(1)出発-1
不幸な家庭はどれも似通っているけれど、幸福な家庭はそれぞれが多少なりとも違っているのだという。Aで始まる本の冒頭から引用した。でも私は、自分の不幸が他の場所で起きるものとは、違う形をしているように感じている。あるいは自分の境遇について、わがままな感じ方をしているだけ。どっちでもいいけれど。とにかく私は決心を確認するような気持ちになりながら、携帯電話の電源を切って、鞄の奥に押し込んだ。映画が始まるわけでもないけれど、楽しみな感じがして、同時にそれが空振りに終わることを心配してもいるというのは、似ているかもしれない。
九月も後半だというのに、まだ暑い。ここまで来れば家の近くのように、海沿いの、夜にはオレンジ色の光に照らされて浮かび上がる工場から流れてくる油の臭いはしない。でも暑いのは同じだし、代わりに人が多すぎる。どっちにしたって同じように、私は嫌いだった。混み合っているのに空虚で、それでいてまとわりついてくるみたいで。
ここまで乗ってきた地下鉄も相当なものだったけれど、この駅は段違い。まるで砂時計みたいに周りから人をかき集め、そしてまた散らばらせる。ちょうど、五時過ぎという今が、ひっくり返る時間なのだろう。
私は、そこから外れた砂粒。七時間目の授業を終えて、学校から海に向けて下り家に帰るのではなく、遡ってここに来た。これから、ずっとずっと長く上り続けていく。そして、もう帰らない。私はそう決めてここに来た。この街の不愉快さだって、私の決意を後押ししてくれるのだから、今では別れを惜しみたくなる。
地下鉄を降り、案内表示に従って地上に出る。頭の中に地図はないけれど、そういう方法はいつもあって、行く先は簡単に見つけられるものだった。そう、いつも。
視界はずいぶん開けるのに、人はむしろ多くなっている。光はわずかにのぞいていた傾いた日差しから、人工のものになった。頭上の空間は余りきっていて、音響のための場所でしかないみたいだ。日常の外ではあったにしても、そこは見慣れた場所だった。だけど今は、胸の奥に鼓動と寒気が居座っているせいか、経験のない居心地の悪さばかりを感じた。
広いはずなのに狭い通路、同じ広告を映す柱が延々と並ぶ。人があちこちからあちこちへ行き交い、まるで回路の中を飛び回る電子を見ているみたいだ。道が決まっている電子とは違って、それがぶつかり合わずにいられるのは、あえてよける人がいるからだろう。すると私はそんな有様を横目に眺める格子欠陥というところか。少しくらいそんなものがあっても、全体の機能に支障は来さないものだろう。
新幹線に一人で乗るのは初めてだった。だけどやり方は知っているし、一人でも何人でも、それが変わらないのも知っている。そして、ほら、何も引っかかりもせず、切符は自動改札を通り抜け、ゲートが私を遮ったりもしない。機械や窓口に並んでいる人たちのような時間を使ったりもせずに。そう、こんなのはたいしたことじゃないんだ。確かにその切符は、私には手に入れられないようなものだけれど。
水色の三枚の切符を封筒から取り出したときのわくわくした気持ちが、残響のように静かに湧き上がり始めた。
おととい、学校から帰ってすぐ、郵便受けを確かめて、家族の誰の手もつけられていなかったことに安堵した。初めて見る文字の形、その手書きの私の名前は、中身以上に私を興奮させた。頭でっかちの、あまり上手でもない筆跡だったけれど、それでも、私が思い描き、決心した道が、現実に、すぐそこにあるのだと、実感できたのだから。