6話 灰かぶり
「ねえ聞いた? 白雪姫の噂!」
広間で義姉たちがはしゃいだ声を上げているのを、サラはぼんやりと聞いていた。あかぎれた指に塩が染みて傷んだが、貴重な肉を腐らせるわけにはいかなかったから、奥歯を噛み締めて赤身に刷り込んでいく。
「魔女に囚われていた子がお城で保護されてるって話でしょう? なんでも貴族のご令嬢でもなんでもない、身寄りのない子だったんですってね」
「そんな身分でも王子のお傍にいられるなんて……」
「私も魔女に攫われたかったぁ!」
最後の台詞はアンサンブルだ。本当にお喋りが好きな人たちだ。
そもそも、保護された少女は「まるで白雪のように肌の白い、絶世の美少女」ではなかったか。市場でもその話で持ちきりだった。
なにしろこの国では、いつ妻を迎えてもおかしくない年齢の王子ばかりが五人もいる。唯一の王女は国外へと嫁いでしまっているから、次期国王は五人のうちの誰かになるはずだ。
やんごとなき身分でなければ一目見ることすら叶わないと儚い夢を見ていた少女たちにとって、この噂は衝撃的だった。
「奇跡のような話だわ」
思わず独り言がこぼれる。サラにはわかる。くだんの少女が平凡な容姿をしていたら、きっとこれほどの騒ぎにはなっていないはずだ。
人は見てくれで印象も態度も変わる。義理の姉二人は流行のドレスを着て、綺麗に髪を結い、身なりには気を使っている分、上玉には見られるようだけれど、特別な美女と称するのはいささか誇張表現だ。
「滅多なことを言うもんじゃないですよ、ヴィオレーヌ、バレンシア。可愛い娘が魔女にかどわかされるなんて、考えただけで寒気がするわ」
三人目の声は、神経質で尖っている。大げさに身震いしてみせるのが見なくても伝わってくるようだ。
「ああ……ごめんなさい、お母さま。そうよね、私もお母さまの娘に生まれて良かった」
「いつか素敵な旦那様を見つけてくるからね」
演技みたいなしおらしい声といっときの家族ごっこ。昨日は取っ組み合いの喧嘩をしていたのにお気楽なことだ。
火にかけていたスープが煮立ち、蓋が浮き始める。サラはさっと鍋を移動させると、手際よく三つの皿に中身を移し、すすけたエプロンで指を拭った。
「サラ! ディナーの準備はまだなの?」
広間から義母の厳しい声が飛んでくる。サラは「今すぐに!」と声を張りながら陶器の器にバケットを盛り、トレイとワイングラスを器用に掴んでキッチンを飛び出した。
「貧相ね」
テーブルクロスに広げた食事を見るなり義母――ロヴィーサが顔をしかめる。きつね色に焼いたバケットと一口大に切ったチーズ、オニオンスープ、鶏肉の香草焼きと白身魚のオリーブ和え、トマトとパプリカのマリネ、デザートは紅茶のパウンドケーキ。すべてサラの手製だ。
テーブルには花まで飾り、ワインだって用意した。
これのどこが貧相だ。
「物価が上がっている上に収入に限りがあるんだから仕方がないです」
切れ長の鋭い目がサラを睨み、そしてすぐに反らされた。怒りを顔に出さないよう必死に無表情を取り繕う。
節制しない義母と義姉のためにこっちは精一杯やっている。買い貯めした肉や魚を干し、庭でハーブや野菜を育て、同じメニューが続くだけで皿を割る彼女たちに食材を無駄にさせないように常に思考を巡らせている。
「あたしこの鶏きらーい。前にも言ったよね? 出すんならもっと細かく切って味と食感を消してって」
ふっくらした頬をさらに膨れさせ、バレンシアがフォークを刺した鶏肉を皿の端に避けた。下手に刺激をしなければあれはサラの食事になる。
「あんたが残したら自分が食べられるから、わざと作ったんじゃないの? ひどいわね」
いらない追い打ちは姉のヴィオレーヌだ。母に似た細い目を意地悪く細め、口角を上げてサラを一瞥する。
「サラ」
ロヴィーサが剣呑な声で呼び止めた。キッチンに引っ込もうとしていたサラは素直に足を止め、ロヴィーサに向き直る。
「次から二度と同じメニューを作らないでちょうだい」
「ワインで煮込んだやわらかいビーフが食べたぁい。明日は絶対それね」
これはこうしちゃおう、とバレンシアは無邪気な様子で鶏肉をそのまま暖炉に放った。灰が舞い散り、床を汚す。
「バレンシア、食事中に不作法よ」
「ごめんなさい」
サラは無言で暖炉の前に膝をつき、エプロンの裾で灰を拭う。
「食事中に目障りよ。気の利かない娘ね、さっさと行きなさい」
ロヴィーサに窘められ、サラは「申し訳ありません」とキッチンへ向かった。途端に広間の方から弾けるような笑い声が響いてくる。
もはや怒りを通り越して心が凪いでいる。どうせ放って立ち去ろうとしても気が利かないと責められていた。目的はサラを惨めにすることだからだ。
この家だって本来はサラの所有物だ。
血の繋がった父が残した最後の形見。十年前、父が事故で亡くなったときはサラもまだ子どもだった。一人で生きていくことは不可能で、再婚したばかりで馴染みのない義理の母や姉たちの言いなりになるしかなかった。
それをいいことに彼女たちは我が物顔でサラの生活を踏みにじり、厳しい現実から目を背けるように豪遊して資産を削っている。
この家にはもうろくな資産がない。父は男爵の地位を持っていたが、死んだ人間が稼ぐことは不可能だ。
「街の娘なら誰でも参加できるって本当!?」
広間の方からいっそう大きな声がした。バレンシアがきゃあきゃあと黄色い声を上げている。
「舞踏会よ! 王子様に会えるんだわ!」
舞踏会。珍しい催しをするものだと不思議に思ったが、次の感想は「ばかばかしい」だった。もはや大黒柱を失ったこの家の人間に身分らしい身分はない。会ったところで高貴な相手が目を留めるとすれば、相応の地位を持つ相手か、あるいはきっと物語の主人公のように可憐で美しく、無垢でけなげで、花が綻ぶように笑う女の子だ。
ぼんやりと薄暗い照明の下、窓ガラスに映った自分の様相を見てたまらず目を反らす。
艶を失い、乱れたブロンドに灰で汚れた頬。繕って着続けている服は解雇した使用人のおさがりで、手指には生傷が絶えず、食事の偏りのせいか爪も割れている。浅慮な義理の姉二人を見ていつも滑稽だと思っているが、傍から見ればそれ以上に滑稽なのは間違いなくサラの方だ。
これを惨めと言わずなんと言おう。
「サラ! ちょっといないの? この役立たず!」
「はい、なんでしょう」
バレンシアがどたどたとキッチンの前に掛けてきた。数秒遅れてヴィオレーヌもやってくる。
「新しいドレスが必要よ。二十日後までに、全部。髪飾りもネックレスもイヤリングも全部、今一番流行の色と形で特注させるわ!」
「私とバレンシア二人分よ。色は紫がいい。サテンよ、上質のね」
「あたしはオレンジ! レースに刺繍を入れて、オーガンジーがいいなぁ。宝石はガーネットで」
汚らわしいのかキッチンへは一歩も入らず、入り口で次々とまくしたてる二人の要望をサラは羊皮紙の切れ端に淡々と書き写した。
「明らかに予算足りないわよ。この先三ヶ月、パンと卵だけで生活しなきゃ」
「なら何か売ればいいじゃない。まだあるでしょ、立派な本棚とか。中身に値はつかないだろうけど」
「あの本棚は備え付けになってるから、売るなら家を切り崩さなきゃ」
でっち上げだ。ロヴィーサすら知らないのだから反論はされないだろう、疑問に思われない程度には立派な本棚だ。
書斎は唯一の父の趣味だった。そこにある膨大な書物が、今のサラに許される最大の娯楽でもある。
ロヴィーサに知られれば燃やされかねないので、目を忍んでこっそり嗜む程度ではあったけれど。
「借金してでもなんとかするのよ」
ロヴィーサの声がした。娘二人が場所を譲り、サラも椅子から立ち上がる。
「返す当てがなければ借金すらできませんよ」
「この家を担保にすればいい」
不可能ではない。この家には相当の価値がある。
「お義母様たちの家がなくなるかもしれません」
「いざとなったら身体を切り崩してでも返済すればいいでしょう。ドレスさえ間に合えばいいのよ」
ロヴィーサは両端に立つ娘たちの肩を抱き、彼女たちに優しく微笑んでみせた。
「王家主催の舞踏会よ。侯爵家や伯爵家の跡取り息子だって参加しているわ、この子たちなら彼らの心を射止めてくれるに違いない」
娘たちが教養ある身分の殿方に見初められると本気で信じているとは思えない。
だから余計にサラを虐げて、心の平穏を保っているのだ。この義母はサラの身体すら切り売るつもりだ。
なにがそこまで憎いの?
「わかりました」
それ以外の返事は認められていない。サラは採寸のためにすり切れたメジャーを引っ張り出し、鼠の走るキッチンを横切った。
二十日後、煌びやかなドレスで着飾った義姉たちは頬を蒸気させて借りものの馬車に乗り込んで行った。
採寸も完璧、二人の好みと要望を細かに再現したオーダーメイドの新作ドレス。流行のレースに流行のフリル、豪華なシルエットに煌びやかな宝石。紅で唇を真っ赤にして、無邪気な夢を見て一夜の旅に出る。
「あとは夜食と朝食の準備ね……」
着付けもメイクもサラがひとりで行った。既に満身創痍だったが、身体は次の労働を覚えている。
ランタンに火をつけ、暗くなった庭に出た。花壇の前にしゃがみ込み、ローズマリーを摘み取る。ついでに育ち切ったトマトをもぎ、ヘタを取って口に放り込んだ。
熟れた甘い果肉が舌の上で溶ける。空腹が一番のスパイスとはこのことだ。
「……静かだわ」
やかましい親子がいなくなると、この家は一気に広くなる。サラが幼い頃は使用人を十人も雇っていたのだから当然だ。
夜風が乱れた髪を撫で、草が鳴る。気の早い虫の音が歌い、鶏が小屋を蹴る音が続く。
心地の良い夜だ。ずっとこうであったらいい。貧しくていい、ただ毎日穏やかに、作物を育ててパンを買い、夜は庭でホットワインを傾けて、その繰り返しがあればいい。それ以上は望まない。けれどそんなことすら叶わない。
朽ちかけた椅子に腰かけ、しばらく無言で星空を見上げていたサラの耳に、ふいに草を踏む音が響いた。
足音だ。誰かの。
肩を強張らせて息を詰める。暴漢だったらどうしよう。そういえば、この家には今、丸腰の女ひとりしかいない――
「あらまあ、まあ、なんて質素、動物小屋みたい!」
底抜けに明るい声がした。
「……ん?」
「あらやだ若いお嬢さん、こんなところにいたのねぇ」
恰幅のいい、初老の女性が立っていた。
サラは目を疑う。庭に通じる門は施錠していたはずだ。一体どこから侵入してきたのだろう。
女性は黒いローブに身を包み、サラを見るなり目を輝かせてフードを外した。豊かな白髪がこぼれる。優しげな面立ちをしていた。彼女は目元に寄った皺を深くして、ゆったりと微笑む。
「金髪碧眼……あなたがサラ・マクリアね」
耳に馴染む、聞き心地のよい声色。脈絡のない登場に反して穏やかな女性の物腰に、サラはうっかり警戒心を解きかけた。
「あの、あなたは……」
「細かいことは言いっこなし。あなた、なぜ舞踏会に参加しないの? 街の女性には身分を問わず全員に招待状が届いているはずよ」
「義母が処分していると思うので……あの、誰ですか?」
「あらいやだわ、最初から諦めちゃってるの? 夢のないお嬢さんだこと。駄目よ若いんだからもっと貪欲に行かないと。ほら空を飛びたいとか永遠に生きたいとか、あるじゃない?」
よく舌の回る人だ。質問に答えず一方的にまくしたてられ、サラはそっと立ち上がる。
「すみません、仕事があるので失礼します」
家に戻って鍵をかけよう。裏口も正面も窓も確認して、彼女が去るまで籠っていよう。どこで会ったのかも知らないのに名前も容姿も知られているなんて、恐ろしいことだ。
義母が雇ったのかもしれない。サラを処分するために。
私がいなくなったら誰もまともに生活していけないくせに。
「まあ、逃げる気かしら? 駄目よ駄目駄目。ほうら、これで逃げられない」
次の瞬間サラは両足を蔦に巻かれて動きを封じられた。めきめきと植物が異様に伸びる音がする。うっかり歩こうとして転倒しかけ、おかしな悲鳴を上げた。
「えっ、やだなにこれ庭の蔦!?」
「王子と一曲踊るのよ」
有無を言わさぬ声色だ。彼女は誰で、何の意図があってサラを訪ねてきたのだろう。
「王子と踊りたい女の子なんて吐いて捨てるほどいるでしょっ? 私は結構ですっ。だいたいあなたどこから現れて……っ」
息巻いて振り返り、サラは目を疑った。
庭が光に包まれている。
花壇のハーブや野菜の葉が光の粒を発し、ふわふわと大気を泳ぐように浮上する。サラの足首に巻き付いた蔦もそうだ。
「魔法を見たことがないの?」
女性が微笑んだ。彼女はいつの間にか手に大きな南瓜を抱えている。
「いらっしゃい」
ここでもサラに拒否権はないらしい。蔦が勝手に足を動かし、意思に反して魔女の後を追うことになる。
屋敷の正面に回った女性は、玄関の間に手にした南瓜を放り投げた。一見ただの奇行だが、南瓜はみるみる眩い光に覆われて、やがて一台の豪奢な馬車に化ける。
金の装飾に縁どられた煌びやかな馬車。まるで物語の中から飛び出してきたように立派な。
「これに乗るのよ」
「う、嘘でしょ……」
腰を抜かしそうになる。長年狭い世界で現実と対峙してきたサラにとって、魔法など遠い世界の話だった。
魔法が使えればこれほど生活に苦労していない。自由に行使できれば、身分も性別も関係なく仕事を与えてもらうことができるものだ。
だから強い魔力を持ち、自由に魔法を行使する者たちはみな貴族街や王城に移り住む。見たことなんてあるわけない。
「あなた、本当になに? どうして私を知っているの?」
「まったくみすぼらしい恰好ね。さあ着飾って。うんと綺麗になりましょ!」
やはり質問には答えてくれない。女性――いや、彼女はきっと魔女――が腕を振りかぶると、サラの視界は強烈な光で覆われた。
纏っていた襤褸が輝いているのだ。息を呑む。すすけていたワンピースの裾がふくらみ、シルエットが、質感が変わっていく。あたたかな光に包まれながら、サラは信じがたい思いでそれを見つめていた。
輝きが収まる頃、そこに現れたのは、上質な水色のオーガンジーを重ねた豪奢なドレスだった。義姉たちのデザインのような派手さはないが、身体を覆う曲線が美しく、細部の刺繍にまでこだわった上品なものだ。思わず後ずさり、その重みに慄く。
「これ……なに、どういうこと?」
「気に入った? 鏡をどうぞ」
顔を上げると目の前に姿見があった。驚いたのは鏡の存在よりも、着飾った自分の姿にだ。
長い間ろくな手入れもできず、乱れっぱなしだった髪が綺麗に結い上げられている。別人のように肌艶もよくなり、頬はふっくらと桃色で、耳元に揺れるパールが浮いていることもない。
「自分じゃないみたい……」
「あらパーツはなにもいじってないわよ。毎日きちんとお手入れすれば、あなたこれくらい綺麗になるのよ」
サラは白い手袋に覆われた自分の指を注視した。なるほど、隠してしまえば傷だってないも同然だ。
「でもこの姿は、私じゃないわね」
「卑屈にならないの。さあ馬車へ!」
「乗らないわ」
サラは踵を返して家に戻ろうとする。こんなに小奇麗にされてしまったら、普段の自分と比べてしまってもっと惨めな気持ちになる。
これは偽りの姿だ。サラの現実ではない。
こんなものはすべておかしな夢だ。幻覚を見ているのだ。
「んもう、頑固な子ね。駄目ったら駄目」
三度、自由を奪われる。サラの意思とは無関係に足が勝手に動くので、今度はなんだとドレスの裾を持ち上げれば、両の足を嵌めた美しいガラスの靴が勝手に歩行していた。
「いやぁ!」
平静を装いながら気が動転していたのか、サラは抵抗むなしく馬車へと押し込まれてしまう。シートに座って強引に靴を脱ごうとしたが、どんなに引っ張っても足にぴったり張り付いている。
「今夜に限りあなたに自由はないわよー!」
「今夜くらい自由にさせてよ!」
そもそもあなたは誰なの。悲鳴はむなしく黙殺され、サラを乗せた馬車は王城へと出発した。