黒姫捕縛(以下略)
暇そうだな、ヴェリアス・ウェイン副団長。以前頼んでいた貴族街を騒がせている盗賊の件はどうなった? ほう、鋭意調査中、か。まぁ≪ロゼリア・クレスタ≫以降、特に目立った活動はしていないようだが。それはそうと以前から注意しているが、フォルト・レッドコニー副団長と街中をぶらつくのは控えてもらいたい。苦情が来ているぞ。副騎士団長両名が揃って酒場で苺のミルフィーユを頬張っている、と。
館の地下室は館の広さに比べると、幾分こじんまりとしたものだった。冷たい石造りの床に、同じく石造りの壁。物置代わりにでもしているのか、化粧棚やら樽やらが見受けられる。そのどれもが酷く老朽化しており、所々に切り傷やら刺し傷があった。この部屋だけを見れば、完全に廃墟の一室である。
「逃げるのは終わりかな?」
壁に点々と設けられた燭台の炎が彩る室内。その出入口から一番遠い壁面に行儀よく立ち尽くすアリスに向かって、クロエリアは言った。それに応じるように館のメイドは俯き加減の姿勢で、一歩、前へ出た。
表情は伺い知れないが、少なくとも怯えている様子は一切ない。
むしろ――
「……主の仇です」
顔を上げるアリス。その手にはどこから取り出したのか、小さな果物ナイフがひとつ。身を護る用途としては些か心許ない刃だが、正眼に構えるその姿に隙はなかった。
「ふぅん、ただのか弱いメイドさんってワケじゃないんだ」
微動だにしない刃先の先端を向けられながら、感嘆の声を漏らす黒い少女。
護身として刃を携える者の気配ではない。眼前の女給が持つのは、人間を殺す為に刃を携える者の気配だ。迂闊に近づこうものならば、瞬く間にその刃が喉元に走ってくるだろう。
「困ったなぁ……大人しく殺されてくれないよね? やっぱり」
「もちろんです」
「そっか」
はぁ、と諦めたように軽く息をつく黒い少女。その黒い瞳がすっと細められ――次の瞬間、消えた。
(――疾いっ!)
目を見開くアリス。咄嗟に、横に跳ねる。一瞬前まで彼女がいた空間をクロエリアの右手が薙いだ。間一髪、紙一重で破滅の魔手を躱し、体勢を立て直すアリス。続けてくるであろう、第二撃に備える為にナイフを構え直し――そこでアリスの表情は驚愕に歪んだ。
(殺された……!)
握りしめる柄の先。先ほどまで確かにあった筈の刃が、まるでハンマーか何かで砕かれたようにごっそりと無くなっていた。……触れたのだ。あの一瞬の交錯の最中、クロエリア・オーゼン・エーレの魔眼はナイフの切っ先を捕らえ、触れた。振りかぶった右手ではなく、左手で。
アリスが回避行動を取るであろう事すらも計算に入れた二の矢。
手慣れている。それに加え四、五メートル程度の距離を一瞬で詰めてくる身体能力は、魔眼抜きにしても本職の暗殺者に引けを取らないだろう。
「武器、無くなっちゃったね」
どうする? 仮面のような冷たい無表情がそう問うてくる。一歩、また一歩と、黒いドレスを揺らめかせながら。刃を失った柄を胸の前に抱き、苦虫を嚙み潰したように表情を歪ませるアリスの元へ。
「逃げようとしても無駄だよ、わかるよね?」
アリスの視線が出入口の方へ向いた事に気付いたのだろう、破滅の黒姫は死刑宣告を下す執行人の如くそう告げた。確かに、例えアリスが全身全霊をもって駆け出したところで、この少女は容易くその背に死を注ぎ込むだろう。
「…………」
黒姫の体が必殺の圏内にアリスを捕らえた。その黒い瞳が映すのはアリスの白い首。
破滅の魔手が伸びる。
その瞬間、アリスは口を開いた。そこから出るのは悲鳴でも、慟哭でもない。
それは狩る者と狩られる者が入れ替わる合図。
「――出なさい」
まったく……フォルト・レッドコニー副団長はまだ就任から日が浅いから無理もないとは思うが。貴殿は何年その地位にいると思ってるんだ。もっと自分の立場というものを自覚する必要があるぞ。ん……まぁ美味しいけどな、ミルフィーユ、うん、わたしも好きだ。今度持って帰ってほしい、勿論経費で構わないぞ。