4話 王子の憂鬱
「今日も成果はないのか」
「申し訳ございません、アルフレッド王子。エレアノーラ様は魔力を行使されることを極端に疎んでおられるようです」
従者の報告に、アルフレッドは机に肘をついたまま額を抑えて盛大な溜息をついた。
「疎む疎まないは関係ないだろう、仮にも魔女の『容れ物』候補として重宝されていた娘がなんの魔法も使えないんじゃ話にならない。あいつも子供じゃないんだ、いい加減協力的になるようどうにかしろ」
「ですが、アルフレッド王子……」
従者は言い淀んで苦い顔をする。おおかた、あの美貌の少女に嫌だ無理だと駄々を捏ねられて強く出られなかったのだろう。この二週間で私には無理ですとさじを投げた従者が二人いた。彼は三人目で、エレアノーラの魔法の特訓に就いて三日目になる。
アルフレッドはもう一度溜息をつき、白紙同然の報告書を執務机に放った。
こちらは通常の公務だって山積みなのだ。
「それで? もう一つの案件とやらはなんだ」
あらかじめ聞いていた案件を促す。口を開いたのは、従者の傍に立っていた別の侍女だった。彼女もエレアノーラにつけた人材だ。
「申し上げます。国王様からの提案で、エレアノーラ様のために中庭の改装を行う指揮を執って欲しいと」
「……はぁ?」
「アルフレッド王子の許可のもと行えと、国王様が」
「知るか、庭の改装くらい勝手にやれ!」
何が庭の改装だ。魔女を捕縛するためにエレアノーラの力が有効かと魔法の特訓をはじめたはいいが当人はまったく魔法を使う気配がなく、無為に時間が過ぎていく中で呑気が過ぎる。理解できないししたくもなかった。
「おっしゃいましたね? では自由にさせていただきます」
「僕の手を煩わせない範囲で好きにしろ。いいか、僕は指揮は執らない。やるなら自分たちでどうにかするんだ」
「ではエレアノーラ様のご希望通りに。念のためご報告申し上げますと、風で傷みやすく温暖を好む草花を所望されておりますので、まず温室を誂えます。それから鳥小屋の設置、昆虫の繁殖と保護にあたる区画を温室とは別に設けます。増設については中庭の一部では足りませんので離れの裏庭に」
つらつらと述べる侍女を「おい待て」と制止する。髪をひっつめた生真面目そうな侍女は、素直に黙って目礼した。
「なんだその壮大な増設企画は。新しく温室を誂えるだと?」
「ええ。たまたま通りかかった国王様にエレアノーラ様がお声をかけ、アルフレッド王子に任せればきっと叶えてくださると意気投合しておりました」
「だったら自分で叶えてやれ馬鹿親父……!」
額に青筋を立てながら頭を抱える。完全に遊ばれている。第一侍女におかしな言伝を任せるなと叫びたい。
だから嫌なんだ。
アルフレッドはあの父が苦手だ。
「僭越ながら意見を述べさせていただきますが、エレアノーラ様にもお考えがあるようです。ご提示した草花はどれも新種か国外産のもので、毒性の心配はございますが、薬草として役立つかもしれないと」
「……それを彼女が? この国の新種の植物について詳しいとでも?」
にわかには信じがたい。エレアノーラはずっと城の牢に幽閉されてきたのだ。確かに出会ったとき、彼女が知る由もない少女たちの行方を知っていたのは気になっていたが。
仮に望んだ情報や知識を得る力があるのだとしたら、あれほど無知で奔放な娘に育つだろうか、とも思う。
エレアノーラは中庭に咲いている花の名前ですらろくに知らなかった。あれほど興味を持っておいてだ。だというのに薬草になる新種の草花を知っている?
「疑うのならばどうぞご本人にご確認ください」
アルフレッドの怪訝な眼差しを察したのか、冷静な侍女はそう言って一礼した。アルフレッドは渋面を作る。
「いや、もういい、庭の件はすべて許可する。どうせ他に使い道もない資産だし好きにしろ。いいからしばらく一人にさせてくれ」
「でしたら、それは申し訳ございません」
言下の返事が流暢な謝罪であったから、アルフレッドは聞き間違えかと思って顔を上げた。
ノックもなしにドアノブが鳴り、扉が開く。
――来た。
「アル!」
「エレアノーラ様がどうしてもお会いしたいと」
「……咎めないから下がってくれ」
抵抗しても疲れるだけだ。アルフレッドは諦観とともに闖入者を受け入れた。
波打つ艶やかな黒髪と、花の綻ぶような笑顔。この城に来てからすっかり血色のよくなったエレアノーラ。彼女は、まるで鳥の子が親を慕うようにアルフレッドに懐いている。
「それと、既成事実を作る気なら自分は降りると国王様が」
「作るか馬鹿こいつの前で下品な言葉を使うな――!」
従者たちが会釈とともに部屋を後にし、扉が閉まる。たった数分の間にどっど疲労したアルフレッドに、エレアノーラが手を伸ばした。
「アル、少しやつれてるみたいね。国王様に言われたわ、癒してあげなさいって」
「速やかに僕から離れて指一本触れずにいろ。十分癒される」
エレアノーラは素直に腕を引っ込め、執務机の傍にあるソファにちょこんと座った。
「これでいい?」
「それでいい。金輪際、父の戯言は真に受けるなよ」
「戯言? 国王さまは真剣だったわ」
エレアノーラ相手にこれ以上は不毛だ。アルフレッドは冷めた紅茶を口に含み、深く息を吐く。
「なあ、中庭で薬草を栽培するというのは本当にお前の提案か」
「ええ。お城で栽培している植物と、この国で薬草に使われているものを見せてもらったのだけど、新しいお薬に使える薬草が他にもあったから」
「それはこの城に来てから得た知識か? 飲み込みは早いと報告は受けたが」
エレアノーラの教育にあたり、当然ながら多忙なアルフレッドが自ら指導することはできないので、魔法の訓練とは別に彼女には家庭教師を宛がっている。
集中力がない代わりに恐ろしく飲み込みが早いそうだ。
どうして学んでいるのか、何を学んでいるのかもわかっていないのに、言ったことは一度で覚えてしまう。そして教本の一文に至るまでを決して忘れない。こんな子どもはそうそういないと驚愕していた。
「前から知っていたの。身体の傷についてはお母さまが許さなかったし、森のみんなが教えてくれたから」
「森のみんな?」
「森のみんなよ」
アルフレッドがその言葉を飲み込めていないことを理解していない様子で、エレアノーラはじっとこちらを見つめている。
「あの牢に他の誰かが遊びに来ていたとでもいうのか?」
「アルが来てくれたときもいたでしょう?」
咄嗟に記憶を遡るが思い当たる節がない。怪訝な顔をするアルフレッドに、「鳥さんよ」と朗らかな声が告げた。
「……鳥?」
「ええ、鳥さん」
鳥さん。
言われてみれば格子の向こうでピィピィ鳴いていた気もする。
まさか。
「お前……次は鳥が友達だとでも言いだすのか……」
「アルは違うの?」
そう来るか。
普通は動物と喋ることはできない、と突っぱねてやりたかったが、エレアノーラが孤独のあまり都合のいい幻聴を聞いていた可能性を慮って黙ることにした。その程度の倫理観はある。
あるいは、なんらかの魔法の力が働いている可能性も否めない。見たことも聞いたことはなかったが。
「あの部屋は高すぎて鳥さんしか遊びに来られなかったけど、森のみんなの声を届けてくれるのよ。たまに薬草を摘んできてくれるし」
「……最大限に譲歩して否定はしないが、頼むから外で動物と喋ったりするなよ」
「どうして?」
エレアノーラが不思議そうに首を傾げる。
どうしてって、なぜそんな簡単なことがわからない。
「お前、この城に来てから住人が動物と喋っているのを見たことがあるか」
「それは……ないわ」
「だったら右に倣え。出る杭は打たれるぞ」
言ってから、アルフレッドはもう一つ、エレアノーラに確認しなくてはならないことを思い出した。
「ところでエレアノーラ。お前、魔法についてはからっきしのようだな」
エレアノーラの笑顔が硬くなる。
さすがに自覚はあったのか。
エレアノーラの能力は場合によっては東の魔女と対峙する際の切り札となり得る。だから座学と同じように、城が抱える訓練場でその道のエキスパートの指示と監視を受けながら、最大限の安全を確保した上で、どんな力を振るうのかを見定めるために時間と人材を割いている。
東の魔女は影を操り、人の心を惑わす。エレアノーラはどうなのか。
水を生むのか、炎を撒き散らすのか、人を癒すのか、物を変化させるのか。行使する魔法の適性は人によって千差万別だ。
「そもそもスタート地点にも立てていないそうじゃないか。東の魔女を超える力を持つだのなんだの大口を叩いておいて、物ひとつ動かせない、マッチの火も灯せないじゃ話にならないぞ」
アルフレッドが受けた報告は散々なものだった。
エレアノーラには何もできない、ただそれだけだ。
毎日毎日、訓練場に立っていざと盾を構えても、一向に何も起きない。ゆえにどの程度の魔力が潜んでいるのかも把握できない。
「その、そういうのはあんまり向いていないみたい」
「じゃあ何が向いているんだ。水辺だの岩場だの環境も変えて、想定しうるあらゆる魔法に備えているというのに。というか魔法が使えないのにどうして自分の魔力が強いと認識してるんだ。お母さまがそう言っていたからか?」
先手を打って弁解のひとつを塞ぐと、エレアノーラは珍しくバツの悪い様子で俯いた。毎日何があっても笑顔を絶やさずにいた彼女にしては珍しい反応だった。
「ねえ、この訓練、絶対に続けなきゃいけない?」
「当然だろう。今のお前の存在意義がそこにかかっているといっても過言じゃない。お前に大した魔力がなかったら、この城で手厚く保護してやる理由もなくなる」
「保護してくれなくてもいいのに」
「あのなぁ」
そうじゃないだろ、と口調がぞんざいになる。
「無能なら適当にあしらえるけどな、東の魔女すら脅かす力を持っていた場合は見過ごせないんだ。見定める必要があるんだよ、それは僕の責務でもあるし、国の今後に関わる事象かもしれない。やりたくないからやらないじゃ通らない」
エレアノーラの潜在能力を把握しなければ、アルフレッドだって動くに動けない。万が一に備えてどう対策を練ればいいのか、エレアノーラの力を恐れる人々をどう安心させればいいのか。
「でも……」
「言い訳はやめろ。訓練の度に付き合わされているのはこの国の最高峰のメイジたちだぞ。兵も導入している。お前ひとりの問題じゃない」
「誰かが傷つくかもしれない」
「傷つかないように熟練の者を相応の場所に集わせている」
アルフレッドは苛立っていた。
魔力の程度を推し量ることは難しいことじゃない。小さな子どもだって指導があれば見様見真似で魔法のひとつは放てるし、その些細な魔法ひとつから潜在能力を推し量ることはできる。
エレアノーラは自らの意思で魔力を閉ざしている。
何かから逃げていることは察しがついた。けれどそれを許容できる状況でもなかった。
すべてはアルフレッドの采配によって行われているものだ。何日も結果が出ないまま、時間と労力だけを、その価値があるかないかもわからない娘に割き続けるわけにはいかない。
「目の前の問題から逃げるな」
なにより、父王であるダーウィトの期待に沿う息子でいる必要がある。
俯いたまま返事をしないエレアノーラとの間に、重たい沈黙が流れる。けれど控えめなノックの音が静寂を破った。
「エレアノーラ様にお茶をご用意いたしました」
「……入れ」
静かに扉が開き、侍女が静かに入室する。その隙間を小動物のようにすり抜けて行ったのは、他でもないエレアノーラ本人だ。
「あ、おいこら!」
咄嗟に立ち上がって声を荒げるが、すぐに諦めて椅子に腰を下ろした。
追いかけたところで結果は同じだ。ため息をつき、入り口で立ち尽くしている侍女を下がらせようと腕を上げたところで、不意に聞き慣れた声がした。
「女の子に向かって『おいこら』はないだろ、もっと丁重に扱ってやらないと。アル」
「レオン兄さん?」
廊下からひょいと顔を覗かせ、軽く手を振ってみせたのは、長身痩躯の一人の男だ。
肩に垂れた明るい栗毛と、着崩した正装。柔らかい翡翠色の双眸で穏やかに笑んで、男――レオンは侍女が持っていた紅茶をトレイごと預かる。
「これは代わりに俺が飲むよ。あの子を追いかけてくれる? 声はかけなくてもいいから、危ないことしないように見ててやって。食器は後で戻しておくから」
「は、はい。ありがとうございます、行って参ります」
年若い侍女はほのかに頬を赤らめ、慌てた様子でエレアノーラが走り去った方へと駆けてゆく。気をつけてね、などと声すらかけながら、レオンは紅茶を一口すすった。
「まったく、相変わらずの人たらしですね」
「羨ましいならコツを教えようか」
「いりません」
椅子に深く腰掛けたまま疲れたように息を吐く。腹違いの六人兄弟の中でレオンは一番年の近い兄であり、改まって畏まるような間柄ではなかった。
王族らしからぬ奔放な振る舞いをする男だったが、アルフレッドにはないものを持っている。
「悪かったな、大事な任務のときに城にいてやれなくて。無事に東の魔女を退けたって?」
「皮肉はやめてください。アグネス陛下の差し金にも困ったものですね」
第二婦人アグネスがアルフレッドの存在を快く思っていないことは明らかだ。
レオンとアルフレッドの仲が良好であるから、手を組んで王位を獲得しようとしていると思い込んでいる。正確にはレオンがアルフレッドを時期王に据えるつもりでいると勘違いをしているのだ。だからアルフレッドの失脚を狙い、重要な任務のときにレオンを遠方に飛ばすなどして邪魔立てしてくる。
「それで、いつ戻られていたんですか」
「昨日の夜にな。国境は遠いよな、流行の疫病はなんとか撃退したし、おかげで熱狂的な支持も得られたけど」
「あとは出所ですね。結局疫病がアグネス派に仕組まれたものかどうか、調べていましたがまだ尻尾は掴めていません。それ以外の問題に手がかかりすぎていて」
「エレアノーラか」
レオンが苦笑した理由には心当たりがあったので、アルフレッドはふいと視線を逸らした。
「まさかお前があんな女の子の世話を自分から買って出るなんてな。聞いたときは驚いたよ」
「仕方なくですよ。うまく転がせば有用な駒になる。歯向かうようなら始末できるのは僕だけだ」
「そう言うよなぁ、お前なら。人としては欠けてるが王には必要な資質でもある」
広がる羊皮紙をかき分け、トレイを置いたレオンが机に寄りかかる。
この兄からは度々こうして感情の欠如を指摘されるが、アルフレッドはどこに問題があるのかわからない。
王族としての責務を果たしているだけだ。
「僕はあなたが次期国王を望むのなら支持しますよ。別に王になりたくて血眼になっているわけじゃない」
「やめてくれ。王にはお前が相応しいよ。唯一の正室の嫡男だし、王としての素質も気概もある。王位継承権だって一位だし」
またこれだ。レオンには野心や欲がない。へらへらと笑って侍女や従者と戯れて、人を束ねて高みを目指そうという目的意識がまるでない。
だから助かっている部分もあったし、ここまで違うから逆に気楽でもある。けれど話していると苛立つときもある。
「で、あの子が深刻な顔で飛び出して行った理由はなに?」
「……知りませんよ。義務を全うせず我が儘を言うので問い詰めただけです」
「問い詰めたって自覚はあるのか。なら追いかけて謝って、労わってあげなきゃな」
「それは兄上の得意分野でしょう。だいたい僕は悪くない、謝る理由がない」
突っぱねると、レオンは呆れたように小さく笑った。俺が慰めたってなんの意味もないよと。
「なぜですか。気に掛けるなら兄さんが妻にしてもいいんじゃないですか。王家ゆかりの者になれば城にもいやすいし僕たちも動きやすいし。もう縁談を断る必要もなくなりますよ」
とっくに妻を迎えていてもおかしくない四人の兄たちは、未だに一人もパートナーを見つけていない。それは各々が持つ個性ゆえに仕方のないことでもあったが、比較的まともなレオンが度重なる縁談を断り続けているというのはアルフレッドもよく知る話だ。
「残念だけど、俺はもっと人間くさい方が好みなんだよね。あの子はアルに懐いてるし歳も近い」
「鳥の雛と同じですよ。だいたい僕には婚約者がいますし、妻は一人しか娶らないと決めています」
「肖像画を交わしただけの婚約者と本気で結婚するつもりなのか? 相変わらず頑なな弟だな。ま、なるようになるさ」
「レオン兄さん」
レオンが退室する気配を察して、アルフレッドは改まった声色を作った。
「あれが東の魔女の本当の娘で、王家に悲劇をもたらす可能性があるとは考えないのですか」
「考えないよ。お前が無害だと判断したんだからそれを信じるさ」
随分とあっさり断言してくれる。じゃあな、とレオンは片手を上げた。
「別件であの子に話があるから、アルとのやり取りには気づかなかった体で接触させてもらうよ。また近いうちに」
別件? 答えを得る前にレオンは部屋を後にする。廊下の向こうから、レオン王子、お帰りなさいませ、と侍女たちのはしゃいだ声が聞こえた。出入りが多いおかげでアルフレッド付の侍女すら掌握しているのだ。
父といい兄といい王家の矜持はどこに行ったのか。考えるよりも目の前の仕事を片付けたくて、アルフレッドは寝ていた羽ペンを手に取った。