第9話 栞
九
花江はホウレンソウのソテーを食べようとしたが、食べられなかった。花江にとって、ホウレンソウはただの緑の塊だった。まだ、夢から醒めていない気がした。
花江はいつものように出勤する準備まではすることができた。しかし、玄関ドアを開けることに抵抗を覚える。いつもより、のっそりとドアに向かって歩いて行った。いつもなら、特段、意識することもないドアが正夢へつながる扉に見えた。このドアの背後に男がいるのではないか。そう思うと、手が震えた。
花江は、ドアの覗き穴から外の世界を見た。あまりにも、覗き穴から見える世界は小さかった。その小さな世界には男の影も形もなかった。けれども、覗き穴の死角に男が潜んでいるような気がした。
花江はチェーンロックを掛けて、ゆっくりとドアを開けた。右を見ても、左を見ても、男の姿はなかった。安堵した花江はチェーンロックをゆっくり外して、ドアを大きく開いた。そこには誰もいなかった。そこで、花江は大きなため息をついた。そして、体が無意識に鍵を掛けるのだが、今日は意識的に鍵を掛けた。
花江はいつもより周囲を確認しながら、図書館へと向かった。けれども、これといって何も起こらなかった。花江は、無事に図書館についた。
「西田さん、どうしたの」
花江の顔色が優れていないことくらい、誰の目で見ても、明らかだった。
「大丈夫です」
花江は、ゆかりに何も言わなかった。ゆかりは、深く追及しなかった。
そんな折、男がやってきた。開館して、すぐのことだった。男は『明暗』を返しに来た。花江は怯えながらも、それを顔に出さないように努めた。男は、花江に本を返すと、何も言わずに文庫本コーナーに行った。花江は少しだけ、安心した。しかし、『明暗』の中に栞が挟まれていて、その栞に携帯電話の番号が書かれていた。花江は何事もなかったように、栞を抜き取って、手で隠した。
「花江さんが好きな本ですよね」
男が持ってきた本は、どれも花江が読んだことのある本だった。どうして、知ってるの。花江は愕然とするしかなかった。花江は、ただ事務的に仕事を済ませた。
「都合のいい時に、電話をください」
男はか細い声で、そう言い残して去っていった。その後、花江は栞をゴミ箱に捨てた。
どうして、私が読んだことのある本を知っているの。まさか、カフェでずっとわたしのことを見ていたの。けれども、それだけでは説明がつかなかった。花江はカフェだけではなく、自宅でも本を読むからだ。すると、一層花江は吐き気がした。もしかして、家にカメラでもあるの。カフェだけでなく、家でも見られている。花江の推理は花江自身を苦しめた。




