Side陽菜 第11話
11月中旬を過ぎ、朝晩は一段と冷え込むようになった。日高の山々は秋の装いに変わり、間近に迫った冬の準備を始めている。イルネージュファームの放牧地では、サラブレッドたちが白い息を吐きながら駆け抜けていた。
午前8時頃、布袋田は開発が遅れていたレーザー網膜投影型スマートグラス「エクリプスⅡ」の完成品を携え、イルネージュファームに到着した。当初の予定では10月中の納品だったが、遅延が生じていた。
「札幌も寒いですが、日高はさらに冷えますね。完成品の納品が遅れ、申し訳ございません」
出迎えた遥と友梨佳に、布袋田は挨拶をした。
「いえ、日曜日にご足労いただき、ありがとうございます。外は寒いので、まずは事務所へどうぞ」
「春っち、久しぶり」
友梨佳が手を振ると、布袋田は遥に遠慮しながら小さく手を振り返した。
「こちらへどうぞ」
加耶が布袋田を案内し、友梨佳も続こうとした時、遥が友梨佳のシャツの襟を掴んだ。
「友梨佳、仕事の話をしている時は、せめて敬語を使いなさい。それができないなら、黙ってて」
普段より低い声で、遥は友梨佳の耳元で囁いた。
「……はい、ごめんなさい」
さすがの友梨佳も素直に従うしかなかった。
事務所では、イルネージュファームの主要スタッフと泰造が、布袋田のプレゼンテーションに耳を傾けていた。
「こちらが、弊社が開発したレーザー網膜投影型スマートグラス『エクリプスⅡ』です」
布袋田が手に持っていたのは、フレームがやや太く、偏光レンズが付いたスポーツサングラスのようなスマートグラスだった。
「フレームに搭載された超小型カメラで捉えた映像をレーザー変換し、網膜に直接投影する技術を用いています。目のピント調節機能に依存しないため、例えばアルビノのように黄斑形成異常による弱視の方でも、クリアな視界を得ることが可能です」
「ここにいるスタッフは、俺を含め視力に問題がある者は少ないのですが、我々が使用するメリットは何でしょうか?」
事務所の奥にいた小林が質問した。小林は33歳ながら、イルネージュファームでは大岩に次ぐ古参であり、主に育成部門で仔馬の調教・育成を担当していた。
「エクリプスⅡの最大の特徴は、スマートフォンとの連携による高度なAR(拡張現実)機能です。従来の技術では視力に依存するため、データ表示と周囲の映像が重なると見えにくくなっていましたが、弊社の技術では視力に依存せず、現実空間にデータを重ねて表示できます。競走馬の調教において、非常に有用だと考えています」
布袋田はパソコンを操作し、スクリーンにイメージ映像を映しながら説明した。
「具体的には、どのようなことが可能ですか?」
遥が質問した。
「馬の心拍数、速度、200メートルごとのラップタイム、走行位置などを表示できます。これらのデータはクラウドに保存され、蓄積が可能です。さらに、小型カメラの映像をAI解析することで、馬のストライドから疲労の蓄積や故障のリスクを判断する機能も搭載しています」
事務所のスタッフからは感嘆の声が上がった。調教において、疲労と故障は常に隣り合わせのリスクだからだ。
「映像はリアルタイムでパソコンで確認でき、クラウドにも保存されるため、後から見返すことも可能です」
友梨佳は、自分が使用していたスマートグラスが試作品でスマートフォンと連携していなかったことに安堵した。もし連携していたら、札幌から小樽までの間、陽菜の顔を凝視していただけでなく、着替えの際にスマートグラスをかけたままふざけていたため、下着姿を全員に晒してしまうところだった。
「百聞は一見に如かずです。よろしければ、実際に試していただけると幸いです」
「そうね、小林君、準備をお願い」
「うす」
そう言って小林は立ち上がった。
入厩を控えた2歳馬の走行映像が、パソコンの画面に映し出されている。画面の前には周回トラック脇に集まった遥たちが、真剣な眼差しでそれを見つめていた。
「15-15で走らせても、心拍数が上がってないな。負荷が軽すぎる」
画面を見ながら、大岩が唸る。
「15-15」とは、1ハロン(200m)を15秒で走るペースのこと。競走馬の基礎を作るための基本的な調教だが、今の映像では負荷が足りていないことが明らかだった。
「指示を出したのはお前か? ずいぶんとヤキが回ったんじゃないか、なあ、厳」
椅子に座った泰造が、からかうように笑う。
「上下のブレが大きい。騎乗フォームが安定してないのかな? 馬に負担がかかっちゃう」
加耶も画面を見ながらつぶやいた。
「スマホと連動しているので、この場で小林様に指示を出すことも可能です」
布袋田がスマホを差し出すと、遥がそれを受け取り、指示を送る。
「小林君、負荷が軽いから、次回から14-14で走らせて。あと、これが終わったら残って厳さんにフォームを見てもらいなさい」
『え、居残りってなんスか!?』
小林の素っ頓狂な声に、周囲から笑いが起こった。
「すごい時代になったもんだな、厳」
「ああ。俺たちは兄弟子や親方に殴られながら、必死に技術を盗もうとしてたもんだけどな。降る雪や、昭和は遠くになりにけりってか」
「何言ってるの。ふたりのおかげで今があるのよ」
遥は本心からそう思っていた。父が急逝し、代表として何もできなかった自分を支えてくれたのは、大岩と泰造だった。ふたりの知識と経験がなければ、イルネージュファームはとっくに潰れていたはずだ。
「それで、このデバイスの導入費用はどれくらい?」
調教効率の向上は目に見えていたが、新技術の導入には高額なコストがかかる。今のイルネージュファームに、余裕はなかった。
「弊社は競走馬の調教データを持っておらず、牧場への販路もありません。毎月データを提供していただき、貴社のホームページで宣伝していただければ、無償で提供します」
「陽菜、できる?」
「データ提出用のフォーマットがあれば。ホームページもバナー広告ならすぐに対応できます」
「布袋田さんを事務所に案内して。契約を詰めましょう」
遥が立ち上がると、周囲から歓声が上がる。布袋田も弾けるような笑顔で、遥と友梨佳と固く握手を交わした。
「友梨佳、でかした!」
「札幌まで行った甲斐があったな!」
スタッフたちは口々に友梨佳を称賛する。
「友梨佳、モンキー乗りを教わったら? マシュマロに乗って調教したいでしょ?」
遥の提案に、さらに場が沸いた。
乗り手が増えれば育成部門としては助かる。さらに、物心ついた頃から馬と接し、騎乗技術も高い友梨佳のような人材は貴重だ。
これまでは弱視のため競走馬を走らせての調教はできなかったが、エクリプスⅡがあれば、それも可能になる。
「えっ、本当に? やったー! やりたい!」
「ものにならなかったら、すぐ降ろすからね」
「大丈夫、あたしの運動神経なめないで。ね、陽菜」
「……う、うん。友梨佳なら大丈夫だよ」
陽菜の声のトーンが、わずかに低かった。
遥や布袋田たちが事務所へ向かう中、陽菜はその場にとどまる。
「陽菜?」
友梨佳だけが、その異変に気づいた。
「大丈夫。今日はもう帰るね」
「何かあった?」と声をかけようとしたその時、大岩の声が遠くから響いた。
「友梨佳、早く来い! モンキー乗りを教えてやる! 悪いが、俺は昭和のやり方しか知らんぞ!」
鞭を振り回しながら叫ぶ大岩の顔は、どこか嬉しそうだった。
「え、厳さん、やば……」
「私は大丈夫だから。行ってきて」
「……うん、わかった。後でLINEするから」
陽菜は黙って頷いた。
友梨佳は後ろ髪を引かれるように陽菜を一瞥し、駆けていく。やがて、彼女の姿は人の輪の中に消えていった。
自分と友梨佳、この牧場での立ち位置の違いを、まざまざと見せつけられた気がした。
陽菜は目を伏せ、そっと視線を逸らした。