(4)もう一つの出発-2
彼が切符を買い、その間私は、ただ縮こまっていた。そして三十分くらいの残った時間を過ごすために、待合室に入る。
菓子パンと甘ったるいカフェオレに口をつけながら、彼と話した。彼はずっと苦笑を浮かべて、実務的なこと、つまりは新幹線の時間とか、ここと私が向かう先の気温の違いとか、乗り換えで弁当を買うくらいの時間を作った方がいいだろうとか、あるいは座りっぱなしも疲れるだろうから少し寄り道でもしてみたらとか、そんなことだけを口にしていた。核心の周辺にしか、触れなかったのだと思う。彼の立場を考えればそんな態度は無責任と言うべきなのかもしれないけれど、私にはむしろ、その方がありがたかった。
必要な、だけど当たり障りのない話が尽きて、私は今書いているものについて話した。
――書き終わってはいるんですけど。
――読ませてほしいですね。
――まだ全然ダメですよ。自分でも分かるくらいなんです。こんな感じですから。
鞄から取り出した書き込みだらけの紙の束を見せると、彼は驚いた表情を見せ、そして、いくらか笑った。
――そういうものでしょうね。有名な翻訳家の人も駆け出しの頃、大御所の下訳をしたら、結局最後の点しか残らなかったなんて話もありますから。ああ、それに、その小説にもそんな話が出てきましたね。
鞄が窮屈だったので、私が原稿と一緒に取り出した本を示しながら、彼は言った。私が、たぶん目を丸くしていたからか、彼の表情も固くなった。
――すいません、もしかしてまだ読んでなかったんですか?
――そうなんです。でも、いいんです。どうせ、何回も読まないといけないんですし。
道のりの長さを考えて、分厚い上下巻のその小説がぴったりだと思って私は持ってきたけれど、結局はまだ最初くらいしか読んで目を通していなかった。手に入れたということを彼に話したのは少し前だったから、そういう思い違いも当然だろう。新しい訳が出たと教えられたのは、もっと前なのだし。
――大変だと思いますけど、気に入るといいですね。長いし、変な話ですから。
――そういうのが好きなんです。それに、書いた人も、訳した人も、教えてくれた人も信頼してますから。だから、たぶん大丈夫ですよ。
私が笑うと、彼も笑った。なんだか不思議な感じがしたけれど。ずっと、文字を使ってこんな話をしてきたのに、それが直接声を交わしてみると、まるで違う感触があったから。
見送る彼を窓の向こうに残して、私を乗せた新幹線は、昨日と正反対の方向に走り出した。見たことがないような鮮やかな青空の下、朝の白い光が照らす景色をしばらく眺めてから、恐る恐る携帯電話の電源を入れると、ものすごい数のメールや電話の着信履歴が残っていた。ドキドキと胸が痛くなったけれど、あまり暗い気分にはならない。むしろ、なんだか笑ってしまうようだった。そのための言い訳なんてさっぱり思いつかないけれど、とにかく私はこれに立ち向かわなければならないらしい。そう、どうせ逃げられないんだったら、立ち向かって、征服してしまうというのはどうだろう。気が重いけれど、そうする理由ははっきりしている。
今はまだ近くだけれど、だんだんと遠ざかっていく場所に、大切なものを共有できる存在がいるのだと、私は知っていた。つまりはそれが私にとっての幸福で、確かに誰のものとも似ていないらしい。
そういえばアナバシスなんていうのも、実際のところ本番は、下りのカタバシスの方だったじゃないか。道のりを果たし終えたら、その先の海も、全く違って見えるのかもしれない。新鮮この上ないこの雄大な景色のずっとずっと先の、私の見知った、好きでもなんでもない、工場に囲まれたあの海が。