桜流し
-雨と涙と桜-
雨と春の涙で肩が濡れる。
校舎裏の桜が満開で咲き誇っている。なのに、どうしても寂しい印象を抱く。雨が降っているせいだからかな。
『雨は良い。人生の歩道から、思い出を洗い流す。』と誰かが言っていた。思い出とは言わずに、私の心に広がっている、簡単に触れることができるけど、決してすべては触れることができない、複雑で面倒くさい感情すべてを洗い流してほしい。
こんな感傷を抱いてしまうのは、全部眼の前で泣いている春のせいだ。
この桜流しと呼ばれる天気の日に、私と春は同時に失恋した。
春は部活の先輩に。私は春に。
私は、煩わしい現実に対して、何もできなかったし何もしなかった。それで罰があったのだと思う。
桜の花弁が流れてくる。この花弁みたいに、ただ流されて、さらさらと洗われて、薄くなりたいとなんとなく思う。雨にすべてを濡らされて、溶けてしまいたと、確かに願ってしまった。
-春と桜-
「桜~おはよう」
朝、曇天。雨が降りそうで、いやな空だと思った。
校門をくぐると、声が聞こえた。振り返ると、ショートカットの髪を揺らしている春が私に手を振っていた。私は、控えめに手を振り返す。人が大勢いるからあんまり大きく振るのは、少しだけ恥ずかしい。
春は、私の小学校以来の親友であり、好きな人でもある。
春の活発さを表したような声に、私の名前が呼ばれるたびに、心の中に温かいものが流れる。
「おはよう。春」
私が挨拶を返すと、春は嬉しそうな顔をして、私の横に来る。春のそういう細かい感情の変化を顔によくだしてくれるところが、私は好きだ。
ふたり並んで、教室に向かって歩き出す。
「ねぇ、桜。今日、ついに決行しようと思うの」
「そう。頑張って」
春は、一年生の秋から、彼女が所属している陸上部の三年生の男の先輩に恋をしている。私の知っている限りだと初恋だ。
春は、その半年間の恋に、今日決着をつけるらしい。成功率はわからない。だって、春とその先輩が一緒にいるところなんて、一分たりとも見たくなかったから。
でも、私は春の幸せを願っている。心の底から。それは嘘ではない。ただ、できるなら私が隣で幸せにしたいと願う心が存在しているだけだ。
「でさ、怖いから、桜に見守ってほしんだ。できればで、いいだけど。」
足が止まった。
春は、そう控えめに言った。
いつもの活発さが鳴りを潜めた彼女の様子を見て、私はほんとに嫌だったけど、承諾することにした。そもそも、私は春の願いを無下にすることはできない。
「うん。いいよ」
「ほんと!嬉しい!ありがとう」
春の眩しい笑顔が、私の心を照らす。私は、とっさに心の一歩手前に、高く大きな壁を築いた。影が広く、暗く、濃く、心の中を支配する。
「じゃあ放課後に、校舎裏に呼び出すから、校舎の上の階の方で見守っていてね。」
「う、うん」
なんとかそれだけ言って、私は一歩前を進んでいた、春の背中を慌てて追うように、また足を動かし始めた。
昼休みを告げる鐘がなった。退屈な授業から一瞬だけ開放される。
私は席を立って、春のもとへ向かう。
春は、ソワソワしていた。ちなみに、私と春は、お昼はお弁当派だ。
「まだ、連絡できてないの」
「うん」
私はため息が出そうなのを、どうにかしてこらえる。春はスマホを固く握って、先輩とのチャット画面を出している。連絡するには、ちょっと画面を打つだけでいいのに、春はいつまで経ってもそれをしよとしない。正直呆れる。でも、私は春に告白するという選択肢はない。恐ろしくてできるわけない。だから、私は春にどうこう言える資格なんてない。
「私が、しようか」
「え、してくれるの」
「ま、まあ」
ほんとは、そんなことしたくない。けど、春のそんな様子にイラッとして、ついつい口を滑らしてしまった。
でも、春のあまり見れない不安に揺れた目に見つめられていると、気持ちが揺れた。
そもそも、ここ半年はずっとフラフラだった。
「ほんと、しょうがなくだからね」
「ほんと!桜、ありがとう!」
春は、体を乗り出して、机を挟んで座っている私に抱きつこうとしてくる。心拍が上がる。ただの友達のスキンシップだとわかっていても、心が舞い上がる。耳が熱くなる。
「いいから、スマホ早く貸して」
「はい、どうぞ」
私は、無難な文章を作って春に見せる。春は、手に丸を作った。
そして、私は無感動に送信ボタンを押す。春はそれを見て肩の力が少し抜けたようだった。
ボタンを押した後、何やってるんだろと思った。感情は、複雑でたくさんあると、かえって徒労感が広がるのだと知った。
「よし、これでもう、やるしかなくなったね」
「そ、そうね」
「桜、ほんとありがとうね。大好き」
春のダイスキの四つの音に、耳が過剰反応してまた発熱する。でも、頭が神経と理性を使ってとっさに冷却する。
私と春のダイスキは、同音異義語だ。わかっている。
「うん、私も大好き」
声が震えた。同じ言葉を言い合ってるはずなのに、虚しい。よく春は私に大好きと言っていた。小学生の時は、それを素直に受け入れることができたけど、中学校ときからはだめだった。言われたり言ったりするほど、春との間に絶対に埋められない溝が深く、大きく、広がっていくようで、ほんとにだめだった。
「あれ、桜大丈夫」
「う、うん」
「そう。それでね桜、この前先輩がさ…」
昼休みとお弁当は、まだ残っている。春がする先輩の話を聞き流しながら、このなんとも言えない、徒労感と悲しさとほんのちょっとの幸福感の混ざった現実を、どうにかやり過ごした。
チャイムが鳴る。午後の授業が始まる。
案の定、授業は一切入ってこなかった。
放課後。私の心と足は重く憂鬱だったが、ある種の義務感とほんの少しの野次馬精神が、私を春の告白現場を見下ろせる場所へ運んでいった。
適当な場所で、校舎裏に顔を出してみると、ちょうど下に春を見つけた。あまり大きな声を出さずに呼びかけてみると、春がパッと顔を上げた。私と目が合うと、表情を柔らかくして親指を立てた。こういうところが春の魅力だと思う。だから、私も自分にできる一番いい表情をつくって、親指を立て返した。
私と春の間には、これだけで十分だった。だから、あとは告白が終わるまで、窓の影に隠れて座っていればいいだけ。
春が先輩と付き合う瞬間なんて見たくなかった。それが、私のどうしようもない本音だった。
水滴が空から落ちてくる音がする。雨が降ってきたらしい。
嫌な予感といい予感を同時に感じた。その矛盾に頭の中が混乱して、心がかき乱される不快感を感じた。
そして、雨は次第に強くなっていた。その音に交じるように、下から誰かが走り去るような音が聞こえた。
ハッとしたように慌てて窓の外を見る。下には、気まずそうで疲れた顔をした男の人が立っていた。意外と普通の人だなと思った。
雨は、どんどん強くなる。
遠くで一瞬だけ光が地上を照らした。
季節外れの大きくて肝を冷やすような音が聞こえた。その瞬間、私の重くてしょうがなかった足が動き出した。
春を走って追いかける私の足の速さは、陸上部の春より早くあってほしいと思った。
-桜流し-
とりあえず、走って昇降口まで行く。
昇降口についたら、まず春の下駄箱を確認した。外靴はなかった。
それから、慌てて自分の下駄箱の前に行って、急いで外靴を出す。外靴を引っ掛けるように履いて、勢いよく昇降口の外に出る。
春の姿を探してみるけど、どこにも見当たらない。校庭には見切りつけて、校舎裏に急いで回る。
満開の桜の下を、急いで走っていく。
足を前に出すたびに、水溜りの水がピシャピシャと跳ねる。桜も足も髪も上半身もかなり濡れている。足元には、桜の花弁がたくさん流れている。
校舎裏に出ると、端の方に隠れようにうなだれている、春らしき姿が見えた。そこに向かって行くと、春の顔がはっきり見えた。目元が濡れていた。
それは雨ではなく、春の涙なのは自明のことだった。
「あ、さ、桜………振られちゃった」
それを聞いて、私の心はどうしよなく踊った。そんな心の動きを頭が感じ取った時、自分の醜さに、踊っている心とは別の部分が嫌悪に歪んで震えた。
そんな自分の複雑な心境の処理に手一杯で、春に慰めの言葉ひとつも言ってあげられない。
自分の無力さと情けなさに、唾を吐きたくなる。
「私が、告白したら、先輩はなんて言ったと思う」
「わからない」
「妹みたいだからって、言われたの。私、女として見られてなかったみたい。部活のときに仲良くしすぎちゃったのかな。」
そう、軽く言う春の姿がとても痛々しくて、心がキュって痛んだ。その痛みが、心の中を占領していた色々な感情すべて押し潰してしまった。
そうなると、少し余裕が出てきて、言葉を考える余裕ができた。
次第にやるべきことがわかってきた。
春との距離を縮めて、春の両手を握り締める。春のうるうるとした目を見つめる。
「勝算はあると思ってたの。だって、先輩私に平気で頭ポンポンとかするんだもん。そんな思わせ振りなことされたらさ。」
それからも、雨はずっと強く降りづづいた。春の涙も流れつづけた。私は、春の滝のような泣き言を、手を固く握りながら浴び続けた。
もう、お互いに下着が透けるほど雨に濡れた。私の視線はちょくちょく、春の下着に向かう。
春はどうだろう。視線一つよこさない。
それは、春には余裕がないからだと解釈したいけど、たぶん余裕があっても見てくれはしない。悲しい。
私は、失恋した親友の前でこんな事を考えている。ほんと最低だと思う。
雨はやまない。春は疲れたのか、私の胸に寄りかかるように、倒れかかる。
こんなに雨に打たれているのに、温かい春の体温が、私の胸に移ってくる。
私が、気持ちを打ち明けたら、もう二度とこんな事を春はしてくれないだろう。そう考えたら、これはこれでいいと思ってしまった。今まで、何回か頭をかすめてはスルーしてきた考えを、今はっきりと認識した。
その瞬間、重かった徒労感なくなって、ただ空虚なものだけが心に残った。
その日は、びしょびしょになりながらも、なんとかして家に帰った。
翌日、晴天。校門をくぐる。
「おはよう~~桜」
春が私を呼ぶ声が聞こえる。後ろを振り返ると、いつもより大げさに手を振る春が見えた。私もそれに応えるように、ちょっと大げさに手を振り返す。
さようなら、私の初恋。
小説の冒頭シーンに書いた、『雨は良い。人生の歩道から、思い出を洗い流す。』この言葉がすごく好き。この言葉が乗っていた小説も好き。宇多田ヒカルの「桜流し」という曲も好き。
だから、この小説は、決して悲しいだけではない。