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けあらしの朝 29  作者: 翼 大介
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人生迷い道

 忌まわしいとしか言えない反面、博之と富美恵の距離を縮める切っ掛けとなったオートバイとのトラブルから3年が経った。今、二人はとある菩提寺の墓前で神妙な表情で手を合わせていた。そこには恭一が眠っている。二人は結婚する意志を固めてその報告と許しを請うために訪れていたのだった。あの事故以降も二人の関係は特に進展を見せることがなく平行線を辿った。だが博之は焦ることなく勝負に出る時を待った。そして去年のことになるが博之が勝手に記念日とした日、そう初めて富美恵と会った日であるが博之は休暇を取って富美恵を神社まで呼び出して他愛のない会話をしているうちに突然ずっとこの土地に残ってくれないかと言い放った。当然、富美恵は即答など出来るはずなどなく博之が言った言葉に驚きと戸惑いを覚え顔色を変えて何も言わずに足早に神社を後にした。茫然と見送るしかなかった博之の脳裏には瞬時にゲームセットの文字が浮かび上がった。博之は苦笑いしながら華々しく散るのがだいぶ遅れてしまったなと頭を掻きながら部屋へ戻ったが気持ちは雲ひとつない空のように落ち着いていた。富美恵に対する思いは変わらなかったがお互いの年齢を考えれば答を出す時期はとうに過ぎている。満天の星空の下で躊躇い言い淀んだ自分はもう居ない。だから富美恵の取った行動に落胆も怒りも覚えることなく普段通り仕事に向き合えた。

 ところがそれから1週間後のことである。仕事を終えた博之は鼻唄を歌いながら家路についていた。玄関のドアを開ける時にふと郵便受けの様子がいつもと違うことに気づいた。新聞以外では博之には興味もないチラシが時々入っているくらいで郵便物と言えば電話の利用料金を知らせる葉書くらいなのだがこの日は封書が届いていた。珍しいこともあるものだなと思い何処から来たものかと差出人欄に目をやると富美恵の名前が記されている。鼻唄は急ブレーキを掛けたように止まりこれは早く読まねばと駆け込むように部屋に入ると鋏を探すのももどかしく台所へ向かって包丁を取り出してまな板の上で封を切った。便箋が二枚入っていたが開くと丁寧で綺麗な文字が目に飛び込んで来た。

 (急なお手紙に驚いたと思います。本来ならば電話すべきところですが今の私にはまだその勇気がありません。先日はせっかく誘って頂いたのにもかかわらず突然、帰ってしまって申し訳ありませんでした。でもいきなり前触れもなく博之さんがここにずっと残って欲しいと言い出したので私もびっくりすると同時に気持ちが動揺してわけがわからなくなって気がついたら駅に向かってました。あの日は私達が初めて会った日だったんですよね。そんな日に私はぶち壊すようなことをしてしまって、あらためてお詫びします。それでなんですけど、私、博之さんの申し出を承諾することに決めました。私はこの土地がすっかり気に入りました。もちろん骨を埋める覚悟でいます。そしてこれからの人生を博之さんと共に歩んで行けたらと思います。もちろん博之さんが良ければの話ですが)

 博之は読み終えると矢も盾もたまらず電話を掛けた。富美恵は晋作の家の使っていない離れに居住していてそこに自費で電話を引いている。それでいつでも気兼ねなくダイヤル出来たのだが今日はあまりにも勝手が違いすぎる。3回もかけ直すことになってしまった。5コール目で富美恵が出た。おそらく今までで一番緊張を強いられた電話だった。頭の中で得体の知れない渦が巻いて何を話したのか記憶が定かではない。だがこの一本の電話からなかなか結び目が締まらないロープが水を掛けてじわじわとキツさを増してゆくように二人の仲は熟成していった。付き合いが深さを増した結果として必然的に結婚という流れになったが晋作はあっけないほど簡単に認めたのであるが、富美恵の兄の和明は亡くなった交際相手の故郷で暮らすばかりかこともあろうにその土地で知り合った男と恋に落ちて結婚などとは破廉恥極まりないとなかなか首を縦に振らなかった。二人の熱意に負けて最後は折れたが交換条件を出してきた。今すぐにとは言わないが数年経ったら二人とも山梨へ来て自分の会社を手伝えというものだが、これには富美恵の方が難色を示した。兄は自分と会社のことしか考えていないと一時は実家とは縁を切るとまで言い出す始末だった。博之は富美恵の気持ちも分からなくはなかったが肉親間に亀裂を生じたままではいつの日か差し障りがある事態が起こることが想像できたので和明と富美恵の間に入って妥協案を講じた。それはM食品に何かあった場合に頼る選択肢の一つとしての山梨行きである。それでこの問題に幕が引かれた。博之は墓前に手を合わせている間にそんなことを思い返していた。ここを訪れる前に埼玉にある由里子の墓参りは既に済ませた。これでケジメをつけた形になったが今後ふとした切っ掛けでお互いの亡きパートナーが心の中をかすめることがあるだろう。それはそれで仕方あるまいと博之は富美恵の方を振り向いた。一陣の風が吹き抜けてゆく、それにシンクロして木々の葉がそよいだが富美恵の耳にはざわめきの中にほんの一瞬だけ言葉が混じっているように聞こえた。

 「ねえ、博之さん。風の音に混じって声が聞こえたような、そう男女が何か囁いているような感じだったけど」

 博之は思わずギクリとしたが平静を装いそのまま歩きを止めなかった。それは博之も同様に感じていたのだ。

 「うん、そうかい。俺は風が葉っぱを揺らす音しか聞こえなかったけどな。たまたまお前の耳にそう聞こえただけじゃないのか」

 博之は軽く言葉を返したが心の中に思うこともあったのは確かだが富美恵にはあえてそれを語らなかった。

 (もしかして由里子と恭一さんが俺達の様子を伺っていたのだろうか。まあそれも一興かな。しかし今日はいい小春日和だ。少しドライブして食事に行こう)

 オカルト的な現象とは無縁な陽気だったが風に乗るようにして聞こえた声の主が由里子と恭一だとしたらエールを届けに示し合わせて現れたのに違いない。そんなことを思いながら買い替えたばかりの自動車のドアに手を掛けた。再び軽自動車を購入したのであるが車は単なる移動手段のツールであり、排気量の多い自動車を買わないことで浮くであろう維持費を互いの趣味に回せるし生活も質素にやろうという意見も一致した。さらに博之は子供が産まれるまでは富美恵にかつてのスクーバダイビング仲間と遠征して存分に潜って来いと送り出すつもりでいた。自分だけが釣りであちこち出歩いたのでは対等な関係を築けないし何より富美恵は施津河で暮らすようになってからはほとんど遠くに出掛けるということがなかったので知らず知らずストレスも溜まっているだろうしかつて博之が時期だと感じて釣りの封印を解いたように富美恵も自分自身が楽しむためのダイビングも封印を解く時期だと考えた。





 二人の新居はけせもい市内の潮川地区という場所に中古の一軒家を買った。近くには魚市場や大見島と本土を結ぶカーフェリーの発着場があり鹿上地区とはまた違った騒々しさがあるものの海の匂いを感じ取れるのは一緒である。富美恵はブランクがあったものの東京での長い勤務経験を買われてけせもい市内の税理士事務所に採用が決まった。

 「ふう、生活の基盤は整ったけどお前は税理士事務所。俺は工場の現場勤務だ。格好悪いと言うか、バランス悪すぎやしないか。お前の方が頭がいいし・・・・・本当に俺なんかで良かったのか」

 「今さら何を弱気な事を言ってるの。それを承知で鼻息荒くしてプロポーズして来たのは貴方でしょう。怖じ気づくのは許しませんよ。職業に貴賤はないと言うよね。世の中はいろんな業種があって成り立たっていることを忘れないで、それと頭の良し悪しだけど私は知識はソコソコあると思ってるけど論理的思考力は博之さんが上回ってる。仕事する上で大切な事なんだから卑下してはいけません」

 「だよな。お前の言う通りだ。すまん」

 博之は由里子と結婚を決意した時には自分が引っ張って行かねばという気負いがあった。しかし富美恵には良い意味でその必要がない。夕暮れが迫る中、黙って富美恵の身体を引き寄せてベランダの柵にもたれかかった。船のエンジン音、フォークリフトの後退音、トラックの走行音といった漁港の街が奏でる音が混じり合う中に二人の新生活が始まった。





 浮かれた景気が終了のゴングを鳴らしても人々はまだその余韻に浸ろうとしていた。だがその歪みがじわじわと各方面に広まり出す。そんな中で博之も富美恵も地道に暮らして来たが気がつけば20世紀という区切りも過ぎた2002年、二人は40歳となった。真一と隆則という息子を授かりお互いの仕事も可もなし不可もなしで、まあ平凡な生活を続けていた。それでも浮かれた景気の影響は博之の職場にも濃い影を落とし始めた。リストラという名の魔物が会社をちらつく。それは早期退職者募集という形ではっきり姿を現した。ターゲットは40歳以上の正社員ということゆえに博之も対象になる。初めて立たされた難しい岐路だったが迷いに迷い考えに考えた末に退職する道を選んだ。会社に残ったとしても減給だけならともかく多方面からの不透明な圧力を受けることがあからさまに見えるからだ。

 「すまんなあ、富美恵。まさかこんな事態に直面することになるなんて数年前には考えてもいなかった」

 「仕方ないわよ。何もかもが経済評論家の予想通りに景気が推移していったら誰も苦労しない。言葉が悪いけどあなたはずっと馬車馬みたいに働いてきたんだから少し骨休みするといいわ。私の仕事は今のところ切れる心配はないと思う。そうだこのリストラの件は兄には内緒にしておく。あなたが辞めたことが知れたらウチに来いと言い出すのは間違いない。役員の人達は兄より年輩ばかりだし、社長としての兄をまだ半人前と見くびってる人もいるから味方は一人でも欲しいはず。兄の会社は規模が小さい分、萎んだ景気から受ける余波が皮肉にも少ないようだけど山梨行きは最終手段として取っておきましょう。行けば厚待遇を受けられる反面、今までと違うしがらみの中で翻弄される。私は大丈夫だけど、今の疲弊したあなたには荷が重い気がする」

 「俺も嫌だよ。現時点で義兄さんに世話になる気は毛頭ない。晋作さんヘの返事も保留したままだし優先順位を考えても山梨行きは有り得ない。その晋作さんの話も断るつもりだ」

 晋作は去年の春頃から博之にその気があれば自分が釣り船や民宿をやれなくなったら後釜としてどうかという話を持ち出すようになった。跡取りが居ないゆえ将来的に店仕舞いするより他ないのが現状だ。しかし晋作としてはどうにかして存続させたい。婿に行った佐久間は無理だがわずかでも海の事を理解している博之ならば早いうちから仕込めばモノになるだろうと考えた。そこにリストラによる退職だ。晋作の誘いは説得に変わった。晋作はまだ現役としてバリバリ動ける。そうした条件なので存分にイロハを叩き込めるから迷わず来いと言う。博之は心を動かされた。かつて夢見た海での仕事が違う形態といえどチャンスが巡って来たのだ。だが最終的に今は自信がないと打診を断る決断をした。長いサラリーマン生活で染み付いた現実を直視する生き方は夢を追いかけることにノーを突きつけたのである。

 再び違う職場でどこまでやれるか分からないが同じサラリーマン生活ならばどうにでもなるさ、富美恵とそんな言葉を交わしているところに一足先に辞めた佐久間が訪ねて来た。

 「お前も辞めるんだってな。平野に聞いたよ。辞表は出したのか?まだ次の事は考えてないだろうが焦る必要はないさ。ここ1、2年はなんか知らんけどみんな余計な神経を使って身も心もガタガタになっちまったもんな。リストラ対象外の平野達だってこれから先はキツい思いをするだろう。俺はどっちにしろ辞め時だった。お義父さんも身体がシンドイとこぼすようになったから農業に専念するタイミングと重なったってわけだ。そうだ富美恵さんの実家の仕事をやらないかという話と晋作伯父さんからも誘われてるらしいじゃないか」

 「辞表は待ってましたとばかりに簡単に受理されましたよ。リストラなんて本当にあっけないもんです。そして山梨へ行くのも晋作さんのところで世話になるのも今回は見送ります」

「そうなるとどこか他の加工場か。純粋な食品製造だとH缶詰とかもあるがあそこも人手は足りてるだろう。それとも嫌なのは承知で言うがまた営業マンに戻るか。いずれにしろ40過ぎて知らない業界の扉を叩くのはギリギリな気がするけどな」

「出来れば慣れた仕事に就きたいのはやまやまなんですけどね、もう営業の世界には戻りたくありません。そこで営業マン時代に出入りしていた小売業が候補としてどうかなと考えてます。俺はメーカーで営業と現場をやったからもしバイヤーをやらせてもらえばいい仕事が出来そうな気がするんです」

「そいつは俺には分からないな。ただ一口に小売業相手に営業してたといっても細部までは知らないんだろう。一からのスタートになるのは覚悟しとかないとな。それと将来的に晋作さんの後を継ぐことを視野に入れておくのも悪くないと思う。俺がお前の立場だったら二つ返事で引き受けたよ。まあそれは身内だからということもあるんだがな。しかし俺は農業が保険みたくなったからラッキーと言えばラッキーだった。とにかく落ち着き先が決まったら連絡をくれ」

 博之は佐久間が帰った後に腕組みをしながら今までの事を振り返りながら先の事をもっと真剣に考えなければと思った。

 (俺は何もかも行き当たりばったりにやって来たんだよな。その結果がこれだ。でもリストラ自体は何もM食品だけに限ったことじゃない。日本中同じ目に遭ってる人間はたくさんいる。さしあたって小売業経験者である緒方さんにいろいろ聞いてみるか。忙しくてご無沙汰だったしな)

 緒方に電話を入れたものの浮かないような声色だ。やはり仕事が順調に行ってないのだろう。それでも博之がリストラで辞めたと知った途端に声のトーンが変わった。緒方にしても他人事ではなかったようだ。

 「そうか、リストラによる早期退職で辞めざるを得なかったのか。とんだ災難だったな。俺んとこはあからさまな退職推奨はないが状況は決して芳しいとは言えない。で、何だって今度はスーパーに働き口を求めるつもりなのか。それで経験者の俺に相談か。もうかなり昔のことだぞ、システムも相当変わってるだろうから参考程度に聞いてくれ。スーパー時代の俺は生鮮部門と言っても鮮魚売場だけしか分からない。バイヤーに至っては入り口に立っただけだ。だから鮮魚売場担当になったという前提で話をする。まず精肉と鮮魚では包丁の使い方が違う。精肉は押して切っていたように覚えている。そして歩留まりも鮮魚より良くて仕入れ額も変動が少ないから粗利も計算しやすくて羨ましかった。青果も鮮魚と同じようなもんだったな。漁模様や天候で仕入れ額がコロコロ変わる。だから生鮮部門ならば精肉に配属されたらしめたと思え。グローサリーは現場の事はよく分からない。まさかいきなりバイヤーやってみたいとかはないよな?それは虫のいい考えだ。まずは現場知らないことには何ともならない職場だからな。俺が気をつけてたのは夕方の客が一番入る時間帯の欠品だ。チャンスロスと言って目に見えない売り上げ減になるんだよ。俺から言えるのはざっとこんなことくらいだ。実は俺だって会社辞めて釜石帰って釣り船始めたいくらいなんだよ。しかし現実考えるとな。じゃあ何かまた聞きたいことがあったら相談に乗るよ」

 博之は電話を切るとどこもかしこもせめぎあいみたいな状態なんだなと思ったが、そんな事はどこ吹く風と振る舞う富美恵の存在が嬉しかった。 

 希望していたスーパーへの入社はスンナリと決まった。職種は異なるが職歴を買われた形だ。地元資本の会社だが中央資本の大手スーパーの支店とは賃金面での待遇は落ちる。それでも大手を回避したのは転勤の問題があったからだ。博之にはもはや故郷を離れるという考えは毛頭なかった。 

 (賃金を追い求めるのはたくさんだよ。確かにM食品時代より収入は減るが生活に困窮するほどでもない。それ以上に転勤など俺にとっては論外だ。出張でさえ面倒がってたからな。しかも大手スーパーで使ってくれるという保証もない。これでいいんだ)

 スーパーでの勤務は精肉売場に配属となった。緒方の話を思い出してほくそ笑みたい気分だったがそれはすぐに吹き飛んだ。就いてみないことには分からないことが多過ぎる。いざ仕事が始まると体力的には平気だったがやはり神経はすり減った。営業マン時代に外から見ていたスーパーと実際にそこで働くのとは全く違うことを肌で感じる。どうしても長年の間に染み付いたものが顔を覗かせて来るのを抑えることに難儀する。応用が利く場面もあるがここは自分の知らない世界なのだからと言い聞かせながら取り組む日々がしばらく続いた。


 


 スーパーに転職して6年後、博之は精肉売場チーフの傍ら店次長として充実した毎日を過ごしていた。しかし好事魔多しとはまさにこれを指すのであろう。今度は倒産による失業に見舞われてしまった。やむなくかつて父親が勤務していた水産加工場に働き口を求めたが正社員としてではなく準社員としての採用である。さすがに今回の転職は不本意過ぎてどうしても愚痴をこぼさずにはいられなかった。

 (完全に坂を転げ落ちている。だが世の中のせいにするのは簡単だ。全て自分の行動が悪い結果として出ているんだ)

 愚痴りながらも新しい職場で頑張るつもりではいた。しかしながら収入がこれ以上ないくらい落ちることが一番腹立たしく思えた。M食品時代には富美恵より稼ぎは良かったのが今回の準社員採用でそれは完全に逆転した。むしゃくしゃした気持ちを埋めるためにパチンコと酒にのめり込んだ。特に酒量は驚くほどに増えてついに2010年の暮れも押し迫った頃に体調を崩すとともに水産加工場の正社員と仕事をめぐり衝突して最悪の辞め方で職場を去らざるを得ない状況に追い込まれた。

 (ちくしょう、なんなんだよ。40歳過ぎてから転落する一方じゃないか。失われた40代・・・・・まさに見本だ)

 博之の体調は酒の飲みすぎもあって更に悪化してとうとう入院を余儀なくされた。生まれて初めて病室で新しい年を迎える。それでも一度の人生こんなことがあってもまあ良かろうと開き直りとも捨て鉢とも取れる態度で滴り落ちる点滴を眺めた。退院後はすぐに職探しせずにひたすら養生することに専念した。その甲斐あってか体調も徐々に戻り3月の声を聞く頃には軽作業であればフルタイムでの就業も可能なほどの回復を見せた。それでも富美恵はまだどこか懐疑的な目で博之を見ていたのである。身体は戻ったかも知れないがメンタル面の回復が本物ではないことを言動から読み取っていたから表面的に回復をアピールする博之にブレーキを掛けた。

 「あなた、調子が出て来たからといってまだ無理する必要はないのよ。今日もハローワークに行くんでしょうけど求人票眺めるくらいにしておいて、どうせメインはパチンコだって分かってる。それがあなたのリハビリになってるなら何も言わない。それと私は今日は午前中で暇を貰って来る。時期が時期で忙しいんだけど明日は隆則の卒業式でしょう。その準備がありますから」

 「ああ、分かったよ。パチンコは最初の投資で連チャンすればしめたものだが今は軍資金不足ゆえちょっとやって出なかったら諦める」

 素っ気ない返事をした博之だが富美恵は別段気に留めることもなかった。明日の卒業式で頭がいっぱいなのだろう。家は富美恵が先に出た。博之はソファーに腰を降ろしフウっと息を吐いた。 

 (身体は大丈夫だが、気持ちが乗って来ない。富美恵は無理すんなと言ってたが見抜かれてたか)

 とりあえずハローワークに行って求人票を事務的に眺めた後に向かった先はパチンコ店ではなく市役所であった。市民課へ直行すると無造作に一枚ある届け出用紙を丁寧に畳んで封筒に仕舞うとコンビニに向かっておにぎり、パン、飲料を買い求めそのまま商港岸壁に車を走らせた。

 (まだ富美恵は帰ってないだろう。海を眺めながら昼飯を食べよう。もうパチンコする気力も失せちまった)

 養生生活するようになってからは昼食のほとんどを前日の残飯整理で済ませていた。ハローワークやパチンコで外出した際にはラーメン屋とか牛丼のチェーン店に行くのが楽しみだったが今日はそうした閉ざされた場所に足を踏み入れたくなかった。行き交う船やウミネコ達の戯れを眺めてのんびりしたかった。そうした意味では商港岸壁は最適の場所かも知れない。博之はフェリー乗り場の近くに車を停めた。見渡すと小型のトラックや営業車とおぼしき車輌が何台か停まっている。運転席でせわしなく食事をしている姿に営業マン時代がオーバーラップした。

 (営業やってる頃はかっこむように頬張ろうとこの時間帯に昼食にありつけりゃ幸せだった。M食品時代も機械の不調なんかで昼食を食べ損ねたことはあるが、食品製造工場ゆえに食べる物は目の前にいくらでもあったからそれを食べて凌いだんだ)

 決して愉快な思い出とは言えないが今なら笑って振り返る事が出来る。そして今は急いで噛まずに飲み込む必要などないのだ。博之はおにぎりとパンをゆっくりと味わように口に運んだ。

 「ボチボチ富美恵も帰って来たかな。さてどう話を切り出したものか。いやこれは単刀直入に言うべきことだ。余計な前振りなんか要らない」

 封筒から届け出用紙を取り出して指でパチンと弾いた。紙がヒラリと舞うように揺れてフロントガラスに離婚届の文字が逆さまに映った。

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