第5話 不気味な男
五
「花江さん」
男はそう言って、『人間椅子』を返した。花江は何も言わず、返却業務を行った。どうして、名前まで知っているのだろう。花江は疑問に思ったと同時に身の毛がよだつような気がした。というのも、花江が付けているネームプレートには「西田」という名字しか書かれていないからだ。それにもかかわらず、男は花江という名前を知っている。もしかして、男とどこかで会っている。花江はそう思いかけたが、全く見当がつかなかった。
男は少しだけ、花江を見た後、文庫本コーナーに向かっていった。男はまた本を借りるつもりなのだ。花江は、男を見るのを今日で最後にしたいと思った。けれども、男は何度も本を借りに来るのだと花江は確信した。
男は『明暗』を花江に差し出した。昨日、私が読んだ本だ。花江はこの奇妙な偶然が怖かった。花江は困惑するしかなかった。男が昨日、カフェにいたのではないかという不気味な推測が花江の頭をよぎった。だから、『明暗』を読んでいたことを知っているのか。腑に落ちるというよりは、恐れが花江を支配した。
「花江さん、これを借りたいのですが」
男は笑っていた。
「はい」
花江はそう答えるしかなかった。
「花江さんって、きれいですね」
男は囁くようにいった。その言葉は、褒め言葉ではなく、ある種の脅迫として、花江の耳に響いた。男は『明暗』を青いバックに入れて、少し歩き出した後、後ろを振り返り、花江を見つめた。
「あの人、昨日もここに来ていたんだよね」
ゆかりはぼそっと呟いた。
「えっ、昨日もですか」
「花江さんは、いないんですかって、聞いてきたよ。知り合いなの」
「全然、関係ない人です」
「そうなの。なんか、怖いよね、あの人」
「はい」
「いないって答えたら、すぐ帰ったわ」
あの男が図書館に来るのは、どうやら私が目的らしい。花江はすぐにそのことを悟った。それと同時に、花江は昨日自分が読んだ本と男が借りた本が同じであることをゆかりに言うかどうかを迷った。けれども、ただの偶然のような気がした。正確に言えば、ただの偶然だと思いたかった。
「気をつけたほうがいいわ。西田さん、美人だから」
そのセリフが予言めいていて、苦しくなった。
「気をつけます」
そう言いながら、何をどう気をつけていいのかが花江には分からなかった。ただ、不快感が胸の中で渦巻くだけだった。