Side陽菜 第1話
その日、日高地方は朝から冷たい雨が降り続いていた。昼を過ぎる頃には雨脚が次第に強まり、やがて横殴りの風が吹き荒れた。三月の太陽が日高山脈の稜線に沈む頃には、雨は暴風雨へと変わり、新冠川沿いの木々は激しく揺れ、枝が擦れ合う不気味な音が響いていた。
アパートのベッドで浅い眠りについていた陽菜は、枕元で震えるスマートフォンの音に目を覚ました。ディスプレイに表示された名前を見て、急いで応答する。
「もしもし、陽菜? もうすぐ産まれそう……!」
電話の向こうから、友梨佳の緊張した声が聞こえた。
「出産に立ち会うんでしょう? イルネージュファームに連絡して、厳さんにも来てもらって!」
陽菜は一瞬、まだ寝ぼけた頭を振り払うように瞬きをした。
「わかった。すぐ行く!」
通話を終えた陽菜は、パジャマ姿のまま素早く車椅子へと移る。そしてベッドサイドの引き出しから自己導尿カテーテルを取り出し、トイレへと向かった。
友梨佳の家はバリアフリー設計になっているため、いつでもスムーズにトイレに行ける。出発前に導尿を済ませておけば、レッグバッグは必要ないだろう。念のため、昨日のうちに浣腸もしておいた。これなら不意に漏れる心配も少ない。陽菜は普通のショーツを履くことにした。
身支度を整えると、陽菜はすぐさまアパートの駐車場へと向かった。外はまだ暗く、雨は勢いを増している。車椅子のタイヤに泥が跳ねるのも構わず、愛車に乗り込み、エンジンをかける。
ワイパーが雨粒を弾く中、陽菜は新冠川沿いの国道を走り、高辻牧場へと急いだ。途中、細い脇道に入り、しばらく進むと、目の前には広大な牧草地が広がっていた。丘の斜面にはまだらに雪が残り、その頂には厩舎が一棟、雨に濡れながら佇んでいる。
その中では、白毛の繁殖牝馬・スノーキャロルが、出産の兆候を見せていた。スノーキャロルは高辻牧場の牧場主・高辻泰造が昨年購入した馬であり、この牧場で繋養されているスノーベルの最後の産駒だった。
破水してからというもの、スノーキャロルは落ち着かず、馬房の中を歩き回っている。その様子を泰造と孫娘の友梨佳が固唾をのんで見守っていた。
「大岩さんに連絡しました。もうすぐ来ると思います。獣医の大久保先生にも状況を伝えて、何かあればすぐに来てもらえるようにしてあります」
車椅子をこぎながら、主取陽菜が厩舎に入ってきた。レインコートは雨に濡れ、あちこちに枯葉と牧草が付着している。
陽菜と友梨佳は18歳の時、この牧場で出会って以来の親友だった。陽菜は中学生の頃、事故で下半身不随となり、そのリハビリのため、夏休みを利用して横浜から日高の舞別町に滞在していた。クリスチャンでもある彼女は、礼拝の帰りに立ち寄ったトシリベツ教会で、偶然友梨佳と出会った。
2人の親交は陽菜が帯広畜産大学に進学してからも続き、ほぼ毎週のように帯広か舞別で会っていた。そしてこの3月、陽菜は大学を卒業し、4月から隣接するイルネージュファームに事務職として就職することが決まっていた。
「雨の中、すまないね、陽菜さん」
泰造が労わるように言う。手に握られた杖、やせ細った体⋯⋯。 彼の肺にステージⅢのがんが見つかったのはちょうど1年前だった。手術は成功したものの、抗がん剤治療の影響で体力は大きく落ちていた。その姿を見るたび、陽菜の胸は締め付けられた。しかし、両親と祖母を亡くしている友梨佳が気丈に振る舞う中、自分が取り乱すわけにはいかないと、努めて平静を保っていた。
陽菜はスマートウォッチに目を落とす。時刻は午前4時30分、心拍数は90を超えていた。
「破水してから5分経過……私の心拍数も90超えてる」
「陽菜、緊張しすぎ」
そう言って笑う友梨佳の表情も、引きつっていた。
通常分娩では、破水してから胎児の両足が出るまで5分以内、分娩完了まで20~30分が目安とされる。しかし、破水後5分経っても足が出ない場合、何らかの異常が考えられ、40分以上経過すると胎児の生死に関わる可能性が高まる。
陽菜の脳裏には、大学で学んだ異常胎位の知識が駆け巡っていた。中でも最悪なのは「ドッグシッティング」と呼ばれる両臀部屈曲位、4本の脚が同時に膣口へ出る状態だ。帝王切開が適応されるものの、胎児がすでに死亡しているケースが多く、その場合、胎児を切断し、上半身と下半身を別々に引き出すという凄惨な方法が取られる。
陽菜は大学の実習で一度だけその場面に立ち会ったことがあった。血にまみれた光景がフラッシュバックし、息苦しくなる。以来、異常胎位と聞くと、体がこわばるほどの緊張を覚えるようになっていた。
気がつくと、両手が汗でぐっしょりと濡れていた。何か拭くものを探していると、友梨佳が無言で首に巻いていたタオルを差し出した。
「だから緊張しすぎだって」
「そうだけど……」
「大丈夫。陽菜が考えているようなことにはならないし、させないよ」
友梨佳はそう言って、満面の笑みを見せた。彼女の青い瞳に吸い込まれそうになる。友梨佳の笑顔は18歳の時から変わらない。人の心を穏やかにする、不思議な魅力を持っている。
友梨佳が言うのだから、大丈夫なのだろう。陽菜の心は少しだけ軽くなった。
「たぶんね」
馬房に横たわるスノーキャロルを見つめながら呟いた友梨佳の声は、陽菜には届かなかった。
「どうだ? 頭は出たか?」
大岩厳が厩舎に入ってきたのは、破水から10分が経過した頃だった。
彼はイルネージュファーム最古参のスタッフであり、馬に関する知識と経験は日高でも指折りの存在だ。彼を知る者は、畏敬の念を込めて「厳さん」と呼ぶ。
「おう、厳。朝早くから悪いな。まだ出てこねえんだ」
大岩とは旧知の仲である泰造は、親しみを込めて「厳」と呼び捨てにする。
「なんもさ。代表からも気にかけておいてくれって言われてるからよ。それで、破水してからどれくらい経つ?」
「ちょうど10分です」
陽菜がスマートウォッチを確認し、答えた。
「よし、友梨佳。手袋を履け。手を入れるぞ」
「オッケー」
友梨佳は肘までかかる手袋を右腕に装着すると、ためらうことなくスノーキャロルの膣口に手を差し入れた。
「えっと……頭があって……右前脚でしょ。⋯⋯あ、左前脚が出てない。肩が骨盤に引っかかってる」
まさぐるように胎児の状態を確かめながら、友梨佳が言う。
「後ろ脚は?」
大岩が隣にしゃがみ、尋ねた。
「えっとね……」
友梨佳はさらに深く右腕を入れた。
「大丈夫。出てきてない。ちゃんと子宮にあるよ」
大岩に対してタメ口で話すのは、身内を除けば泰造と友梨佳くらいだ。というか、友梨佳が誰かに敬語を使っているのを、陽菜は見たことがない。それでも、なぜか許されてしまう雰囲気を彼女は持っている。
「よし、仔馬を押し戻して姿勢を直すぞ。俺が押すから、そのまま左肩を支えろ」
大岩は両腕に長手袋を着けると、
「いくぞ」
と言い、左腕を膣口に押し込んだ。
苦しそうにいななき、身をよじるスノーキャロル。
友梨佳と大岩が息を合わせ、胎位の整復を試みる。その様子を見守りながら、陽菜はタオルを握る手に力を込めた。
それは二人を応援するためではない。大学で学んだ知識を引っ張り出している間に、友梨佳と大岩はすでに動いている。その知識と経験の差を目の当たりにし、何もできない自分の不甲斐なさを噛み締めるしかなかった。
その時、不意に泰造が陽菜の肩に手を置いた。
「陽菜さん。人にはそれぞれ役割がある。この二人は馬については詳しいが、それ以外は食うことか飲むことしか能がない。こいつらが安心して仕事ができる環境を作るのが陽菜さんの役目で、それは陽菜さんにしかできないことだろ?」
優しく語りかける言葉に、陽菜の目に涙が浮かぶ。
「ありがとうございます。大学で勉強すればするほど、友梨佳や泰造さんたちのすごさが分かって……私なんてまだまだなんだなって……」
泰造はポンポンと陽菜の肩を叩いた。
「ゆっくり覚えていけばいいさ。何より、彼我の差を自覚できるのは優秀な証拠だ」
皺だらけの顔をさらにくしゃっとさせて微笑む泰造。陽菜の心が、すっと軽くなるのを感じた。
「厳さん、オッケー。左脚が戻った」
友梨佳が膣口から右腕を引き抜く。顔中に汗をかき、ポニーテールからほつれた白に近い金髪が頬に張り付いている。
大岩も腕を抜き、胎児が出てくるのを待つ。
陣痛に合わせ、胎児の頭と両脚が現れた。
「よし、引っ張るぞ」
通常、分娩で胎児を牽引することはないが、今回は破水から30分近くが経過している。母体と胎児の安全を考え、大岩は牽引を判断した。
「いいか、いきみに合わせて引っ張るぞ」
大岩と友梨佳が、スノーキャロルのいきみに合わせて胎児の前脚を力いっぱい引く。
少しずつ、胎児の上半身が現れた。羊膜に包まれているが、白毛の美しい仔馬だということは遠目にも分かった。
「厳さん、出るよ」
「よし、ラストだ。気張って引っ張れ!」
スノーキャロルがいななき、最後の力を振り絞る。
その瞬間、仔馬が母体から滑り出た。
スノーキャロルが全身を舐め、羊膜を剥がしていく。仔馬はそれに応えるように、小さく動いた。
「おじいちゃん! 陽菜! 産まれたよ、男の子だよ!」
友梨佳が振り返り、満面の笑みを見せた。
泰造がうんうんと頷く。陽菜は緊張から解放され、車椅子の背もたれに身を預けた。スマートウォッチの心拍数は100を超え、アラートが表示されている。
「こいつはいい馬だ。うちの牧場どころか、日高でも見たことがない」
大岩が仔馬の身体を拭きながら言う。
「ええ? 厳さん、男の子が産まれるたびに『ダービー候補だ』って言ってるじゃん」
冗談めかして言う友梨佳。しかし、大岩の顔は真剣そのものだった。
「え、本当に?」
友梨佳が泰造を振り返る。陽菜も思わず、泰造を仰ぎ見た。
「昔から、馬主の中には厳の相馬眼を当てにする人も多い」
それを聞いた陽菜と友梨佳は、笑顔を隠しきれなかった。
後産が終わり、へその緒が切れ、仔馬が立ち上がる頃には風雨はすっかりやみ、雲の切れ間から朝日が牧場に降り注いでいた。
「痛い、痛い! 誰もあんたの仔を取ったりしないから!」
スノーキャロルは、仔馬を取られると思ったのか、仔馬に浣腸をしようとしていた友梨佳の髪を噛み、肩を鼻で強く押してきた。
「仔っこを取って喰われると思ったんだべ。代わるから顔でも洗ってこい」
「ひどいな。お腹はすいてるけど、仔馬は食べないよ」
友梨佳は、浣腸液の入った大きなシリンジを大岩に渡すと、馬房を出た。
「ちょっと顔、洗ってくる」
「うん」
陽菜は持っていたタオルを友梨佳に手渡した。
馬房では、仔馬がスノーキャロルの乳を吸っている。厩舎の明かりに照らされ、仔馬の濡れた馬体が白く輝いていた。
「あの、大岩さんはどうやって馬を見極めるんですか?」
「大したことじゃないさ。走る馬ってのは、どこかしら種馬に似ているもんだ。背中や肩の形とか、な。そんな特徴を探すのさ」
「仔馬の段階で、それが分かるんですか?」
「陽菜さん。産まれたばかりの仔馬は、骨と皮だけの──言ってみれば、その馬の原型だ。頭の中で仔馬を大きくして、そこに肉をつけてみる。そうすると、どんな馬に成長するか、大体の当たりがつく。厳の奴なんか、仔馬が産まれた瞬間にそれをやっちまう」
陽菜は感嘆の声を漏らした。とても自分にできる芸当ではない。
「まあ、10分でも20分でも、じっと仔馬を見て目に焼き付けることだな」
大岩が浣腸を終え、馬房から出てくる。
「そうすれば、大きくなったときに、どこに余分な肉がついてるとか、逆にそう見えて実は違うとか、分かるようになる。調教師が下手な仕上げをしたら、すぐに指摘できるさ」
「そんなこと言ったら、嫌な顔されませんか?」
「そりゃ、されるさ」
大岩と泰造が声をそろえて笑った。
「でも、馬のためには必要なことだ。それに、陽菜さんの言うことが正しいと分かれば、調教師も黙るしかない」
「とても、そんなこと言う自信ありません」
「ひとりで言う必要はない。友梨佳でも連れてけばいい。俺が行ってもいいが、いくつかの厩舎から出禁くらってるからな」
「厳は口より先に手が出るから駄目だ。それはそうと、友梨佳はまだか? 飯でも食ってるんじゃないべな」
「私、ちょっと見てきます」
陽菜は車椅子をこいで厩舎を出た。
冷たい風が、雨に濡れた草の匂いを運んでくる。勢いよく流れる雲の隙間から射す朝日が、厩舎の隣に建つ泰造と友梨佳の家の玄関を照らしていた。
友梨佳は玄関の前にいた。放牧地の方に向かってひざまずき、手を組んで祈っている。透き通るほど白い肌と長い金髪が朝日に照らされ、まるで一枚の宗教画のようだった。
「友梨佳?」
陽菜は、友梨佳がふと見せるこうした美しさに、いつも胸が高鳴る。
友梨佳は、陽菜の声にゆっくりと目を開け、振り返った。
「お祈りしてたの?」
陽菜はそっと近づきながら尋ねた。
「うん」
友梨佳は静かに頷いた。その目には涙が浮かんでいた。
「あたしね、ずっと怖かったんだ。おじいちゃんがスノーキャロルを買って、ノルデンシュバルツの種をつけるって決めてから。種がつかなかったらどうしよう、流産したらどうしよう、無事に産まれなかったらどうしようって」
友梨佳は涙を指で拭った。
「だから、ずっとここでお祈りしてた。陽菜みたいに格好良くはできないけど……誰よりも速く、誰よりも烈しい牡馬が産まれますように。日高の希望となるような名馬になりますように、って」
「トシリベツ教会で祈れば?」
そう言いかけたが、陽菜は言葉を飲み込んだ。
馬を育むのは、日高の大地であり、水であり、空気であり──友梨佳にとって、祈る対象もまた日高そのものなのだろう。
陽菜は、友梨佳の隣に並ぶと、手を組み、そっと頭を下げた。友梨佳も、再び手を組む。
春の嵐をもたらした雨雲は、いつの間にか消え去っていた。
牧場は、朝の光に満たされていた。