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AからAに  作者: 入江晶
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(4)もう一つの出発-1

 長い間眠ったような気もするし、ほんの一瞬目を閉じただけだったような気もする。狭い窓枠、違う、車のフレームに切り取られた青空が見えた。次に寒気を感じた。体の芯から震えるようなものではなかった。空気が冷たいんだ。いや、涼しすぎるんだろう。初めて触れる、しっとりして、ひんやりとした空気。日差しは暖かくて、心地よかった。

 体中が痛かった。車から降りて手足を伸ばすと、曇りをとるように意識が明瞭になっていき、この朝を迎えられたことに感謝しなければならないんだと思った。つまりは、例えば切り刻まれたりしなくて済んで。あるいは、私とあの人の他の、邪魔者が来なくて。都合のいい話。昨日まで私が思い描いていたことよりは、よっぽどマシだろうけれど。

 ずっと遠くに、延々と山が連なっている。近くだけなら、住宅地をいくらか脇に外れただけの、見覚えのあるような場所だったけれど。もちろん、私はここに初めて来たのだし、本当に遠く離れたところだった。どのくらいかなんて想像もつかないくらいに。地球儀を思い描いて、北海道の下の端、根っこのようなあたりと、本州の真ん中近くの、ウサギか何かの出来損ないのような形をしたところという二つの点がどのくらい離れているのか、唖然とすることだけはできるけれど。

 一日で、というか数時間で、私はそんなところまで来ていたのだった。信じられないほど遠くに。もっともそこでも、私の知っている、私がその中で過ごして縛られていた原理は同じように存在しているし、私自身、それを捨てることはできなかった。持っていた物、いや、持たされていた、私が余計だと思う物を捨て去れるような別世界は、ここにはなかった。

 車の傍らで山並みを眺めていた私に、あの人が声をかけた。おずおずと、私を気遣う言葉だった。私はこの人に、私が捨てようとした物と同じくらいの重さを押しつけようとしていたのだと思うと、改めて、本当に恥ずかしかった。

 昨日よりもラフというか、気楽な格好だった。起こすのも悪いとは思ったけど長く放っておくわけにもいかないから、こんな時間、つまり六時過ぎに様子を見に来たらしい。そして私が話題を持ち出したわけでもないのに、新幹線の時間について教えてくれた。それから切符の手配についても。

 私はただ謝った。申し訳なさと一緒に、自分の考えやしたことの恥ずかしさが湧き上がってきた。言葉をつないでいる間にも、それまで気づいていなかったようなことが、次々に。そんな自分の幼稚さを、他人に差し出しているのだとやっと理解して、怖くなった。遅すぎるのだけれど。もっとも、彼の方はきっと、最初から全部分かっていたのだろう。

 駅に向かう途中でコンビニに寄って、朝食にするパンと、道中のためのおまけを買ってもらった。すっかり恐縮していた私は、それをあえて断ることもできなかった。そんな気遣いというか利口さというか賢しさを示したところで、かけてきた負担、そんな私の負債の利息にも全く足りなくて、無意味どころの話ではないように思えたから。

 車の助手席から、どこまでも広々として、不思議と空疎ではない景色をぼんやりと見ているうちに、駅に着いた。昨日は暗かったし、そもそも振り返ることもなかったから当然だけれど、それは全く初めて見るものだった。意外なほど大きくて、ほとんど一面が窓になっているその駅舎は、私の新しい出発点になるはずだったけれど、結局は引き返すことになる終着点というか、行き止まりだった。来た道を戻るわけだ、全く同じ道を。一日たりとも足を止めずに。

 駐車場から駅に向かって歩いている間、ここにいられればいいのにと強く思ってしまい、涙が目ににじむのが分かった。できるわけがないのだと、はっきりと悟ったのに。あるいは、悟ったからなのかもしれない。確かに不可能なのだけれど、まさにそれができるはずの場所に、私は実際にいるのだから。まして、今から私は、まるで気の進まない帰り道に向かおうとしているのだから。

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