴った。

 富樫は画面を確認し、「申し訳ありません」と席を立った。

「娘が北海道に遊びに来るんですが、予定が早まって明日来るそうで。千歳まで迎えに行かなくてはいけません」

「そう。幸せそうで何より」

 遥はスマホをカウンターに置いたまま、軽く手を振った。

「青山さんの方は?」

「仕事で来られないって。……あいつ、勘づいたかな」

「お察しします」

 富樫は苦笑いしながらコートを羽織ると、「では」と店を後にした。

 遥はウイスキーを一口飲み、天井を見上げる。

 高辻牧場の仔馬は買いたいが、7月の競走馬セリで狙っている馬が何頭かいる。

 今のシュバルブランに、そのすべてを買う余裕があるだろうか。

「お父さんなら……どうするかな」

 遥の脳裏に、父と、彼女が初めて取り上げたスノーフェアリーの姿が浮かんだ。

 そして、馬房で冷たく横たわるスノーフェアリーと、母を求めて立ち上がる仔馬、スノーベルの姿が……。


 カラン——


 バーのドアが開く音が、遥を現実へと引き戻した。

「遥さん?」

 店に入ってきた陽菜が目を丸くする。

「え、遥さんいるの!」

 遅れて入ってきた友梨佳も驚きの声を上げた。

「やっぱり、そうなるわよね……」

 遥は呟くと、グラスの中身を一気に飲み干した。

「ちょうどよかったわ。2人とも、こっちに来て一緒に飲みなさい」

「えー。今日は陽菜の就職祝いだったんだけど」

「なおさらいいじゃない。雇い主がここにいるわよ? 何か不満?」

「……別に嫌じゃないけど……」

 友梨佳はちらりと陽菜を見る。

「私はいいよ。人数多い方が楽しそうだし」

「私は2人のほうが……」

 友梨佳が小さく呟く。

「うん?」

 陽菜が首をかしげると、友梨佳はドキッとして目をそらした。

「陽菜がいいなら、私も……」

 遥は、少し強引すぎたかと反省し、お詫び代わりに楽しい話をすることにした。

「あなたたちにいい話が3つあるの。ひとつ目、スノーキャロルの仔は、うちが買う」

「ほんと?」

「ほんとですか?」

 陽菜と友梨佳が同時に食いついた。

「泰造さんの夢は私たちで叶えるの。他の誰にも渡さないわ」

「やだ、遥さんイケメン」

 友梨佳が両手で口を覆う。

「ふたつ目、私のバカ彼氏の話を聞かせてあげる」

 陽菜と友梨佳が手をつなぎながら何度も大きく頷いた。思ったとおり恋バナは鉄板だ。

「みっつ目、ここは私の奢りよ。好きなの頼みなさい」

「遥さん、それ友梨佳に言ったら駄目なやつです!」

 遥がしまったと思った時には遅かった。

「やったー! マスター、とりあえずフードメニュー上から下まで全部ね!」

 陽菜が友梨佳の袖を引っ張る。

「友梨佳、節度を持ってよ。大人なんだから」

「大丈夫、分かってるよ。フードメニュー3回転半しかしないから」

「トリプルアクセルみたいに言わないで」

「いいわよ。好きなだけ食べなさい。馬を買うより安いでしょ」

 遥はテーブル席に移動しながら、こっそりとスマホでクレジットカードの限度額を確認した。


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