第2話 新司令官着任
スノウは普段から朝が早い。
いつの頃からの習慣か、まだ夜も明けきらないうちに起き出して、まず小一時間ジョギングをする。走り終わると筋力トレーニング。それが日課だ。
それから熱めのシャワーで汗を流すと、トーストとコーヒーだけの簡単な朝食を済ませ着替えを始めた。
真っ白なシャツに身を包み、髪を整える。その姿は以前とは少し違い、濃いブラウンの髪は短く切りそろえられ、ブルーの瞳も相まってとてもさわやかな印象を受ける。深緑色の共和国軍の軍服にそでを通すと、いかにも軍人といった風貌だ。
肩に付けられた階級章は、彼が共和国軍の士官であることを証明している。
左胸には双頭の鷲のエンブレム。
右の胸ポケットの上には名札が付いていて、そこには『エルド・ロウ』と刻まれていた。
エルド・ロウ。
それがスノウのここでの名前だ。
実際にエルド・ロウという人物は実在するらしいが、今どこで何をしているのかスノウは知らない。
ソールがどこからか調達してきたIDだから、もしかしたら既に生きてはいないかもしれない。彼女は目的の為なら残酷な手段も割りと平気でやってのける女だ。
朝6時45分を少し回った頃にアパートを出た。
のどかな田園風景の中を歩いて、職場である共和国軍の基地へ向かう。
基地までの距離は徒歩で10分ほど。緩やかな上り坂を登りきると、基地の外周を囲う壁が見えてくる。
ここは共和国の端の端にある小さな町ガンデルク。海を隔てて敵国の領土に隣接した町だ。
共和国軍ガンデルク基地を抱えるこの町は、漁業と農業以外に目立った産業はない。それら以外の職業となると、ほとんどが軍に関連した仕事になるような町だ。
上り坂の中腹で振り返ると、海岸線と朝日を浴びて輝く海が見える。あの海を越えると帝国領内だ。
帝国軍と共和国軍の間の戦争は始まって久しいが、この基地はその戦いの最前線に位置し、『最も死に近い基地』などと謂われる。
だがここ二十年ほどは休戦状態が続き、両国を隔てるこの海が事実上の軍事境界線となり、表立った戦闘はしばらく起きていなかった。
今回の仕事の内容は『ガンデルク基地内部の状況を探ること』だ。
依頼人は軍関係者ではないということだが、直接関与はしていなくとも、影に帝国軍が潜んでいることは容易に想像できる。
もとより帝国軍は領土拡大を目論んでいるとされているし、共和国との境界線上の基地を制圧したとしても不思議ではない。
近々、均衡を破り再び戦闘を開始するつもりなのだろう。その手始めに、ガンデルク基地を攻め落とすのが狙いなのだ。依頼人のねらいは、『攻略作戦の立案に必要な情報の収集』といったところか。
と、ここまで分析してみたものの、帝国の狙いなどスノウにとってはどうでもいいことだった。
もともと自分には“国”というものに帰属する意識がない。
それはソールやサンダースや、ゴルダ村の他の仲間たちもきっと同じ感覚だと思う。報酬さえ手に入ればどこの国の誰の依頼でも受けるし、どんな任務でも遂行する。その結果、例え国の形が変わってしまったとしても興味が無い。
7時ぴったりに司令部庁舎2階の副官室の前に到着した。
ここがエルド・ロウの職場。ガンデルク基地司令官のスケジュール管理や身の回りの世話をする部署だ。
スノウが成りすましているエルド・ロウという人物は、司令官の最も近くで補佐をする『副官』という役職に就いている。
スノウが元締めから命令される仕事は暗殺がほとんどだが、今回の仕事は珍しく情報の入手だ。そうなると副官が一番都合がいい。
職務上、司令官にくっついて様々な場所に視察に出掛ける副官は、基地全体の動向を把握しやすいのだ。
しかし副官という役職は、希望したからと言って簡単になれるものではない。
能力を認められた者のみを集め、更にその中でふるいに掛けられる狭き門。
そのためスノウは、まず士官学校を首席で卒業し、その後の職域別教育もトップの成績を修めた。
その努力が実を結び、今回着任する新司令官の副官に見事選ばれたのだ。
ここまでは順調だ。
だがスノウには気になる事が一つあった。
サンダースだ。
どういう訳かサンダースも今回の任務に参加しているのだが、一体どこで何をしているのかは接触してみないと分からない。
エルド・ロウとして共和国に入国した時から元締めはもちろん他の仲間とも連絡を絶っているので、サンダースがどんな形でこの国に侵入しているのか知る術がないのだ。
まあ、そのうち何らかの方法で接触してくるだろうとは思うが、あいつは馬鹿なので何かへまをしないかそれだけが気がかりだ。
「あ、おはようございます!」
副官室の扉を開けると、片手にポットを持った女性軍人が挨拶をしてきた。
この部屋で勤務する者の一人、庶務係のヒメル・セイジョウ伍長だ。
赤茶色の髪を頭の後ろに結い上げ、スノウと同じ深緑色の軍服、同じエンブレムを胸に着けている。ただ一つ違うところは、スカートをはいている事だろうか。
「すいません、まだお茶の用意できてないんですけど、すぐに準備しますので。副官はコーヒーのブラックでしたよね」
そう言ってヒメルはポットを持って部屋を出ていった。
室内には机が三つあり、奥に一つと右手に二つの机が向かい合って置かれている。
向かい合ったうちの一つはヒメルの机だ。ペン立てや卓上型のカレンダーなどがピンク色で統一されている。
反対側の机は司令官の専属ドライバーであるトーマ・スエサキ軍曹の席。今日は早朝から新司令官を迎えに行っている。
部屋の奥の自分の机に座ると、スノウは小さく息を吐いた。
部屋の右手の壁面には出入口とは別の扉があり、となりの司令官室と繋がっている。
ここに赴任して早2週間、今日はついに新司令官が着任する日だ。
「今日はいよいよ新しい司令官がいらっしゃいますね」
ソーサーに乗ったコーヒーカップをスノウの机に差し出しながら、ヒメルは嬉しそうに言った。
「緊張しますね、どんな方なのでしょうか。前の人みたいに怖い人だったら嫌だなぁ……。その前の人は優しいけど口の臭いおじさんだったしなあ……。それにしても、新しい司令官の事前情報が全くないっていうのも変な話ですよね」
“変”と言えば、確かに奇妙だった。
普通なら噂の一つや二つ流れて来てもおかしくないのに、新司令官に関する情報が全く明かされていないのだ。上層部に問い合わせても、その件については開示されていないの一点張り。
前もって準備する為にわざわざ副官が2週間前に赴任しているのに、それでは意味が無いではないかと不満を抱えながらも、何の進展もなく今日まで来てしまった。
人事に関する情報が秘密にされるのは解るが、事務処理上必要な名前や階級やIDぐらいは明かされても問題ないと思うのだが、何をそんなに秘匿しなければならないのか。実に奇妙な司令官だ。
「どんな人物かは来てみればわかるさ。それよりセイジョウ、司令官室の掃除は終わったのか?」
「えっ、と……はい、一応は」
「そうか、では点検する」
少し慌てるヒメルを尻目に、スノウは一旦廊下に出てから突き当たりにある司令官室に向かった。直接繋がる扉を使わなかったのは、新しい司令官が目にするであろう廊下の仕上がりからチェックするためだ。
スノウはぐるりと廊下を見回すと、司令官室の重厚な扉の前に立ち、淡々と言い放つ。
「……ドアノブの磨きが足りない。やり直し」
まだ室内に入ってもいないのに、いきなりやり直しを言い付けられたヒメルは「ええー」とあからさまに嫌そうな顔をした。
◇ ◆ ◇
何度もやり直しをさせ、司令官室は塵ひとつなく磨き上げられた。
「まあ、こんなところかな」
スノウが部屋全体を眺めながら呟く。後ろでヒメルが息を荒くしながら「鬼!」と罵る声が聞こえたが、どうでもいいので無視した。
「セイジョウ、ここはもういい。他の準備をしてくれ」
「はっはい。副官はどこへ?」
「私は玄関ホールの方を見てくる。」
司令官を乗せた車は正面玄関前の車寄せに止まる予定だったので、念のため確認しておいた方が良いだろう。普段の清掃担当は他の部署なのだが、汚れているようならヒメルに掃除させなければならない。
スノウは正面玄関に向かった。ここは2階なので下の階に降りる。その途中、階段の踊り場に差し掛かったところで、階段を上がってくる女性に会った。
女性はこちらに気づくと顔を上げ、ハッと驚いた様子で目を見開いた。
その目を見て、スノウも釣られるように息を飲む。
見開かれたその瞳は、金色──いや、金色よりももっと深く、少し赤みを帯びた色、琥珀色だったのだ。その瞳の周りを、扇のようなまつ毛が縁取っている。
肩に流した長い髪も同じく琥珀色で、深緑色の軍服にことのほか良く映える。
肌は透き通る様に白く、ほんのりピンク色に染まった頬はなめらかな陶器のように見えた。
こんなに完成された人間がいるのだろうか。
“美しい”という形容はこういう事を言うのだろう。
そう納得させる様な迫力のある女性だった。
司令部の勤務者の中にこんな女性はいただろうか。まだ赴任してきて2週間だが、勤務者の顔は一通り見ている。こんな目立つ容姿なら尚更、一度見たら忘れないはずだ。
(一体誰だ……?)
そう問いたいのに、スノウはその女性を見つめたまま声を出すことができなかった。
琥珀の瞳がじっとこちらを見つめている。その瞳に圧倒されて、何と声を掛けたらいいのか、うまく言葉を紡ぐことができない。
おかしい、いつもならこんな風に狼狽えることなどないのに。スノウは珍しく動揺している自分に驚いた。
その間も女性はじっとスノウを見つめた。何故か少し泣きそうな表情で、ほんのわずか何か喋り出そうとして……、だが何も言わない。
なぜ何も言わないのだろう。なぜ俺を見るんだ。
頼む、何かしゃべってくれ。
息が詰まりそうだ。
「副官! その方です!」
突然、下の階の方で声が響いた。その声のおかげでやっと琥珀の目の呪縛から解放される。
見ると、新しい司令官を迎えに行っているはずのトーマ・スエサキ軍曹が、慌てた様子で玄関ホールから駆け込んできたところだった。
「スエサキ。お前、司令官はどうした?」
いつも通りの淡々とした口調に戻ったスノウが言うと、司令官専属ドライバーはいら立ち気味に返す。
「だから! その方なんです! 新しい基地司令官は!」
「──ッ!」
スノウは耳を疑った。
まさか、こんな司令官らしくないどころか軍人にすら見えない様な女性が司令官だと?
もう一度琥珀の瞳の女性を見ると、先ほどまでの泣きそうな表情は消え失せ、副官の反応を面白がるような微笑みをたたえている。
そしてふっくらとした薔薇色の唇を使って初めて言葉を紡いだ。
「はじめまして。この度ガンデルク基地司令官を拝命し着任しました、ツルギ・ハインロットです。よろしくね」
そんな、ウィンクしながら言われても……。
今思えばこれが、憂鬱な日々の始まりだった──……