水に沈んだ街
「あの2人、付き合ってるらしいよ」
その友人が言うには、私が密かに想いを寄せていた人と後輩の女の子がつい最近、付き合い始めたらしい。
後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が、一拍遅れてやってくる。そうなんだ、いつからなんだろう、と平静を装って会話を繋いだが、当然、心中は全く穏やかではない。
私は、大丈夫だと思っていたのだ。
私の好きな人はどうやら後輩の子が苦手なような素振りをしていたし、あの子だってタイプじゃないと公言していた。
していた、のに。
けれど思い返せば、そういう雰囲気は多少感じていた。朝、2人で部室に入ってきたりだとか、気づいたら2人セットでいる、だとか。
認めたくなかった。
直視したくなかった。
私の方が、ずっとアイツの近くにいたのに。
それからというもの、彼らのことを「そういう目」でしか見れなくなった。
距離感や会話、何もかもに「そういう意味」を見出すようになってしまった。
何だか急に、「恋愛」というものがとても悍ましいものに思えて仕方がなかった。
「はー、つら」
本当、嫌になる。
勝手に期待した方が悪いというのに、彼らに非があるような態度を取ってしまう。今日だって、せっかく話しかけてくれたのに邪険にしてしまった。アイツはあまり気にしていないようだったけど。
ベッドに寝転がって動画サイトを漁っていたら、ふと一つの動画に目が留まった。
投稿主は「イサナ」というらしい。気になったので動画開いてみると、画面は黒いまま。微かに音が聞こえたので音量を上げると、コポコポと水中に入った時のような、涼やかな音が聞こえた。
その音を聞いているうちに、何故だか猛烈な眠気が襲ってきた。抗う気力も失せてしまったので、私はそのまま瞼を閉じた。
〜〜〜
瞼に柔らかな光が当たるのを感じ、飛び起きる。
「やば、寝落ちした……」
そこで、違和感を感じた。
あたりが静かすぎる。
家の自室で寝落ちたはずなのに、家族の気配を全く感じない。飼っている猫の声すら、しない。
首を巡らせると、開けた覚えのないカーテンが開かれており、そこから光が差し込んでいた。
青い、光。
覚束ない足取りで窓に近づくと、そこには昨日とはまるで違う世界が広がっていた。
都会特有の林立するビルは根本から傾き、そこかしこに苔の生えた建物の残骸が転がっている。目視できる距離にあるコンビニも、看板が色褪せて廃墟のようになっている。そして家の中と同じように、人っ子1人いない。
そう、まるで街全体が永遠の眠りに落ちたかのような果てしない静寂。
「なに、何、これ」
でも不思議と、怖いという感情は湧かなかった。
先程よりは確かになった足取りで家を出ると、頬を緩やかな風がそっと撫でていく。
しばらく佇んでいると、耳元で何かを弦で擦ったような音が聞こえた。
知っている。
鯨の鳴き声だ。
ふ、と影が落ちた。
雲が出たのかと思い空を見上げて、そこにいたモノに私は目を丸くした。
巨大な鯨が空を泳いでいる。
青い空が、まるで海のようだ。
また、鳴き声が聞こえた。
どこか物悲しい、仲間を探しているような声。だけど、誰かを慰めているような、優しい声。
私は立ち尽くしたまま動けなかった。
鯨は悠然と泳ぎ去っていく。
また、柔らかな光が降り注ぐ。
どのくらいそうしていただろうか。分からない。体感は20分ほどだった。
私はゆっくりと、右足を前に出した。確かな地面が足裏を押し返す。
そのまま、左足も踏み出す。
私は走り出した。
久しぶりに、自由だと感じた。
今だけは、何にも縛られていない。解放されている。
まるで水に沈んだかのように沈黙する街の中を、あの空を泳ぐ鯨を追いかけてひたすら走る。
疲れはない。むしろ、楽しい。
鯨の鳴き声が響いた。
気づけば、私は鯨の影の中にいた。
鯨は物言わず、そこに留まっていた。何を考えているのかも分からない。でも、この瞬間だけは、友達や親よりも心を曝け出せる存在であることは間違いなかった。
まとまりも論理性もない、ただの思ったままの言葉を、とめどなく吐き出した。
鯨はやはり、何も言わない。
話し終わると、私は地面に横になって鯨の腹を見上げた。鯨は一声鳴くと、大きな尾鰭をゆったりと揺らして彼方へと向かった。
目を閉じると、青く、穏やかな光に包まれる。そうしているうちにやがて微睡み、私は再び眠りに落ちた。
〜〜〜
「……やば、寝落ちした」
何だか不思議な夢を見ていた気がするが、どんな夢だったかはもう朧げになってしまった。
時計を見ると、寝ていたのはものの数分だったようだ。寝る前に動画を見たような気がするけど、スマホの履歴を見ても気になるものはない。
幻みたいだ。
けれど、確かなものだった。
少し眠ったからか、スッキリしたような気がする。最近は部活に行くのも憂鬱だったけど、明日からは頑張れそうだな、と思った。彼らのことも、もうあまり気にならない。好きにすればいい、くらいの気持ちだった。
どこかで、鯨の鳴き声が聞こえた気がした。




