1話 死にたがり姫
エレアノーラは魔女の娘だ。
いずれ母に殺されることを、ずっと前から知っている。
「おはよう、みんな」
鉄格子の向こう側、小鳥たちのさえずりで目が覚めた。エレアノーラは朗らかな声で小鳥たちに応え、ゆっくりと身を起こす。冷えた石の上に素足を降ろし、両の足首に繋がる重たい鎖をじゃらりと鳴らしながら、鼻歌交じりに櫛を手に取った。
エレアノーラには母からきつく言い渡されていることがあった。毎朝毎晩、髪を櫛で整えること。決して肌を傷つけず、ミルクで顔を洗うこと。それから、文字を読まないこと。数を数えないこと。万が一誰かに会っても口を利いてはならないこと。
来たるべき日のために許されているのは、その美しさを磨くことだけだ。
「……まあ」
髪を梳かす手を止める。やわらかな朝陽が差す格子の向こう側を見つめて、エレアノーラは頬をほころばせる。
一陣の風が吹いた。強烈な風だ。
豊かな黒髪が舞い上がり、踊って、エレアノーラの頬を撫でた。格子の傍に止まっていた小鳥たちが一斉に飛び立つ。
「お客様がいらしたのね」
彼女の耳には、森の中で土を蹴る馬蹄が聞こえていた。孤立した深い森にそびえる、冷たい城に訪問者がやってきたらしい。
誰でもいいから、ここを見つけてくれたらいい。
エレアノーラは待ち望んでいる。
母が命を奪いに来る前に、どうかこの命が終わりますように、と。
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アルフレッドは憤っていた。
悪事を働く魔女ひとり捉えることができず翻弄されるこの国に、ひいては父王の決断力の弱さに。
「いいか、魔女の首は僕が取る。余計な邪魔立てはするな」
「ですが、アルフレッド王子……」
先遣部隊を率いるカミルの、遠慮と憐憫の入り混じった視線を黙殺する。確かこの男にはアルフレッドと同じ年頃の息子がいるはずだった。
「息子と僕を重ねて憐れんでいるのか?」
「いえ、そのようなことは決して」
「だったら集中しろ。帰路が確保できなければ甚大な被害になるぞ」
腰に携えていた剣を抜き、青々と茂る草むらをかき分ける。朝焼けがアルフレッドの輝く黄金の髪を照らした。
「東の魔女に見つかれば、僕はともかくお前たちは殺される」
カミルが押し黙る。アルフレッドには魔法に耐性のない彼らを守る使命があった。この中で魔女の魔法に対抗できるのは王家の血を引くアルフレッドだけだ。
森は深い緑に覆われている。美しく、見事な景観だった。小鳥がさえずり、蝶がはばたき、美しい雄鹿が小川で水を飲んでいる。清澄な空気が漂い、光を求めて絡み合う木々の木漏れ日が、濡れた雑草を光らせていた。
その奥にそびえる冷えた城。
どうしたって人里から隠れたこんな場所に、いったい誰がなんの目的で、城を建築したのか。
――隠れたかったからに違いない。極悪非道の魔女が、人間から逃れるために作ったのだ。
アルフレッドたちの目の前に分厚い塀が現れた。表面にはびっしりと棘のある木々が絡み、訪れる何ものもを威嚇し、拒絶しているようだ。
「魔女に誘拐された少女は、把握しているだけでも十二人です」
「生きていればの話だろう」
しれっと答えたアルフレッドに、カミルは形容しがたい苦い顔をした。構わず先陣を切り、アルフレッドは意識を灰色の城に向ける。やみくもに歩き回ったところで入口が見つかるはずがない。
この国ではここ数年、奇妙な少女誘拐事件が度重なっていた。それらを長年行方を眩ませていた魔女の所業と断定し、囮として魔女が好みそうな少女を何人か用意したのが半月前のことだった。
そのうちの一人が狙い通りにかどわかされた。その囮の少女の魔力の軌道を辿ってようやく、この国は実に十四年ぶりに、大罪人――東の魔女メイヴィスの所在を掴むことができた。
メイヴィスは十四年前に王族をも手に掛ける大罪を犯している。しかし今まで雲隠れする魔女の捜索はほとんど前向きに検討されなかった。父王が及び腰になっていたからだ。
今回がチャンスなのだ。
けれど根城を把握したものの、囮の少女が放つ魔力の気配は二日前に途切れている。
目を閉じ、城を覆う結界の綻びを探る。つい先日にも少女を連れ込んだのだから、出入りのために使う扉はあるはずだ。
「――西だ。扉がある」
「もう見つけられたのですか」
「間違いない。伝達しろ。ドクターと馬車を移動させるぞ」
歩調を速めて外壁を回り込む。この城に施された魔法の気配をアルフレッドは機敏に察知していた。
茨に覆われた城壁に、剣の切っ先を向ける。赤く色づいた薔薇の蕾が一等強い魔力を放っていた。
「壊すぞ」
石壁の隙間にかすかな光が奔り、なにかが蠢く音がする。そこに見えているのは相変わらずの高い塀だったが、アルフレッドは構わず足を踏み出した。
城壁の間に吸い込まれるようにして、城の内側に侵入する。
「アルフレッド様、これは……」
「壁はないんだ、魔法で錯覚を見せられていた。場所をよく覚えておけよ。なにかあればここから逃げ出せ」
アルフレッドに続いたカミルの合図で数人の男たちが壁をすり抜けてくる。全員が揃ったことを確認して、アルフレッドはさっさと歩みを進めた。
内側は想像していた通りの閑散とした冷たい風景が広がっている。人気はなく、花も咲かず、見渡す限り灰のように冷たい。幻想的な森の風景とは大違いだ。
「裏口を探して侵入する。東の魔女が既に作戦を知っている可能性も考えられる、気を抜くな」
ここから先は手分けをして少女たちを探す手筈になっていた。アルフレッドは単独行動になる。先遣隊の返事を背に聞きながら、柄を握る手に力を込めた。
城の作りは特別凝ったものではなく、ほどなく裏口から城内に侵入する。決して小さくはない城だが、使用人らしき人影は一切ない。
「御武運を」
カミルたちが地下への階段を下っていく。アルフレッドは、魔女が潜んでいる可能性がもっとも高い上階へと向かった。
真っ赤な絨毯が敷かれた大広間はやはり生活の気配を一切感じさせなかったが、長年放置されていたようには見えない。掃除は行き届いているようだ。
中央の螺旋階段を素通りし、廊下の突き当りにある狭い階段に滑り込む。本来は使用人のための通路だ。
足音を殺し一息に最上階までを駆け抜ける。廊下の先に別の狭い螺旋階段があった。絵画のひとつも飾られていない、けれど塵ひとつ落ちていない不気味な廊下だ。
螺旋階段にもなんの装飾もなく、牢屋を思わせる黒一色。
罠であるなら好都合だったし、この先にいるのが魔女でも囚われの少女でもアルフレッドの任務は達成できる。進むことに迷いはなかった。背後の奇襲を警戒しながら階段を上り、途中で動きを止める。
何かが聞こえていた。足音ではない。もっとかすかで軽やかな、旋律だ。
「……歌?」
耳を疑った。半信半疑で更に上を目指せば、音はどんどん近づいていく。
美しい、澄んだソプラノ。まだ幼さを残した、けれど魅惑的な声で、誰かが歌っている。
これは魔女の罠だと思った。油断させたところを貫いて殺されてもおかしくはない。囚われの少女だとすれば、いつ殺されるとも知れぬ場所で、こんなに朗らかに歌を歌えるわけがない。
剣を構えて最後の一段を上り切る。風を感じた。どこかに窓があるのか。
答えはすぐにわかった。踊り場のほとんど目の前に牢屋がある。他に光源のないフロアで、唯一、格子窓から差す朝陽とそよぐ風が、穏やかな森の気配を運び込んでいた。
その一画だけが、冷たい城とはかけ離れた柔らかな空気に包まれている。
「まあ」
間延びした声がした。
同時に歌が止んだ。声の主が、鉄格子の向こうからアルフレッドを見つめている。
「本当に来たわ」
つめたい石の牢獄に似つかわしくない、玲瓏たる美貌の少女だった。
その唇の、鮮やかな紅色に目を奪われる。小さくみずみずしい、果実のような唇だ。透き通る陶器の肌、ふっくらと色づいた薔薇色の頬、水を含んだような艶やかな黒髪。まるで精緻なビスク・ドール。
美しい少女だった。
年の頃はアルフレッドといくつも変わらないように見えた。肌着と見紛うような薄手のドレスを纏い、簡素な寝台に腰掛けて、彼女は手にしていた櫛を置く。
そして、丸く愛らしい瞳をやわらかく和ませて、ゆったりと微笑んだ。
「まさかここにお客様がいらっしゃるなんて。あなた……もしかして、男の方? 本当にわたしやお母さまと身体の作りが違うのね」
鈴を転がしたような声色で、少女はどこかはしゃいだように、櫛を置いて格子の方へ歩み寄った。アフレッドは、彼女の足首に重苦しい鎖が繋がっていることに気づきいよいよ唖然とする。
「……魔女にかどわかされた少女の一人か?」
口にしながら、猛烈な違和感に襲われる。鎖で牢に繋がれながら、彼女は微笑んでいる。歌を口ずさみながらのんびりと髪を梳かしていたのだ。魔女の脅威に晒された少女が、なぜ?
それに理解しがたい発言をしていた。『本当に身体の作りが違うのね』――まるで生まれてこの方、異性を見たことがないかのような。あるいは孤独と恐怖にやられて気でもおかしくなったのか。
「ふふ。はじめまして。わたしはエレアノーラよ。お母さまにご用事かしら」
「……おい、今なんと言った」
アルフレッドは咄嗟に剣を構え直した。目の前の少女が、保護対象から捕縛対象に変わる可能性があると判断したからだ。
エレアノーラと名乗った少女は笑みを絶やさず、素直に台詞を反芻してみせた。
「はじめまして、わたしは――」
「違う、そのあとだ!」
「『お母さまにご用事かしら?』」
なぜ反芻させられたのかを理解していない様子だ。アルフレッドは苛立った。
「お前は東の魔女の娘か」
「ええ、そうよ。あなたは私を屠りに来てくださったの?」
「ああそう……は? なんだって?」
頷きかけて踏みとどまる。今彼女はなんと言った。
けれど構わず、少女は微笑んだ。小さな唇に無邪気な弧を描き、目元を和ませて、本当に嬉しそうに。
「わたしの息の根を止めてくださるのかしら。その剣、とってもよく叩き切れそう。嬉しいわ」