8話 道化王子
家には帰せないときっぱり告げられたとき、サラは軽いパニック状態だった。
彼らの言葉がろくに理解できない。容れ物だとか代替わりだとか東とか南とか全部が全部サラの現実ではなくて、義母と義姉に虐げられる未来をどう回避できるのか、そのことばかりに気を取られた。
「困るんです、本当に」
「何度も言ってるけど帰ったら帰ったで殺されちゃうかもしれないよ? 自分の命より家事が大事なの?」
執務室だという部屋に通され、革張りの豪勢なソファに浅く腰掛けるサラに、レオンは数度目の同じ質問を投げかけた。
出された紅茶はすっかり冷めきっている。
「かもしれない、なんですよね? 大丈夫かもしれないじゃないですか。魔女とかよくわかりませんし、狙われる理由に一切の心当たりがありません」
しいて言えば南の魔女とかいう謎の存在が直前に接触してきた件くらいだ。無言で背をさすってくれるノーラの温もりを感じながら、サラは眩暈を堪えていた。気分が悪い。情報の波に押し流されて、優先すべき事項がわからなくなっている。
「仕方ないな。アル、お前は先に戻っててくれ。俺とノーラでなんとかするから」
「……南の魔女が絡んでいるのなら僕はこれ以上首を突っ込みませんが、万が一にでも東の魔女に食わせることはしないでくださいよ。それと場は繋ぎますが舞踏会には合流してください」
「悪いけど最後までなんとかしてくれ。表舞台はお前のものだから」
レオンがひらりと手を振る。ため息をついたアルが「面倒な兄ですね」と言い残して部屋を去った。
部屋には三人だけが取り残される。
「……よし、協力ありがとうノーラ。アルに説教されるってわかってたのに悪かったな」
「ううん、いいのよお兄さま。アルは踊ってくれないって言うし、おかげでお姉さまとも出会えたわ」
……あれ? 共犯じみた二人のやり取りに違和感を覚え、サラは顔を上げる。
「さて、取引の話をしよう」
目が合うとレオンはにっこりと笑った。ここからが本題だ、とでも言うように。
「家に帰していただけるのなら」
「頑なだね。食事の用意をしなければ火あぶりにでもされるの?」
「かもしれません」
「それなら使用人を三人遣わせよう。ご家族に不満があるなら五人でも十人でも手配する」
途端に話題がサラの現実に迫ってきた。魔女でも代替わりでも生殺与奪でもなく、家と家族と日常の話。
使用人の雇用。サラをこの城に留めておくための措置。この男はどうやら本気らしい。
「……使用人を雇う余裕はありません」
「その様子を見ればわかるよ。本来ならばあんたがこなすはずだった労働に対して、こちらが対価を支払うと考えてくれればいい」
「割に合わないと思うのですが……義母は納得しないと思いますし」
「王家の命に背くのなら国外追放するまでだ。サラ・マクリア」
名を呼ばれ、思わず背筋が伸びる。やはり人の上に立つ血が流れているのか、声に抗えない力があった。
サラに対する措置も王家の命だというのなら、背くことは許されないのだ、と理解する。
けれどレオンはそれを見て満足そうな顔をして、やはりどこか緩い調子でこう言った。
「ここで家庭教師になってみない?」
「……はい?」
今度は一体なんなんだ。サラは思い切り怪訝な顔をした。
「いまいち立場が理解できてないみたいだし、こっちとしては目の届くところにいてくれさえすれば問題ないから、ここで仕事を与えるよ。その方が納得しやすいだろ」
そういうことか、とレオンの提案がすとんと腑に落ちる。切り込むタイミングが突拍子もないだけで、この男は案外親身になってくれているのかもしれない。――いや。
「ろくな教養のない私が王城で誰に何を教えろと? 肥料の作り方ですか、野草の調理方法ですか、薬に頼らず風邪を治す方法ですか? からかうのも大概にしてください」
「意外と興味深いな。まあ興奮しないで、それでも飲んで落ち着いてよ」
促され、とうに湯気のたたなくなった陶器のティーカップに目を落とす。シンプルな白いカップに満ちる、澄んだ茶色の液体。
意外と質素なんだな、とぼんやり思う。サラの家にあるティーセットは昔父が職人から買いつけたもので、繊細な花模様の入った華やかなカップだ。
気は進まなかったが、無下にすることも憚られた。仕方なしに口をつける。
「……え、おいしい」
冷めても香り豊かで、渋過ぎずにすっきりしている。肩から力が抜けていくのがわかった。
「でしょう。わたしもレオンお兄さまのお茶が大好き」
ノーラが自分のことのように嬉しそうに笑った。なんて素直な子なんだろう。
「頼みたいのはその子のことなんだ。国の歴史や文字や計算を教えるわけじゃない。社交界のルールもマナーも必要ない。教えて欲しいのは人との関わり方、人としての普通の感性」
「わたしの先生?」
ノーラが華やいだ声を上げた。先生というより友達だな、とレオンが答える。
「この子はエレアノーラ。白雪姫の噂は知ってる?」
やっぱり彼女がそうだったのだ、とサラは驚くこともなくすんなりと納得した。
「魔女にかどわかされて、長い間幽閉されていたのを王家が助け出したと聞いています」
「噂はその通り。事実は若干異なる。ノーラは魔女の娘で、同じ容れ物候補の一人だ」
サラは思わず隣に座るエレアノーラを振り返った。彼女はにこにこと笑っている。
「噂は少し都合のいいように脚色したんだ。彼女は物心ついた頃には鎖で牢に繋がれて、つい先日まで軟禁されていた」
軟禁。予想しなかった重苦しい響きに衝撃を受ける。
「ずっと、牢に……」
「そう。一般教養を身につけさせるために教師をつけてはいるが、外の世界のことを何も知らない。ようやく靴を自分で履けるようになったくらいでね」
「……そんな内部事情を簡単に話していいんですか?」
「もう忘れたのか? あんただって容れ物候補の一人だ。完全に渦中の人物だよ」
口元に笑みを湛えたまま、レオンの目の奥が鋭く光る。
逃がさない、という意思を感じた。
「お言葉ですが王子、私は長い間使用人同然の扱いを受けてきました。父が亡くなってから一切の教育を受けさせてもらえず、買い出し以外で街に出ることも許されず、同世代の友人もおりません。人に与えられるものを持たない人間です」
まったく相応しくない。人との関わり方も感性も、彼女に教えるべき人材はここには履いて捨てるほどいるはずだ。
深窓の令嬢に平民の価値観など必要ない。
「それがあんたの自己評価?」
「事実ですから。というかこんな身なりの平民を捕まえてお嬢様の家庭教師だなんて、よく平然と頼めますね」
「身なりは関係ないだろ。わかった、気が乗らないなら無理強いはしない。家には帰せないけど」
再三の言葉に、さしものサラも口を噤んだ。彼らも好き好んでサラを手元に置いておきたいわけじゃない。むしろこんな平民ひとりのために時間と労力と空間を割かなくてはならいなんて不本意だろう。魔女とやらに気に入られてしまったばかりに面倒を見なくてはならないなんて。
「……私なりにできることを探そうと思います。滞在している間はご迷惑をおかけしませんから」
帰ってからのことは考えないことにした。どうせ権力には逆らえない。もうどうにでもなればいい。
「でも、どうして私がその、魔女の容れ物なんかに選ばれたんですか」
魔女なんて、外の世界の存在だと思っていた。サラの人生とは無縁のはずだったのに。
「東の魔女の選出基準は恐らく、若く美しい健康体の女性、なおかつ強力な魔力を有していること」
「なにひとつ当てはまってないと思うんですけど」
「後ろ向きだなぁ。じゃあ手っ取り早く着飾ってみよう」
レオンがすっと席を立った。扉を開け、廊下に控えていたらしい侍女を呼びつける。
「彼女に合いそうなドレスを見繕っていい感じにしてあげて」
「かしこまりました。サラ様、どうぞこちらへ」
「え、あの、ちょっと」
慌てるサラの手を取り、侍女は半ば強引にサラを部屋の外に連れ出す。救いの手を求めて振り向いても、レオンはひらひらと手を振るだけだ。
「ノーラを会場まで送り届けたら合流するよ」
「わたしもお姉さまについていくわ」
「アルと踊りたいんだろ。時間がなくなる前に行っておいで」
ノーラは途端に目を輝かせ、ありがとう、と声を弾ませた。
**
「こんな高価なものつけられません!」
「そっち押さえて! いいですかサラ様、暴れて落とされたら弁償していただきますからね」
煌めくサファイアのイヤリングが視界の端に映り、サラはうっと言葉を詰まらせた。
ずっとこれの繰り返した。
見たこともない豪華で広大な衣装部屋に連行されたサラは、「これなんてどうですか」と提示された煌びやかなドレスを着れませんと拒絶し、着てくださいと説得され、無理ですと逃げては捕まり、侍女と格闘しながら着付けられていた。見えないのだから靴はこのままでいいと主張して剥ぎ取られ、髪に櫛を通され、強引に鏡の前に座らされる。
「お美しいです」
「お世辞はいいです」
張りぼての突貫工事だ。どうしたってドレスに着られている。ミルクで洗った頬はしっとりと張りがあったし、淡い若草色のサテンはサラの金髪とよく調和が取れていたけれど、やっぱりなにかがちぐはぐだ。
「私が着ていいものじゃない……」
「さあ完成さしましたよ。どうぞこちらへ」
サラの嘆きは黙殺される。したたかな侍女たちに導かれ、衣装部屋を後にする。
「終わった?」
扉を開けてみれば、レオンが壁に寄りかかってサラを待っていた。侍女たちが恭しく頭を下げる。
「お待たせいたしました」
「うん、いいね。じゃあ行こうか」
当然のように手を差し伸べてくるので、サラは半ば恨みを籠めてじとりとレオンを見上げた。
「……どちらへ?」
舞踏会には参加したくなかった。義母たちに見つかるわけにはいかない。
「会場には行かないよ。俺もああいう場所は苦手なんだ」
差し出した手を降ろして、レオンが歩き出す。仕方がないので後を追う。広い城のどこを歩かされているのかもわからない。
忙しなく行き交う使用人たちに時折声を掛けながら、レオンはどうやら会場とは逆の方に向かっているようだった。階段を上り、別棟へと通じる通路を渡る。
「こっち側が王家の居住区。さっきと道は違うけど引き返してる形だね。ここから先は王家付きの使用人以外の立ち入りを禁じてる」
通路の脇には甲冑を着込んだ兵が控えていた。レオンが片手を上げれば丁寧に頭を垂れ、道を開ける。
「私を通してもいいんですか」
「あんたの部屋もこの棟の中だよ。ノーラと近い方がいいかな」
「王族と同じ空間で寝泊まりするなんて考えられません。魔女の容れ物というだけでそこまで破格の扱いを受けるんですか」
にわかには信じがたい話だ。こうして一対一で話をしている状況ですら、天変地異の前触れのようなのに。
「東の魔女の代替わりは何より避けたい事象だからね。抵抗があるのはわかるけど、嫁入り前の女性に不本意な状況を強いても、なにかあったときに対処できる方がいい」
それとも、と言ってレオンは足を止め、目の前の扉を静かに開いた。
ヴァイオリンの音色と、人々の笑い声がさざ波のように鼓膜を揺らした。
「俺と婚約でもしてみる?」
レオンの腕が白いカーテンを持ち上げる。網膜を焼いたのは、煌びやかに輝くシャンデリアの光だ。
天使が描かれた高い壁は金箔の装飾で覆われ、広大な大広間を絢爛に飾っている。
磨かれた大理石の上でワルツを踊る男女。
ここは密かに大広間を見下ろせる、小さな秘密の空間だった。
贅の限りを尽くした晩餐。サラとは無縁のはずの世界。
それが彼の日常だ。
サラはその場に立ち尽くしたまま、悠然と構えるレオンを見つめる。不思議なくらいに心が凪いでいた。
「お断りします」
これ以上惨めな思いはしたくなかった。だから精一杯胸を張った。
なるほどこれだけ着飾っていれば、少しは自分の言葉に自信が持てるというものだ。
「王子だからって何を言っても許されると思ったら大間違いよ。あなたにとっては遊びみたいな気持ちでもね、私の人生は一発でぐちゃぐちゃになるのよ。そりゃ今までだって貧しい平民人生だったけどね!」
彼の言葉の軽さに腹が立った。サラを慮っているようで一方的な態度と提案が気に食わなかった。
なにもかもを持って生まれた恵まれた人間には、サラのような平民の心なんて理解できないに違いない。
「物珍しさで味見なんてさせない。分相応の誠実な相手とほどほどに幸せな家庭を築いてやるわよ。私に残ってるのは身体と心だけなんだもの、それまで傷はつけさせない」
言ってやった。王族に対してあるまじき無礼な態度で。
「平民が喚いてごめんなさいね。不敬罪で火あぶりにしてもいいわよ。その方が潔い」
きっとこの男はそこまで軽率な方じゃない。けれどタイミングと立場と価値観が決定的に噛み合わなかった。
悪気のない言葉だからこそ許容できないことがある。
私は消費物じゃない。使い捨ての道具でもない。
正面からレオンを睨み据える。彼はなぜか俯いて、かすかに肩を震わせていた。
「……くっ、はは……」
――笑っている。
この期に及んで人をからかって楽しんでいるのか。
「っ、人をからかうのも」
「ごめん、ごめん、謝るよ。俺が軽率だった、間違いない。立場に驕ってやり方を間違えた」
怒りをぶつけられてもなお飄々とした態度のレオンに、サラは余計な不信感を募らせる。よもや想像以上に軟派な男だったか――身構えるより先にレオンが動いた。
サラの前に跪いたのだ。
「どうか浅慮をお許しください」
もう彼は笑っていなかった。出会ってからもっとも真摯な声色で謝罪し、彼はサラに頭を垂れる。
「別に、そこまでしろとは……というか誰かに見られたら私の方が罪になりそう」
「自分で啖呵切っておいてそれか」
レオンが再び噴き出した。何がそんなにおかしいのか理解できないが、サラの態度に気分を害した様子はない。それどころか立ち上がる気配もなく、「もう立って」と告げてようやく解放される。
「私の無礼を咎めないの?」
「畏まられるよりずっといい。もとより王子の身分は性に合わないんでね」
レオンに促され、会場を見下ろす。ちょうどホールの真ん中で、アルフレッドとエレアノーラが手を取り合ったところだった。
周囲からこぼれる溜息の数々が、こちらにまで届いてくる。あの少女は誰だ、あれが白雪姫か。囁きが呼応して、周囲に動揺が広がっていく。
「へえ。付け焼刃だけどちゃんと踊れてるみたいだな」
「あの子に教えられることなんてあるのかしら……」
「それはどうかな。悠長に構えていられるのも今のうちだと思うよ」
あの少女はどんな問題を抱えているのだろう。
他人事のように華やかな社交場を見下ろしていたサラは、ふいに見覚えのある人影を見つけて唇を引き結んだ。
軽やかに舞うエレアノーラの近くに、着飾った二人の義姉がいる。彼女たちの視線はアルフレッドとエレアノーラの釘付けだった。
さぞ悔しいことだろう。
「家族に挨拶はしなくていいの?」
サラの視線に気づいたのだろうか、目敏い男だ。必要ないわ、と首を振る。
「お互いに愛情なんてないもの」
「なら彼女たちには今夜中に遣いをやって説明させるよ。あんたは家のことは気にしなくていい」
カーテンが閉じ、煌びやかな世界が閉ざされる。ゆったりとしたワルツの音色だけが響いている。
「……本当にこの城にご厄介になるの? まったく実感が湧かないのだけど」
「いいことだよ、東の魔女の恐ろしさを知らないってことなんだから」
それこそ知っておくべきではないのだろうか。サラに接触してきた南の魔女とやらはやたら愉快でひょうきんだったが、東の魔女はエレアノーラを鎖で繋いでいたと言っていた。
それ以外に、一体どれほどの悪事を働いたのか。
「一体なにをしでかしたの? その東の魔女って」
何の気なしに問えば、レオンの目からふっと笑みが消えた。
相変わらず口元は微笑んでいるが、のっぺりとしたオリーブグリーンからは感情が窺えない。
この男は決して他人に腹の内を明かさない人間だと悟った。サラがあからさまに警戒したのを察したのか、瞬きの次には至って穏やかな表情に戻っていたが。
「東の魔女は人の心を操るんだ。操られ、壊された人間は勝手に自滅する。百年前も、栄華を極めた大国をひとつ滅ぼした」
国をひとつ。まるで物語の中の出来事みたいで、聞いたところでやはり他人事みたいだ。
「それで、今はこのフランブールを滅ぼそうとしているってこと?」
「その通り」
あんたはそれが生き永らえるための駒として選ばれてしまったんだ、とレオンは言う。
まったく、外れくじみたいな人生だと思った。