黒姫捕縛大作戦~回想~
――これを垂らしながら逃げなさい。
朝。我が主、ノエル・アズ・グリッドレイ様が客人であるクロエリア・オーゼン・エーレ様を起こしに行かれる前の事です。差し出された手の平サイズほどの小瓶を受け取りながら、アリスは頭にクエスチョンマークを浮かべました。朝日に輝く黄金色の液体――というには少々粘度が高めの様子でしたが――で満たされた小瓶。
グリッドレイ様の意図はわかりませんが、我が主の命はアリスにとって絶対です。アリスは小瓶をぎゅっと握りしめて頷きました。けれど『逃げる』というのはどういう事でしょうか。アリスは恐る恐る訊ねます。グリッドレイ様は悪戯っぽく微笑まれると、アリスに耳打ちをしてきました。
…………とんでもない台詞が主の口から囁かれました。耳にグリッドレイ様の吐息がかかってちょっとビクっとしちゃったとか、さらさらの髪から流れてくる花のような香りにキュンとしちゃったとか、そんな事どうでもよくなるくらいの内容です。
――ああ、それと以前、教会の連中が査察に来た時にやったアレの準備をお願いするわ。朝食の準備もあるでしょうし、小一時間ほどあれば十分かしら?
アリスの動揺には目もくれず、主はそう続けます。アリスがそれに頷いたのを確認すると、グリッドレイ様は満足そうに頷き返してくれました。
――それじゃあ、一時間後にクロを起こしに行くわ。手筈通りにお願いするわね、アリス。
そう言い残して、手をひらひらさせながらアリスの部屋を出ていこうとするグリッドレイ様。その背中をアリスはずっと――主の姿が見えなくなるまで、ずっと――見続けていました。
グリッドレイ様がいなくなり、静寂がアリスを支配します。ふと、手に持った小瓶に意識が向きました。
顔の前で優しく振ってみます。
丁寧に加工された蒼水晶が異彩なきらめきを放つ、すごく高そうな小瓶です。その中で、とろとろした黄金色の液体がアリスの手の動きに合わせてゆらゆらと揺らめいています。
主が垂らしながら逃げなさい、と告げた液体。
でも、そんな事したら館の床が汚れてしまうではありませんか、グリッドレイ様。一体誰がそれを掃除すると思っているのですか、もうっ。
主から開けるな、とのお達しはありませんでしたし、掃除する際の事を考えて、どういった類の液体かを確認しておく義務がアリスにはあると思います。
ぽんっ、とハートを模した蓋を引っ張ると、小気味よい音が鳴りました。
匂いを嗅いでみます。
……あ、これ。
ハチミツ……。