Side陽菜 第16話
病室の窓の外には、先日の荒天が嘘のように澄み渡る青空が広がっていた。
カーテン越しに差し込む柔らかな日差しが、ベッドの上の陽菜を優しく包み込んでいる。
「……生きてるんだな、私」
窓の外をぼんやりと見つめながら、陽菜は自嘲気味に呟いた。
彼女は舞別総合病院に搬送され、ICUで二日間昏睡状態にあった。
手足の軽度の凍傷と頭部の裂傷こそあったものの、命に別状はなく、三日目の午後には一般病棟へ移った。
しかし、低体温と出血による体力の低下、加えて硬膜下血腫の可能性もあるため、しばらくの入院が必要とされた。
病室を移るとすぐにイルネージュファームの仲間たちが見舞いに訪れた。
遥は病室に入るなり烈火のごとく陽菜を叱り飛ばし、加耶は青ざめ、あの大岩が優しくフォローに入るほどだった。
しかし最後には涙声になりながら「生きていてよかった……」と陽菜を強く抱きしめた。
その腕の温もりを感じながら、陽菜の胸には反省の念が込み上げた。
同時に、一番会いたかった友梨佳が見舞いに来ていないことに、一抹の寂しさを覚えた。
入院してから、友梨佳の姿を一度も見ていない。
スマホやパソコンは雪に埋もれ壊れてしまい、メールもできない。
公衆電話から連絡を取ろうにも、彼女の電話番号を覚えていなかった。
デジタル社会に依存していたことを、身をもって思い知らされた。
遥の話では、友梨佳は陽菜を救助した翌日、高熱で寝込んだもののすぐに回復したらしい。しかし、牧場の仕事が忙しく、見舞いには来られないのだという。
吹雪の中で遭難したときの記憶は曖昧だった。けれど……
「友梨佳が助けてくれた」
それだけは、はっきりと覚えている。
(……あのとき、私は……)
ぼんやりと、彼女の温もりが蘇る。
陽菜は、自分の両腕をギュッと抱きしめた。
震える身体を包み込んでくれた腕の力強さ。
必死に名前を呼び続けてくれた声。
意識が朦朧とする中で、陽菜は確かに言った。
『友梨佳のこと、大好きだよ……』 『今まで……ありがとう……』
思い返せば、それはまるで遺言のようだった。
けれど、あのときの気持ちは、紛れもなく本心だった。
極限状態の中で最後に浮かんだのは、ただ友梨佳のことだけ。
それこそが、何よりも雄弁に真実を語っていた。
(……私は、ずっと前から気づいていたのかもしれない)
でも、怖かった。
今まで通りの関係が壊れるのが怖くて、自分の気持ちに蓋をしていた。
けれど――。
「……はぁ」
陽菜は静かに息を吐いた。
コンコン。
ドアをノックする音が、思考を引き戻した。
ドアの隙間から、エマが顔を覗かせる。
「陽菜先輩、大丈夫ですか?」
おずおずと尋ねるエマ。
「大丈夫だよ」
陽菜が微笑むと、安心したようにエマが病室へ入ってきた。
だが、その姿を見た瞬間、陽菜は息をのんだ。
エマの右足は足先から骨盤までギプスで固定され、車椅子に乗っていた。
後ろには、彼女の母親が付き添っている。
「エマちゃん……それ……」
「へへ、お揃いですね」
陽菜はエマの母親に視線を移した。
「実は私もこの前の吹雪で交通事故に巻き込まれて右足を骨盤まで骨折してしまったんです……。 骨がつけば歩けるようにはなるんですが、お医者様からは障害が残るかもしれないって言われていて……」
陽菜は思わず口を覆った。
自分が事故に遭ったときの記憶がフラッシュバックする。
しかし、相当な重傷であるにもかかわらず、エマの声は明るかった。
「それを聞いたときは、正直絶望的でした。ジョッキーにはなれないし、乗馬もできない。もう生きている意味なんてないって……。 それで、わたし、友梨佳先輩に電話したんです」
「友梨佳に?」
「ジョッキーになれない、馬にも乗れない。そんなの、もう生きてる価値がない。一生障害が残るくらいなら、死んだ方がマシだって……」
陽菜の胸の奥が、かすかに痛む。
それは、かつて自分が抱いた感情と重なるものだった。
「そしたら友梨佳先輩が、病室に飛び込んできて……」
エマは、友梨佳とのやり取りを語り始めた。
目に涙を浮かべながら鬼のような形相で友梨佳はエマの病室に入って来た。
戸惑うエマの母親の前を黙って通り過ぎると、エマがくるまっている布団を引きはがし、エマの胸ぐらをつかんで起き上がらせた。
「痛い!」
と、エマが言うが早いか、友梨佳はエマの頬を平手打ちした。
「片足に障害が残るかもしれないくらい何? 甘ったれるんじゃないわよ! 世の中には歩きたくても歩けない人がたくさんいるの! 夢がかなう直前に事故に遭って、両足が動かなくなって、それでも立ち直って前に進んでいる人がいるの!」
エマの胸ぐらをつかむ手に友梨佳の涙が落ちた。
「それどころか、その人はあたしの事を救ってくれたの。あたしの居場所を作ってくれたの。その人がいなかったら、あたしはここにいないし、エマも馬に乗っていない」
「友梨佳先輩、それって……」
友梨佳はエマをさらに揺さぶった。
その拍子にエマの体がナースコールを押した。
『はい。どうかしましたか?』
「それが何? 骨がくっつけば歩けるようになるくせにメソメソして! 意気地なし!」
友梨佳はもう一度エマを平手打ちした。
『結城さん? 今何か音がしましたけど。結城さん?』
「ジョッキーがダメなら馬術選手があるでしょ。足に重い障害が残ってもパラ馬術だってある。やれることをやりなさいよ! それでもまだ死にたいなら、お望み通りあたしが殺してあげるから!」
『殺……。 350号室コードブルー。350号室コードブルー』
全館放送が響き渡ると、一瞬にして大勢の病院スタッフが駆け込んできた。
友梨佳とエマがポカンとしていると、屈強な警備員2人が友梨佳をエマから引き離す。
「え、何? え、誰?」
戸惑う友梨佳を両脇から抱えて、警備員は友梨佳を病室から連れ出したのだった。
「それで、病院を出禁になったの?」
呆れたように陽菜が言った。
「はい。お母さんと一緒に訳を説明したんすけど、安全管理規程があるらしく⋯⋯」
エマの母も申し訳なさそうにうつむく。
そういう事かと陽菜は思った。
恥ずかしくて、仕事が忙しくて見舞いに行けない事にしてもらったのだろう。
(どうせすぐバレるのに)
友梨佳が可愛いらしく思えて、思わず吹き出した。
「でも、友梨佳先輩は真剣でした。『その人』って陽菜先輩の事ですよね? わたし、それを聞いて何も言えなかったです」
友梨佳が自分のことを想っていることを聞かされて、陽菜は嬉しく思っていた。
「それから段々、自分もやってみようって思えるようになって。そしたら、陽菜先輩が入院しているって知って、お見舞いがてらお礼を言いに来ました」
「お礼なんて。私なにもしてないよ」
「いいえ。陽菜先輩は背中で生き様を教えてくれました。陽菜先輩がいなかったら、今ごろ引きこもりになっていました」
つい最近まで友梨佳と比較して勝手に落ち込んで、挙句に吹雪で遭難した身としては過分すぎる評価だ。
「いや、私なんて⋯⋯」
「レッスンの時いつも友梨佳先輩は言っていました。陽菜は凄い。こうして馬に関われるのは全部陽菜のおかげ。あたしなんて陽菜の足元にも及ばない。陽菜に出会えて良かった。そんな陽菜が大好きだって」
最後のセリフはエマのリップサービスだ。だが、毎回陽菜の事を聞かされた身からすれば容易に想像がつく。
そして、陽菜も分かりやすく反応する。
「友梨佳が⋯⋯」
「はい。わたしの目標は友梨佳先輩の様に馬に乗れて、陽菜先輩の様に芯の強いジョッキーになることです。当面の目標は天野弓ですかね」
天野弓は女性初のリーディングジョッキーで、今年もその座を確実にしている。
その美貌と才能でデビュー当時からメディアを賑やかし、競馬に興味のない人もその名を知っている押しも押されぬトップジョッキーだ。
まだ会ったことはないが、当然陽菜も知っている。
「じゃあ、頑張らないと」
陽菜が微笑みかける。
「はい! まずはリハビリ頑張ります!」
「あの、こんな所でお話しするのもどうかと思うのですが⋯⋯」
エマの母が笑い合うふたりに割って入った。
「マシュマロちゃんの出資枠ってまだ空いてますか?」
数日前まで10口しか集まっていなかったのだ。満口になっているはずはない。
「多分まだ空いていると思いますが……」
「それでしたら、一口出資させていただけないでしょうか?」
「え、本当ですか!? もちろん大歓迎ですが……あ、書類が何もない」
思ってもみなかった申し出に慌ててしまい、ある訳のない申込書類を思わず探してしまう。
「でも、いいんですか? 一口の価格は安くないですし、その他にも費用が……」
「ええ。分かっています。以前、エマからパンフレットをもらいましたから」
「それでも出資していただけるんですか?」 出資した分ペイできるか……」
マシュマロの募集に苦労した陽菜としては、エマの母が簡単に出資したいと言う理由が分からなかった。ひょっとしたら儲かると考えているのかもしれない。
「出資した金額をペイできるかは分かりませんが⋯⋯」
「私も一応馬産地で生まれ育った人間です。簡単に勝てるとは思っていません」
エマの母はフフっと笑った。
「じゃあどうして⋯⋯」
「エマからマシュマロが産まれた経緯を聞きました。強い馬造りだけでなく、この地域全体の事を考えた泰造さんの想いに心を打たれました」
エマの母はエマの頭に手をおいた。
「それにマシュマロちゃんは毎日他の馬とケンカして傷だらけになっているでしょう? なんだか小さい頃のエマを見ている様な気がして⋯⋯」
「毎日ケンカなんていてないよ」と、エマは恥ずかしそうに小さい声で文句を言った。
「だから泰造さんの夢に乗っかってみようと思ったんです。一緒に娘に良く似た馬の活躍に心躍らせて、地域の活性化に貢献できるなんて素敵じゃないですか」
「Horse Racing Togetherだね」
「そうね。一緒に競馬をしよう。一緒に夢を分かち合おう。とても素晴らしいと思います」
陽菜は頭を殴られた気がした。それと同時に熱いものが心の底から湧いてきた。
(なんだ。最初から分かってたことじゃないか。一緒に夢を分かち合いたい。18の時に友梨佳と一緒に牧場をしたいと思った理由そのままだ)
陽菜は涙が溢れるのを止められなかった。
小田川が伝えたかった事がようやく解った。
一口馬主に出資する人は、経済的利益やステータスを求めている訳じゃない。その競走馬の持つ物語に夢を託すのだ。
出資者が期待するリターンが夢ならば、生産者や育成に携わる者の夢や想いを伝えなくてはならない。仔馬の性格や牧場での様子を、我が子の通信簿の様に伝えなくてはならない。
そんな簡単なことを忘れていた。
それを踏まえて思い返してみると、自分の作った募集馬のホームページは寒気がするほどに無機質だった。
「陽菜先輩、大丈夫っすか?」
泣き止まない陽菜を心配してエマが声を掛ける。
「大丈夫、これは嬉し涙だから」
指で涙を拭いながら陽菜は笑顔をみせた。
「マシュマロは3月の嵐の夜に産まれました。友梨佳と私が祈ったんです。誰よりも速く、誰よりも烈しい馬になりますように。日高の希望となるような名馬になりますようにって」
「じゃあ、きっと活躍しますね。100万円を出す価値があります」
「でも、何だか申し訳ないです。決して安くはないのに⋯⋯」
「お金のことなら気にしないでください。こういう事言うのも何ですが⋯⋯」
エマの母は陽菜の耳元に顔を近付ける。
「別れた夫から慰謝料をふんだくったんです」
え? という顔をする陽菜に、エマの母はイタズラっぽく笑った。
エマは訳が分からないままに、母が笑っている様子を見て一緒に笑った。
陽菜もそれにつられて笑うのだった。