第8話 恐怖のひととき
八
文章を読み終えた後、花江は鳥肌が立った。そして、腕を組んで縮こまった。花江の知らないところで、男からの視線が花江に注がれていたのだ。この瞬間でさえも、男に見られているような気がした。冷たいまなざしが自分の後ろにあるような気がしてならなかった。思わず、花江は後ろを振り返った。言うまでもなく、白い壁があるだけだった。それでも、花江は安心できなかった。
もしかしたら、外から見ているのではないか。花江は、黄緑色のカーテンを開けて、外を見た。夏の七時だったから、まだ外は明るかった。自転車が走り抜けていくだけで、怪しい人影はどこにもなかった。そのことが分かると花江は素早くカーテンを閉めた。けれども、見られているという意識だけが、花江の心に残った。
吐き気を催して、花江はトイレに向かった。便器の中に酸っぱい匂いがする液状の塊がベトベトと消えていった。花江は、ハアハアと言いながら、その塊を体外に排出していった。花江は吐いては流し、吐いては流しを繰り返した。こうして、全てを出し切った後、花江はベッドに倒れ込んだ。
「花江さん、花江さん」
朝のことだった。花江が玄関を開けると、男が花江の目の前に立っていた。花江は悲鳴を上げようとしたが、声が出なかった。
男はさっと右手でドアを開き、左手で花江を室内に押し込んだ。その勢いで、花江は床に倒れた。男は器用に鍵とチェーンロックを掛けた。花江はもう逃げられない状態だった。男はドンドン花江に近づいてくる。倒れた花江は左手で男を遠ざけようとした。まだ、花江は立ち上がることができなかった。
次第に花江は部屋の隅に追いやられていった。
「やめて、近づかないで」
やっと、花江の口から声が出た。
「やっと、二人きりだね」
男は満足そうに花江を見た。
花江は右手を床について立ち上がろうとした。けれども、男は両手で花江の肩を押した。すると、花江は仰向けになった。立っている男の姿が花江の目に焼きついた。男は花江の顔の脇に手を置いた。その後、男は次第に倒れ込んで顔を近づけた。花江は為す術もなかった。男の口が花江の口に当たりそうになった。花江は目を閉じた。
汗で花江の体はぐっしょりしていた。花江は息を吸ったり吐いたりした。そのうち、花江は自分が見ていたことが現実ではなく、夢であることを悟った。よかった。花江は少しだけ涙を流した。
しかし、花江はベッドから起き上がることができなかった。体に力が入らないのだ。それゆえ、花江はじっと天井を眺めているだけだった。夢から醒めたとしても、正夢になって、花江を待ち受けているような気がした。けれども、花江は自分の体に鞭を打って、キッチンに向かった。花江はベーコンとホウレンソウを炒めた。