眠り令嬢
前世の記憶を思い出したのは8歳の時だった。正確には子爵令嬢のローザとして生まれる前の記憶だ。
私がローザではない人物として生きていた間の記憶はひどく曖昧で、霞がかったようにぼんやりとしている。ちゃんと思い出せるのは前世と今世の狭間の、おそらくは前世の私が死んだ後の記憶だ。
「貴方は生まれ変わり、別の生を歩みます。何か望みはありますか」
私に向かって話す銀髪碧眼の麗人が神様らしい。
「生まれ変わるなら、次はきちんと眠れるようになりたいです」
「そのようなことでよろしいのですか」
作り物のような端整な顔が一瞬、ポカンとしたのは気のせいではないだろう。
「神様は眠らないのかもしれませんが、私たちにとって睡眠は大切なんです。私の場合はいろいろあって、ここ最近はほとんど眠っていませんでした。眠れるのなら、人間でなくても構いません」
いったい前世はどのような暮らしをしていたのか。はっきりと思い出せないのは、ひょっとしなくても防衛本能だろうか。
その後、睡眠に関するいくつかの質問に答え、「望みは叶えましょう」という言葉に感謝したところで記憶は途切れる。
そんな不思議な記憶を持つ私だが、今はいたって普通の令嬢である。望みがどのように反映されているのかはわからないが、眠るとなかなか起きない私に対して、両親を含む周りは非常に寛容で無理に起こそうとはしない。近頃は、こうした環境こそが神様の計らいではないかと考えるようになってきた。
そういえば、夜10時には寝ることという家訓もある。家訓としては異質な気もするが、眠ることは好きなので問題はない。きっと前世の私も喜んでいるだろう。
娘の特異性に気付いたのは、ローザの5歳の誕生日の翌日だった。
前日、つまりローザの誕生日だが、夫は仕事で帰る時間が遅かった。ローザは「お父さまを待つ」と張り切っていて、普段眠る時間になってもなかなか寝ようとしなかった。今日だけという約束で、夫の帰りを待ち、家族揃ってローザの誕生日を祝った。気づけば、日付が変わっていた。ローザは限界だったようで、ベッドに連れていく頃には、うとうとと半分眠ったような状態だった。
「おやすみなさい。よく眠れますように」
言いつつ、ローザの髪をそっと撫ぜ、部屋を後にした。
「旦那様、奥様よろしいでしょうか。お嬢様にお声がけしたのですが、いっこうに目を覚まされる気配がございません」
朝、1人のメイドが少し慌てた様子で報告にきた。
最悪の場合を想像した私は夫とともにローザの部屋に駆け込んだ。胸をわずかに上下させ寝息をたてるローザにひとまずは安心した。
「ローザ、朝ですよ」
心持ち大きめの声で呼びかけたが、ローザの反応はなかった。まるで全く聞こえていないようだ。
「起きてください」
今度は肩を軽くゆすりながら声をかけた。夫の心配する気配が濃くなった。
「起きなさい!あっ!」
「大丈夫か!」
体を揺さぶろうとしたところで異変が起きた。不思議な力で弾かれたのだ。夫が慌てて駆け寄ってきた。
「今のは。どうして」
自分から出た声は驚くほど震えていた。起きたことを受け止められず、どうしてどうしてとそればかりが頭の中で木霊した。夫もどうにかして娘を起こそうといろいろと試したが、どれも失敗に終わった。
メイドには口止めをしたうえで、通常業務に戻ってもらうことにした。ローザ専属のメイドはまだいないし、不在が長引くと他の者にも不審に思われてしまうからだ。それどころではないと思いつつも、ローザが起きてこないことに対する説明を考え、メイドに対応を指示することで、押し寄せてくる不安を紛らわせた。
だからだろうか、メイドが部屋から出ていくと、留めていた不安が溢れ出した。
「まさかこのまま眠り続けるなんてことは…」
「この先どうなるかは私にもわからない。正直どうしたらいいのか検討もつかないんだ。ひとまず今日は様子をみよう」
夫は辛そうに顔を伏せた。
居ても立っても居られなかったが、私にできることはなかった。せめて似たような症状がないか探そうと書斎に向かったが、役に立つような情報は得られなかった。眠り続ける、または意識を失う病は存在したが、まるで起こすのを阻止するように働いた力に説明がつかない。かといって魔力、魔術といったものは危険視されており、爵位をもつ夫でも得られる情報はほとんどない。もし娘が起こっている現象が外に漏れてしまったらどうなるのか、想像に難くないため安易に動くこともできない。調べれば調べるほど絶望感が増していったが、幸いなことに、それらは全て杞憂に終わった。
「お母さま?」
突然、開いたドアに顔を向けるとローザが不思議そうに首を傾げ立っていた。
「起きれたの!?」
「遅くまで寝てしまってごめんなさい。もう夜更かしはしません」
ローザは怒られていると勘違いしたようだ。いつもどおりの様子にほっとしながら話を聞くと、目が覚め書斎にいるという書き置きを見てここへ来たと説明した。私と同じように調べものをしていたらしい夫も声をあげて喜んだ。その間、ローザはきょとんとした表情のままで、本人の自覚は一切ないということがわかった。
その後判明したことは、ローザは眠っている間、不思議な力に守られており、睡眠を邪魔するものは無効化や排除されるということだ。しかも、その力はローザの成長とともに変化しているようだ。透明な部屋の壁がベッドを囲むようにできていて、そのドアらしきものに「起こさないでください」というプレートが掛かっていることに気付いた時は、つい笑ってしまった。
一定時間が経過すると力はなくなることもわかり、我が家の家訓には新たな一行が追加された。このことは、信頼できるメイドと私たち夫婦の秘密ということになり、ローザにも告げていない。本人は眠っているだけのつもりなので、理解するのは難しいだろうが、いつかは話さなくてはならない。あまり害のない力ではあるが、異質な力が畏怖されるのは世の常だ。特に結婚相手は慎重に選ばなくてはならないだろう。あの日の「どんなことをしてもこの子を助ける」という決意を新たにローザが目覚めるのを待つ。
「おはようございます。お母さま」
「おはようございます。よく眠れたかしら」
「はい。とっても!」
これは少し不思議な記憶と力をもつ令嬢のお話である。
Fin