夢五十四話
今、敵たるボス狼の視界には、逆さの世界が回っているように映っていることだろう。
象以上に大きい相手の後ろ脚をつかみ、ジャイアントスイングをしかけている最中であった。
大地を裂く爪も岩を噛み砕く牙もプンスカサムライには通用しない。
かつて他者に遅れを取ったことがないというこの手合いの魔物に対し、素人の適当なプロレス技は、体ではなく心を壊すのに向いている、と経験から学んでいた。
「は、はにゃせ」
大回転の連続で目が回ってきた敵の要望に応え、アイアンクローを首にきめたあと、喉を押さえて屈むその頭部にエルボードロップを叩きつけた。
転がった巨躯をよいせと担ぎ上げる。
谷の地形が変わるほどにもがく対戦相手の抵抗を制し、グァンズーを倒したバックドロップ、続けてパイルドライバーを連続して成功させてから、ふらふらになった相手にとどめのヘッドバッドをお見舞いしてやった。
月夜のなかでボス狼が声もなく崩れ落ちる。
信じられない光景を見たらしき手下の狼が遠くで長の名を呼んでいるが、腰が抜けて動けないようだ。
「お、おどれ」
適度な運動で体を温め、スッキリ気分になった俺に近寄ってきたボス猿が、ワイの出番を奪いやがってとボカスカしてくる。
「この怒りをどこにぶつければ」
「かかってこんかいお猿さん」
誰のために怒っていたのか、鳥頭はこのとき全てを忘れている。
倒れた狼に止めを刺す、という気にもなれないほどぶちのめしたせいで、猿のプンスカまで引きうける流れになった。
「息子をぶち殺しやがって、許せねえ!」
酒を飲んだせいなのか本心なのか、顔馴染みとなった猿の魔物がこちらの提案に乗ってきた。
がっぷり四つに組み合う。踏ん張る相手をそうれと放り投げた。
回転して受け身を取り、こちらに接近しながら口から空気砲を吐いてくる。
それを避けた際、崖の岩肌の一部分が吹き飛んだ。
自然破壊の立ち回りをすることしばし、いつの間にか狼たちがボスを連れて消え去っていることに気がついた。
川下のほうを見る。そんなよそ見に延髄蹴りをかましてきたお猿さんの抜け目のなさに、サムライパワーが覚醒した。
オレンジ色の体毛を引っつかみ、その懐に飛び込んだ勢いで膝蹴り。
いわゆるジャンピング・ニーパットを叩き込んだ。
「ぐぉへ」
空気を漏らした顔馴染みが舞い上がった。硬いと自負する額に炸裂したことで顔面陥没には至らなかったようで、そのまま崖の上に消えていく。
「やりすぎた」
手加減の調整が未だにムラがある。お酒が入っていたせいにしておこう。
天災のなれの果てになったような谷でただ一人佇んでいると、しばらくして崖上から旅の連れ合いが飛び降りてきた。
「これはまた、派手に暴れ回ったようじゃの、生き神さま」
「狼たちの遠吠えでやってきたが、お猿さんまで巻き添えになっているのはどういうことだ」
黒と烏が膝蹴りで吹っ飛ばしたはずの小柄な猿を抱えている。
目を回している彼がそれでも赤ら顔を上げ、また負けてもうたと鼻をすすっている。
狼のことは割愛して憂さ晴らしに猿と殴り合った、と説明した。
双方ともなんとなしに理解しているのか、もう何も問うまいといった様相だった。
「男は諦めるもんじゃねえで……だけんど、とても悔しいです!」
復活したエロ猿がどさくさに紛れ、エヴレンやミヤマの胸元に顔を埋めている。
子を失った後だと知る二人の母性をいいことに、煩悩を発散する子不幸な姿に俺はどん引きであった。
その泣き真似が真似でないことを最初からわかっていた彼女たちが、無言でお猿さんの頭をなでている。
やらしい泣き声を環境音楽に露天温泉へと戻った。
戻ってすぐに赤褐色の肌を露出したエヴレンが、若い竜人を湯のなかから叩き出した。
なぜ我だけ、と不満を口にする相手に、想いをよせられる側のサソリ女が冷たく返答する。
「そろそろわしらも裸で湯を楽しみたいしの。男であるぬしは邪魔でしかないわけだ、察してくれい」
「なんですと。では勇士どのも猿も」
同情的な視線をこちらに向けてくるドーテイ卿に、はよ行けと黒が背中を押している。
俺に見せた横顔は笑っていた。
洞窟に戻って寝ますという素直な若者に愛想よく手を振っている。
「ワイも戻らんとだ」
「お猿さんは混浴」
「えっ」
しょげていたエロ猿が、ミヤマの言葉で尻尾をピンと張って飛び上がった。
「おなご四人の接待を受けるべきはぬしじゃぞ。生き神さまはわしらの体を洗う重要な役目があってこれも外せない」
衣服を脱ぎ続ける黒の裸体を見たサル面が上気している。おっおっお供しますとだらしない表情に、四種類の女の笑い声がこだまする。
小兵のボス猿が長身の黒の後を追う。揺れるラテン尻を至近距離で視姦できるという自然な状況になっている。
失意を発情で補うのは無理からぬ話で、エヴレンもそれをあえて咎めようとはしなかった。
「影らしからぬ行動が増えた私も、今は隙のあるただの女だ」
いつの間に裸になっていたのか、そう独語したミヤマが俺の手を引いた。
§§§§§§
洞窟の酒蔵庫から(勝手に)蜂蜜酒を持ち出し、タオル代わりの布地を肩にかけて露天風呂に戻る。
岩風呂という宴会場はすでに酒の回った金髪姫や白、ネコや黒がエロ猿を囲んで歌合戦を披露し合っていた。
それぞれ故郷で伝えられてきた民謡のようなものを口ずさんでいる。
現在この露天にはオレンジ色の猿と似非サムライしか男はおらず、女性陣はすっぽんぽん状態で手拍子を打っていた。
煩悩を抑えきれない彼のやらしい視線にも、彼女らは気にした様子はない。
「ワイは幸せじゃ」
どいつもこいつもええ女だらけ、王侯貴族になった気分だと彼が高笑う。
俺といえば、岩盤に座るミヤマの蒼白い背中を流している最中である。
シミひとつない綺麗なお肌に悶えながら濃紺の髪も洗う。
「かつてこれほど亜人や人の女に優しくされた記憶はねえで。一夜の夢としてもこれはたまらん」
「わらわたちは男を見る目がある。そこらへんの雌と一緒にするでない」
「誰かひとり嫁にならんもんかのう」
「調子に乗るな」
ジュディッタ姫とメイ・ルーの白雪のような肌に頬ずりするエロい雄に、黒が頭を叩いて突っ込みを入れている。
にゃはははと笑うニャム姫も同じように、ヤマアラシのようなツンツンな髪でハリセンツッコミを披露していた。
「サムライよ」
「おう」
「無用心になるんじゃねえぞ。これだけ嫁がおっても、気付いたら誰もいない、ってなってんのが乱世じゃけ。優先順位を間違えたらワイのようになっちまう」
一族がおっても一人ぼっちだ、と心のうちを暴露した小さい猿が肩を震わせている。
花園のなかにいるせいか、秋の夜空を仰いで感極まった彼がやせ我慢を捨てて、とうとう男泣きしだした。
「ウンシンといいこのお猿さんといい、男は見た目にあらずと実感させてくれるよい旅になっている。元々メイは外見を重視する趣があったんだけど」
「ニャムもにゃ!」
「見た目の良いわしが同じものを相手に求めるのは当然だったな。しかし生き神さまはそんなくだらぬ拘りをぶち壊してくれたわ。何もかも規格外のお人じゃ」
「わらわの夫たる冒険王は美男子だが、ウンシンの無骨さはそれの上をいく。現世でこれほどの心意気の男はおらん」
エロいお猿さんが湯の中に浮かぶさまざまな大きさの桃に囲まれている。俺にはもはやうれし泣きにしか映らない。
身内からのほめ殺しに縮こまっていると、入湯していないミヤマが背中に回り込んできた。流しあいの交代らしい。
「貴方以外の男が貴方ほどの力を持てばどうなるか、私たちは見ず知らずして理解している。現状に甘んじ、女に振り回される古今独歩の勇士。そんなあほうはこの世で貴方しかおるまい」
「はあ」
「他の男ではありえない立ち振る舞いが貴方の真髄であり、心意気だ。それがわかる女のなかに私もいる。誇るべきことだ」
小心者の小悪党にすぎた台詞で体が冷える。
ジュディッタ姫の白い肢体が湯面から姿をあらわした。
次はわらわじゃと言いたげだ。わしのばんじゃ、ニャムも、メイもと一斉に立ち上がる。
彼女たちの後姿を見てうっひゃーと喜ぶ猿に嫉妬し、俺はプロレスの続きを開始した。
ジャンピングヘッドロックが二回戦の最初の技だった。
夢はまだ続いている。