21歳、士官候補生、春。
正しさとは。
唯ひたすらにそれを貫く事である。
法でも良い、信念でも良い、律でも良い、それを貫け。
それが君だけの正しさである。
***
硝煙の臭いと爆発音の鳴り響くだだっ広い荒野がある。
「帰りたい!帰らせてくれ!」
「帰ったらいいさ!ここから帰れるならな!」
銃声の響く戦場の中、塹壕で友との会話が響いた。
「今すぐ逃げ出すより、さっさとここを片付けた方が早く安全に帰れるだろうな」
「そんなこと分かってるさ!でももう限界だ!上の連中は俺らの命なんかなんとも思っちゃいない!さっさと辞めれば良かった!金払いが良いからって志願なんかするんじゃなかった!アイツらの言う通りだったんだ!金払いは良いに決まってるさ!俺らはここで死んで、払う必要なんて全く無くなるんだからな!!」
友の悲痛な叫びはやがて銃声よりも鮮明に聞こえる。
「そんなこと最初から分かってたことだろう!だがお前は金目的でここに来ている!それは幸運なんだ!ここで生き、金を手に入れればお前は短い期間遊んで暮らせるだろう!どうせここに来なけりゃとっくに酒か薬、あるいはしようも無い事件に巻き込まれて死んでいる!ここで生きろ!勝て!そうすればお前は幸せも掴める!生きろ!掴み取るんだ!」
俺は友を激励する。こんなことしか出来ないが、これは本心。本心は人を動かす。しかし友は座り込む。
「……こんなしょうもない人生を生きてきた俺だけどよ。怖いんだ。一瞬で死ぬのがさ。どうせ、どうせ死ぬなら一か八かの大博打はしても変わらんと思ってた。ははは……。だけど怖いな。怖い。馬鹿だな……。馬鹿は直面しないと分かんねぇんだ。テメェの馬鹿さにな」
掠れた声で友は言う。
「俺にぁ妹がいる。アイツに俺の分も生きろって伝えてくれ」
そう言って友は手を差し出す。そしてペンダントと端金を受け取る。
「お前……」
「あぁ、あとこれか。要らねぇと思うが」
友はパキッと言う音と共にドッグタグを取り、俺に渡す。
「縁起でもない。ふざけるな」
「お前は士官学校とやらでこんな足でまといの兵士を介護しろって習ったのか?」
「……。戦友を見捨てろとは教わっていない」
「そうかい……」
そう言って友は何かを決意したようにしゃがみこみ、銃を構えた。
「じゃあ最後まで抗ってやるよ」
「あぁその意気だ」
そうして俺は自分の弾薬を友に渡そうとポケットに視線をやり、手を入れる。その時、足音ともに目の前の人影が消えた。
「あばよ、相棒」
「馬鹿野郎!待て!早まるな!」
俺は叫んだ。
鈍い音と共に、その男の頭から血が飛び出た。本能で感じとった友との別れの瞬間だった。
「畜生!畜生!!クソが!!」
何度言ったって現状は変わらない。だが心はそれを許さなかった。恨みつらみの言葉は増幅するばかりだった。
「見習い!嘆いていても始まらんぞ!!自分が生きることだけを考えろ!!」
塹壕の中から声が聞こえた。
「分かっています!」
俺も声を張り上げて答えた。
「諦めるなよ!」
大尉の更なる返事も聞こえた。
ここはヴルグス帝国とフォルティス専制共和国の国境線付近。どちらが優勢かなど最早分からない。少し前の情報によれば、我がヴルグスが勝っていると言っていたが、それもどうだか。こちらの国の経済は疲弊している。このままではいずれ……。……ともかくこの前線は押されている。
貧乏くじというのだろう。
ヴルグスの士官学校では、卒業前に実戦試験がある。大抵は反乱分子の殲滅であったり、反政府組織の壊滅などを命じられるものだ。しかし、こと戦時下ではそうではなかった。当たり前のように前線に置かれ、即戦力として扱われた。どう考えても戦力としての投入は避けるべきだと思うが、人が足りていないのだろうか。これも我が国が勝っているわけが無いと思う原因の一つだ。それだけでは飽き足らず、俺は一二を争う係争地に配属されてしまった。運の悪さだけなら神をも凌げるかもしれない。この運を持ってすれば天の国で英雄を賜れるだろうか。
……悠長な事を考えている場合では無い。学校でもそこそこ成績は良い。父上も母上も俺に期待してくれている。こんな所で死ぬ訳にはいかない。ここで勝利を収め、さっさと上を目指さねばならない。それが、ヴルグスに忠を尽くすということだ。
しかし、悲しみも込上げる。今横に転がっている彼、ブルーノは良い奴だった。ここに配属されて、初めて彼とは会った。身分も全く違う彼だが、年齢が近いこともあり、お互いに何の偏見も無く話せた。地主貴族の生まれの俺のような人間は、同じ畑の奴とはどうも腹の探り合いになってしまう。その点で彼は接しやすかったし、一国民の実情も聞けた。彼は相当苦しんで日々を生きているように思えた。戦場は飯が出るだけ地元よりマシとまで言っていたのだ。この戦いが終わった後は彼の故郷に共に寄ってみるつもりだった。現実はこのザマだ。いつ終わるかも分からない戦争で、いつ終わるかも分からない命を如何に扱うかというパズルを解かなければならない。
塹壕戦は戦争を変えた。戦争を長引くだけ長引かせ、決着が付かない泥沼へ。作戦などあったものでは無い、先に飛び出た方の負け。……ただそれだけだ。最早、白兵戦の出番など……。
そう考えていた矢先だった。
「撃ち方止め!撃ち方止め!」
***
――静かだ。
曇り空と黒い地面、煙が上がる中、ただ1人でそう思った。
どうやら休戦協定を結んだらしい。発効時刻はまだ先だが、敵味方共に既に休戦ムードだ。そして、戦況を鑑みるに我々は負けたのだ。
悔しさが込み上げた。それは敗戦の悔しさではなかった。上の連中があと少し早く署名をしていればブルーノは死なずに済んだのだ。その悲しみから来る悔恨、ただそれだけが自分を包み込んだ気がした。
真っ直ぐに勝つという目的を達成した所で、喜びが得られるとは到底思えなかった。勝った時、あるいは負けた時、我々の抱く感情はきっと“あぁ、やっと終わった”という安堵感であろう。それ程までに戦争とは、蛸壷とは我々を変える。
……戦争とは一体何なのだろうか。我が国とフォルティスは領土問題があった。それは国家単位、民族単位で見れば解決せねばならない悪しき問題だったろう。しかし、こんなにも大勢が死ななければならぬほどの問題だったのだろうか。土地ごときで一体何人が死んだのだ。そこに住む人間は本当にこれを望んでいたのか。致し方ない犠牲などというものは、いつも被害に遭わない側の人間が宣うものでしかないのだ。致し方ないモノとは、ブルーノが死ぬことだったのか?彼はただ毎日を楽にしたかっただけだ。都合良く駒にならざるを得ない人間なのだ。選択の自由など無い、死ぬか生きるかだ。
……こんなこと、二度と起こしてはいけない。
「よぉ、お疲れ。見習い」
話しかけてきたのはルートヴィヒ大尉だった。
「ルートヴィヒ大尉。お疲れ様です。お気遣いありがとうございます」
俺は敬礼し答えた。
「崩して良いぞ。お前も大変だったな。こんな所で卒業試験など」
「いえ、上官の時も御苦労なされたでしょう。」
「私の時など、せいぜいアカどもの排除くらいだ。お前の方が余程苦労している。誇れよ、若人」
「はっ……ありがとうございます」
「それだけだ。今度は平時にでも会おう。今度、私の家に招待しよう、それと……」
どうやら上官は言葉に詰まったようだ。
「友人については割り切れ。今は出来ないだろうが、必ず乗り越えるんだ。それはいつか糧になる。頑張れよ」
彼は俺の肩を2度叩いて去っていった。
「……ありがとうございます。」
俺は小さな声でしか返事ができなかった。
***
「ここか……」
戦争終結後まもなくして、俺はある町のあるアパートの部屋を訪れた。ドアを叩くと17、8だろう女性が出てきた。
「いきなり訪ねて申し訳ない。私はクラウス・フォン・ローレンベルクというものです。貴女がオリヴィアさんですか?」
「はい、そうです。あなたが兄のご友人の方ですね」
そう言われ、俺は少し驚いた。
「彼から私の話を聞いていたんですか?」
「えぇ、クラウスという名のボンボンと仲良くなったって手紙が戦地から届きましたわ、フフ」
「フフ、そうでしたか。……これを直接渡したくて来たんです」
そう言いながら俺は彼から預かったペンダントと金、そしてタグを渡した。
「お兄さんは立派でした。俺の誇りです」
そう言うと彼女はバツが悪そうに話す。
「いえ、誇りなんて……。私はただそばに居てくれていれば、それで良かったんです。どうせ死ぬくらいなら……家族2人で死にたかったです」
俺は咄嗟に慰めの言葉も出てこなかった。その責任の一端は俺自身にあるからだ。
「……奴を……守ってやれず……すみません」
彼女の言葉に恥じ入るばかりだった。自身への怒りと、彼女への同情で今にも震えそうだった。
「私……これからどうすればいいのかしら……」
彼女は悲しげに顔を少し下げたかと思えば、すぐに顔を上げ、にこやかになった。
「なんて、軍人さんに言っても困りますよね。これ、ありがとうございました。兄も最後にあなたと友人になれて幸せだったと思います。……では」
そう言い、彼女はドアを閉めようとした。
「待ってください」
俺は咄嗟に声が出た。
「はい……?」
彼女は怪訝そうな顔で俺を見る。
「ブルーノはいつも貴女の事を案じていました。彼は最後に、自分の分も貴女に生きて欲しい、と。……俺には彼を守る事は出来ませんでした。ここでまた貴女をこのまま帰すのも、彼に対して薄情な人間になります。……俺の家で働きませんか?名前で分かったかもしれませんが、私は地主貴族のローレンベルク家の者です。飯もつきますし、両親もきっと喜ぶと思います。……どうでしょう?」
「あら、私もしかして口説かれてるのかしら。……そうですね、ここにいてもお先真っ暗って感じですし、もし宜しければ厄介になろうかしら」
彼女は笑って答えた。その笑顔は何よりも汚れを知らぬ者の顔だった。長い間忘れていた平穏の記憶だった。
彼女の笑顔に呆気に取られた。ブルーノの面影もない、純白で素朴なとても綺麗な笑顔だった。
「……ブルーノは少し粗雑な男だったのに、貴女は打って変わってとても華やかな方ですね。正直言って少し意外でした」
「それは……兄が過保護だったからです。彼は自分は働いてくるから、私には学校にはきちんと行けと言うような人でした。なので、私も凛とあろうと思ったんです。それが少しでも兄の助けになると思って……」
「……そうでしたか。……それでは、そろそろ私もお暇しようと思います、玄関先ですみませんでした。また後日お迎えに参ります。そうですね、3日後でいかがでしょう、それまでに身支度を済ませておいてください」
「承知しましたわ、ご主人様」
「……クラウスで構いません」
「フフフ……照れているのね」
「……それでは」
「えぇ、ごきげんよう」
彼女に見送られて俺は故郷の町に帰っていった。なんとも飲まれそうな雰囲気にまとわれた女性だった。奴が彼女を大切に育てたくなる理由も分かる気がする。
ブルーノはきっと大切な人間の為にはどんな苦痛も耐えられる人間だったはずだ。そんな人間を変えてしまった。彼らの日常を、戦争は奪っていったのだ。