第1話 不思議な視界
一
いつも眠るのに1時間もかかるはずなのだが、彼はトロトロと意識を失っていった。眠りについた彼の寝息のペースは規則的にスヤスヤという微かな音を立てるだけだった。それと同じくらいの音を立てるのは、時計のみだった。カチカチとスヤスヤしかない静寂なアパートの室内だった。
そんな室内で、彼は仰向けに寝たまま、微動だにしなかった。もし、今この瞬間彼が目を開いていれば、彼の目に入るのは、黒い斑点が散らばっている白い天井だろう。彼は起きるたびに、いつも同じこの天井を見ていた。しかし、彼の注意にとって、黒い斑点などどうでもいいものだった。というのも、あまりに当たり前の景色であり、ことさら意識する必要がなかったからである。
彼の室内にあるカーテンは黒だった。ただ黒いのではなく、遮光カーテンだった。今は夜だから、遮光カーテンが積極的な役割を果たすわけではない。けれども、朝になった時、黒いカーテンが白い日光を遮ってしまう。それゆえ、朝に起きたとしても、彼の室内は夜だった。
夜が明けた。彼の目に飛び込んできたのは、茶色の木目だった。四角い木目が、まるでマレービチの抽象画のように広がっていた。天井にある黒い斑点がどうでもよかった彼であっても、目の前にある木目に目を疑った。彼は見慣れない朝の景色に困惑しながら、視点を右に向けようとした。しかし、視線を右に向けることはできなかった。今度は反対側の左側に視線を向けようとしたが、左側に目を向けることもできなかった。どこまでも、茶色の木目が彼の目を覆っていた。彼の視点はずっと木目に固定されていたのだ。
さらに彼が驚いたのは、日の明るさだった。そのおかげで、彼の視野はいつもより明るかった。まるで自分の部屋ではないかのようだった。一体、どうなってしまったのだろうか。彼は底知れぬ不安を覚えた。動かない。彼の視点だけではなく、体そのものが動かないのだ。彼は自らが置かれている状態を金縛りだと思った。しかし、金縛りよりも恐ろしいものだった。
彼の手も足も胴も顔もどこにもなかった。ただ、意識というか視界だけがあるだけだった。変わらない木目の景色だけがあった。それに、今気づいたことだが、視点と木目との距離はわずか10センチくらいしか離れていなかった。もし、木目が降ってきたら、彼は潰されてしまうだろう。どうして、こんな近いところに木目があるのだろうか。そんな折、遠くから、何かを焼いているような音がした。