(3)到着まで-3
その人が口を開いた。おずおずと、言いにくそうに。誰何するために発されたのは、私の姓だった。ただし、私と、その人と、あとは応募した原稿を落選させた出版社の人ぐらいしか知らない名前の。
それが自分を示す言葉として使われることを願っていたけれど、実際に体験してみると、なんだか、とても恥ずかしくなった。私には、そうやって呼ばれる準備なんて、全くできていなかったわけだ。もう一つの、『本当の』名前は、そうでもないのに。
私は答えて、頭を下げた。彼はほっとしたのか少し笑って、私を気遣う決まり文句のような言葉を発しながら、エスカレーターに私を導いて、歩き始めた。座りっぱなしで疲れただろうということ、お腹がすいているだろうということ、もう眠いんじゃないかということなど。全部、その通りだった。
改札や明かりの消えた店や案内所を通り過ぎて駐車場に向かうまでの間、普段するような話、つまりは私の書いたものや私たちの読んだものについては、一つの言葉も交わさなかった。話したのは、もっと現実的な、その場で必要なことだけだった。例えば二つ続く改札の通り方だとか、駅の中にはこの時間に物を買えるところがないだとか、寒くないかだとか、必要があればどこかに寄るだとか。
頭がはっきりしないまま、促されて私は彼の車の後部座席に乗った。見下ろしていた景色が、すぐ目の前に迫っていた。嗅いだことのない匂いがする。他人の家に行ったり、車に乗ると、いつもそうだけれど。
彼は何かしゃべっていたけれど、もうほとんど耳に入らなかった。疲労感や眠気に、覆い被さられていたからだろう。しかし彼が、
――ドアのロックはかけないので。
と言ったとき、他の全ての感覚とともにおぼろげになっていた不安が、急にまたはっきりとし始めた。彼はこのことについてはそれ以上何も言わなかったけれど、私には、なぜ彼がこんなことを言って実際にその通りにしたのかが、不思議なほどすんなりと理解できた。
私は、その不安が本物だと感じていたわけではないと思う。ただ、そういう可能性を認識していた、あるいは認識されるべきだと知っていたことに思い当たったというくらいだった。けれど、そうしてようやく、私はここで生きるということ、生きようとしてここまで来る、来たということの意味を、理解したのだろう。
印象に残るようなものの何も見えない夕闇の中をしばらく走った末に、彼の住んでいるアパートに着いた。
彼は車のキーを渡した。食事とか諸々を全て断って、とにかく眠ることだけを選んだ私に。これだと安心できないかもしれないけど、と彼は言って、最初は部屋の鍵の方を渡そうとした。それを私が交換してもらったのだった。彼はかなり不安そうにしていたけれど、結局は、何かあったときのために、自分の部屋の番号と位置、そしてクラクションの使い方を教えて、部屋に向かっていった。
そして私は最後に、こう言った。
――明日、家に帰ります。