第3話 男の視界
三
次の日のことだった。花江はいつものようにカウンターで返却の業務をしていた。カウンターは図書館の二階にあった。だから、図書館の利用者は階段を歩いて、カウンターにやってくる。その階段から、ドンドンドンドンという音がする。走ってくる音だ。
「すいません」
昨日の男が花江の前に現れた。花江は目を大きく開いた。昨日、恐怖感を与えた男がそこにいる。男は笑っている。それは微笑みというような可愛いものではなく、薄気味悪い笑いだった。その目は獲物を狙っている獣のようだった。
「どうしましたか」
花江は目を合わさず、事務的に答えた。
「あのー、図書館のカードをつくりたいのですが」
「では、ここに座って下さい」
花江は男に目の前のイスに座らせた。男は肘をついて、花江を見つめていた。花江と男との距離は本の数十センチだった。花江は貸出カードに必要な書類を出して、男に手渡した。
男はペンを握った。その男の手はブルブルと震えていた。そのため、字はまるでみみずがはったように汚かった。花江は男の顔を見ず、ただ男の書く文字を見ていた。男は一行書き終わるごとに、顔を上げて花江を見た。花江はこの微妙な静寂に耐えられなかった。早く、男が書き終わることを祈った。
男は書類を書き終えた。花江はパソコンに男の情報を打ち込んでいく。男は花江の手を見ていた。花江の手はささくれ一つない透き通った白色だった。花江はパソコンに意識を集中させて、男に注意を払わないようにした。それでも、男はずっと手を見ていた。
「これで手続きは終わりました。本、借りられますよ」
「ありがとうございます」
男は震える手でカードを受け取った。その後、カードを財布に入れ、男は文庫本のコーナーに行った。
男は本を片手に持って、走って花江のところに戻ってきた。花江は接客に必要な愛想笑いを忘れて、怪訝そうな顔をした。けれども、男はニコニコしている。
「これ、借ります」
男は江戸川乱歩『人間椅子』とカードを花江に差し出した。花江は素早く貸し出し業務を終えた。男はゆっくりと本を手提げの青いバックに入れて、ノロノロと階段を下って行った。
花江は男が本を返しに行くのかと思うと背筋が凍るような気持ちになった。花江は男の目が忘れられなかった。花江は男の目に見られているということ自体が恐ろしかった。