『青い膜』
どこが痛いのか、
私にはわかりません
右が痛いから左が痛いのかもしれないし、
左が痛いから右が痛いのかもしれない
肉体が、臓物が、ひとつひとつ分離して、どこか遠くに消えてしまいそうなのです
なにもない、でもまっしろじゃないなにかに囲まれて、
私は回っています
くるくる回っています
宇宙と、地球と、皆さんと、回っています
誰も、繋がっていないのに
・
むせかえるような熱気で目を覚ます。
真夏の、窓も開けていない酷く水気のある部屋で、汗だくの少女は何か悪い夢を見たような気がした。
汗がつたい、背を撫でる。身体中が気味の悪い感触に支配されている。
それが悪夢によるものなのか、猛暑のせいなのか、有耶無耶になって腹立たしい。
「何でこんなとこで寝ちゃったんだろう。」
額には本が被さっている。汗がへばりつき、インクが滲んでしまっていた。
そうか、読んだまま寝てしまったのか。
ああ頭が痛い、どこかで涼まなければいけないと立ち上がる。
フラつき、おぼつかない足取りで部屋を出た私は傷んだ廊下を羊蹄と進む。
突き当たりの柱時計が幾重にも嵩張って見え、左右に揺れる振り子がゆらゆらと私の脳も揺らす。
夏の暑さって、こんなに息苦しいものだっただろうか。
突然、フッとさわやかな風が髪をすく。
すぐ右隣の襖の隙間から、微かな冷気の流れがあった。アオちゃんの部屋だ。
「アオちゃん?アオちゃんいるの?」
と、ひとまずコンタクトを試みる。
声が届かなかったのか、うんともすんとも返答がない。
耳を澄ますと、テレビがついているような音がする。
「ねえ、アオちゃん?聞こえていないの?」
「・・・・・・。」
これ、入ってもいいのかな。
勝手に入って怒られた試しはないのだけれど、そういう日は心なしか不機嫌にさせてしまっているように思える。
しかし、呼びかけに応じないアオちゃんにも責任はあるだろう。
もういいや。と襖を開ける。
部屋に入ると、化粧台の前にアオちゃんはいた。
「またお化粧してる。」
「うん。毎日しないと、忘れてしまうから。」
「すごいね。私、一度もしたことないよ。」
「・・・。やれば誰だってできるよ。」
「そっか。でも私、飽き性だから。すっごくむつかしそうだし。」
「えーそんなの先入観だよ。一度やってごらん?教えてあげるから。」
「うぅ・・・アオちゃんみたいになれる?」
「うん。僕なんかよりもっともっと可愛くなるよ。」
アオちゃんの細い指が頬に触れる。白くて、綺麗な指だ。
「本当?」
「うん。保証する。」
「そっかぁ。」
「うん。そうだよ。」
私と同じ間取りなのにアオちゃんの部屋は全く違うものに見える。
ものが均等に並んでるとか、服が畳んで置いてあるとか。そんな当たり前な部屋なんだけど、小綺麗にしてるのが年上のお姉ちゃんって感じで羨ましい。
ジ、ジジ。
部屋の奥のテレビが不快なノイズをたてる。
陽気な音楽特集が終わり、コメンテーターが話し始める。
『パンデミックによる被害は現在収束傾向にありますが、ワクチンがもたらした我々への損害は甚大なものとなりました。ウイルスに打ち勝った我々が今後、危惧しなければならないことは一体どう言ったことなのでしょうか。』
『人体の生殖能力の低下、それこそ現代の人類が抱えている強大な課題です。ワクチンを摂取した人体はここ十年間のうち徐々に生殖能力を失う傾向にあり、そのような傾向にある人間は摂取者のほぼ100%におよぶと言われております。現在、人類のワクチン非摂取率は全体で約5%程であり今後の人類の未来はその5%に委ねられていると言えるでしょう。』
『つまり我々はすでに生殖能力を失っていると・・・。それは本当なのですか?』
『現状をご覧になってください。ソラノアとヨーゼスの大戦から約三十年。以降、子供の出生率は平均的な値を保ち続けていました。しかし、このグラフを見てください。これが対戦後二〇年間の出生率を表したグラフです。そして此方がここ十年間のグラフです。どうです?見るからにここ十年間、大幅な減少を見て取れると思います。それだけで十分この異常性を垣間見ることができます。
アネス生命化学研究機構のデータによりますとどの施設の製造したワクチンも同様の副作用を人体に及ぼしていると言われており、陰謀論であったはずの論理が今まさに真実になろうとしている。
人類は危機なのです。』
『私たちはこれから、どうすれば良いのでしょうか・・・?』
『どうしようもないですな。一度失ったものは、取り戻せませんよ。先ほど申し上げた通り、5%です。5%の卵を、私たちは守り抜かなければなりません。何としても。我々の・・・』
プツン。
アオちゃんがため息つきながらテレビを消した。
「馬鹿みたい。」
「でもさぁ、なんか嫌じゃない?みんないなくなっちゃうなんて。」
「そうかなぁ。未来なんてどうでもいいかなぁ、僕は。今が良ければ。
しかも、みんなじゃない。人間だけいなくなるんだよ。地球は喜ぶんじゃない?」
「そうなの?」
「チョチョがいるなら何でもいいかなぁ。」
アオちゃんは私の目をじっと見る。藍色の瞳は私の心まで見透かしてしまいそうなほどに美しい。
「・・・。そうなんだ。」
そんなこと言われたら、私だってアオちゃんしかいらないよ・・・。
・
私たちは電車でモールへ向かっていた。
車窓から、遠くの山々を囲うように巨大なバリケード「サラウンド」が佇んでいる。
水田が終わりなく続く地平線。夕空が反射し、辺りは一面橙に染め上げられている。
車内は人影なくシンとして、ディーゼルのエンジン音だけがこだまする。
私は誰も乗っていないのをいいことに窓を全開に開け、
「アオちゃん好きだーーーーーーーー!」
と叫んでみる。
そしたら、アオちゃんの顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「そういうのはやめなさい・・・・!」
と怒られ、窓を閉められてしまった。
モール沿いの無人駅。
颯爽と降り立った私たちが目にしたのは、デカデカと掲げられた配給休止の張り紙だった。
ここ数日、休止の通達はなかったはずだ。
「休みなんて聞いてないよぉ・・。今日もらえなかったら私たち飢え死にしちゃうかも・・・?」
不自然な休止に困惑する私。アオちゃんは黙って張り紙を睨みつけている。
「・・・。」
「アオちゃんどうしよう・・・。」
「仕方ない。こっちだ!チョチョ!」
アオちゃんは何故か怒ったように歩み出した。
私は小走りでついていくしかない。
4年前。私たちの町で、ウイルスの新種変異体が発見された。
変異体は類をみない脅威で誰の手にも負えなかった。侵食率は絶大で、たくさんの人がバタバタと倒れていく。
しばらくすると悲惨な状況を見兼ねた御国が町の周囲10キロメートルに包囲網を張った。
感染者も未感染者も残して。
「サラウンド」の中で私のお父さんとお母さんは死んだ。
皮膚は焼け爛れるように赤くなり、体中ボロボロになって私の前で死んだ。
そのとき、アオちゃんが拾ってくれなかったら私も死んでいたはずだ。
何も喉を通らなくて餓死寸前の私をお母さんみたいにあったかく抱きしめてくれた。
私はわがままばかり言って、困らせてばかりいたはずなのにアオちゃんは黙ってずっと笑いかけてくれた。
アオちゃんも、家族を失っていたはずなのに。
「休みなら配給はやってないよ?」
「やってる!」
「なんで?」
「やってんの!絶対!」
モールは、水田ばかりの平野にポツンと在る。
いつもの駐車場に向かうとアオちゃんの言ったとおり配給所が設営されていた。
しかし誰も配給所には並んでおらず、
奥で数人の柄の悪い男たちが、何か愉しげに話しながら配給の品々を「 Να ά 」という文字が刻まれたトレーラーに積んでいる。
「あの人たち、何してるの?」
「しっ!静かに!」
アオちゃんは植木の影に私を隠し、待てという合図を出し男たちの方に一人で歩んでいく。
気づいた男たちが、アオちゃんを取り囲む。何やら話しているようだった。
すると突然、男たちがアオちゃんの腕を掴みトラックの中に連行する。
(アオちゃん・・・・!)
私は怖くて見ていることしかできない。
ただ、黙って待ち続けるしかなく、それしかできないことが歯痒い。
私がアオちゃんのように頭がよかったら、アオちゃんのようにいろんなことができたなら。
いつもいつも考えてしまう。
でも、アオちゃんは言う。
「チョチョにはチョチョにしかできないことがあるんだ。」
本当だろうか。私にはわからない。
私にできること、それは何なのだろうか。
「私、アオちゃんに何もしてあげれてない・・・。」
しばらくするとトラックのドアが開き、アオちゃんが放り出される。
落下した衝撃でどこか打ってしまったのだろうか、うまく立てないみたいだった。
(アオちゃん!)
私は駆け出しそうになったが、しなかった。
その後男たちも順に降りてきたからだ。
何か喋りかけた後、紙のようなものを千切り投げ捨てた男たちはトラックに乗り込み、行ってしまった。
すかさず私は飛び出す。アオちゃん、アオちゃん!
体は傷ついていないように見えた。でもすごく辛そうだった。
アオちゃんの手にはいつもの配給品が握られていた。
「アオちゃん、大丈夫?どこかぶたれたの?」
「ううん。何もないよ。」
「何か嫌なこと言われちゃった?」
「ううん。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
いや、何も。でも、ちょっと疲れちゃったな。チョチョ、手を貸してくれる?」
「う、うん。」
アオちゃん、なんか辛そう。
どうしちゃったんだろ。
・
おうちに帰ったら、アオちゃんはお風呂に入りました。
すごく長く入りました。
台所で配給品を数えたら何故か四人分もありました。
何でだろう。
いつも一人分しかもらえなくて、切り詰めないと大変なのに。
こんなにあるなんて、夢のようだけど・・・。
・・・。
あの、男の人たちは誰なんだろう。
怖かったけどこんなにくれるなら悪い人ではないのだろうか?
「何難しい顔してんの?」
びっくりした。アオちゃんがすぐ横に立って、こっちを見ていた。
「ほら、チョチョは何も考えなくていいの。僕がいるんだから。心配するな。」
「でも・・・。」
「でも?」
「私はアオちゃんが苦しいのは嫌だよ。アオちゃんだけ苦しいのは私も苦しい。」
「・・・。」
「だから、」
「・・・。」
「今度は、隠れないでアオちゃんについていく。そしたら、アオちゃんはもっと楽できるもん。」
「・・・。」
「アオちゃんのためなら、私、何だってできるよ!」
「馬鹿。」
「え?」
アオちゃんは眉間に皺を寄せて、すごく怒った顔をしていた。
「チョチョは僕のいうことだけを聞いていればいいんだよ。僕の苦しみなんて、チョチョにわかるわけがない。」
「・・・・!」
その時、ブワッと何か身のうちから湧き出るものを感じた。
「もう、やだ。」
「・・・。」
「アオちゃんの言ってることわかんないよ!何にもわかんない!私、馬鹿だもん。何も知らないもん・・・。でも・・アオちゃんの心がずっとずっと・・・泣いてるの、私には・・・私にはわかるんだもん!」
部屋を飛び出す。
涙が出る。たくさん出る。
もう、知らない。アオちゃんなんて知らない。
もう、いいよ。私のために辛いアオちゃんなんて嫌だよ。
外に出るともうシンとして、暗くなっていた。
辺りは静寂に包まれ、いっそう私は心寂しくなって泣いた。
・・・そうだ、私がいるとアオちゃんをつらくさせちゃうだけなんだ。
アオちゃんの足を引っ張りたくないのに何をやってもうまくいかない自分に、腹が立った。
それなのに、その怒りをアオちゃんに向けるだなんて私、最低だ。
・・・停電でもあったのだろうか、街を照らしているはずの電灯や鉄塔の赤い灯火はひとつも灯っていなかった。だからやけに星がみえ、宇宙の存在を再認識できる。
何百もの星々が私を覗いている。心配するようにピカピカ光ってる。
「チョチョ。」
背後からアオちゃんの声がしたけれど、振り向けなかった。
「チョチョ。」
「・・・・。」
「ねえ!」
「・・・・。何?」
「あれ・・・。」
「だから、なに?」
「あれだって!」
気づけばアオちゃんは隣にいて、どこか彼方を指差していた。
私もそちらへ視線を向ける。
「・・・!」
流れ星?
何かが落ちてくる。それは小さく、光っていた。