二九 ちょっとしたトラブル
杏子が目を開けると、コンテナが動いていた。
どうやら寝過ごしてしまったらしい。
慌てて身体を起こすと、圭太が窓の脇でなにか食べている。
「ちょっと、圭ちゃん。顔は洗ったの? 歯は?」
ハジュメ村に歯ブラシはなかったから、竹を細く裂いたものを使っていた。当然、持ってきている。
圭太は軽く肩を竦めた。
「出らんねーし」
していないという意味だ。
杏子は鉄格子の窓から外へ呼びかける。
「すみません! 鍵を開けてもらえませんか」
応えはない。
昨日と同じように笛や太鼓が鳴っているから、聞こえないのだろう。
溜め息をついて鉄格子に寄りかかる。コンテナの天井は低く、圭太少女でも首を曲げなくては立てない。まして杏子の巨体では、膝立ちが精一杯だ。
「圭ちゃん、それ、どうしたの?」
尋ねると、圭太は床へ顎をしゃくった。
鉄格子の隙間から入れたのか、布包みと皮製の水袋がある。包みは焙ったパンに肉を挟んだもの。
「ママ達が寝ていたから、置いてくれたのね」
リュックの中からぼろ布を出して、水で湿らせ顔を拭い、口をゆすいで鉄格子の外へはきだす。
飛び散る水しぶきに誰か気がつかないかと期待したけれど、残念ながらそうならない。
別な布を湿らせて圭太に差しだすと、パンを置いて顔を拭ってくれた。
「目脂が残ってるよ。鏡をだして見なさい」
「ムリ」
「なんで?」
「オレのミラーは、出したとこから動かねーの」
「だから、ちゃんと見られるでしょ」
圭太はわざとらしく大きく息を吐く。
「考えろよ。この荷車、動いてんだぜ? ミラーは動かねーんだから、すぐ壁にぶち当たって、壊れるっつーの」
それは思いつかなかった。杏子は感心する。
「圭ちゃんは、そんなに頭がいいのに……」
どうして学校へ行かないのか、という言葉は呑みこんだ。
言わなくてもわかったらしい。圭太が濡れた布を投げて返す。杏子は鉄格子の横柵に引っかけて乾かしておいた。湿ったままたたむと臭くなるのだ。
──隊長さん、通りかかってくれないかな……
隙間から前後に目をやる。鉄格子の幅は狭く、華奢な圭太少女でも頭は通らない。巨大な男の身体では、腕も肘まで出なかった。
そのせいで見える範囲も狭い。
山道を進んでいる今は隊商も一列になっている。田舎の列車の車窓のように木と草しか見えなかった。笛と太鼓の音がなければ、誰もいないみたいである。
──もう! トイレに行きたいのに!
朝目覚めたらトイレに行くのは、人間なら当然の生理現象だ。隊商を率いる隊長なら、わかってくれてもよさそうなものなのに。
もちろん杏子一人なら、鉄格子の隙間からどうにかできる。男性の身体は、こういうことには便利だ。
だけど圭太の少女の身体では無理。さっきからもぞもぞと脚を組み変えている圭太も、我慢しているに違いない。時々水袋を見るのも気になる。トイレ代わりにされたら、飲み水用に使えなくなってしまう。
そのとき、視界の端を影がかすめた。隊で一番年下の少年が、身を屈めて荷車の脇を走り抜けようとしている。
「ねえ、ちょっと、待って!」
声をかけつつ、手をのばして襟首をつかむ。少年は迷惑そうに顔をあげた。
「隊長さんに鍵を借りてきて、ここを開けてほしいのだけど……ちょっと、えーと、生理現象で……我慢の限界というか……」
「ああ、便所?」
副音声つきでも少年が面倒がっているのは良くわかる。
「そこの奥んとこ、フタがあっから。そこでできるよ」
「な……」
杏子は声が詰まった。その隙に少年は手を振りほどいて駆けていく。
「ちょっと! 待ってよっ!」
叫んでも戻ってこない。
「ちょっと……冗談でしょ?」
この狭い箱の中で寝て、食事して、そのうえトイレまでしろと言うのか。
「これじゃあ、牢屋かなにかみたいじゃない……ねぇ、圭ちゃん……圭ちゃん?」
振り向くと、圭太は少年に言われた場所にいた。ぱこっと軽い音がして、フタがあく。
「ちょちょちょっと、圭ちゃん、なにしてるのよ?」
「オレ、限界だし」
「だからって、あんた……」
しゃがんでスカートをまくりあげる息子に、急いで近寄り毛布で隠す。人に見られたら恥ずかしいとは思わないのだろうか。
──思わないんだろうなあ……
毛布を広げて掲げながら、杏子は嘆息する。
男性トイレは、小さいほうは個室がない。そのせいで羞恥心が育たないのかもしれない。町中で立小便なんてことも、いい大人がしていることがある。
「ふえー。漏らすかと思った」
圭太が立ちあがってから、杏子はトイレの穴を見てみた。
二十センチ四方の木枠の穴で、覗くと地面が後ろに流れていくのが見える。
「これじゃ、いつしているか、丸わかりじゃないの」
ぎょっとする杏子に、圭太は鼻を鳴らす。
「どーだっていーじゃん……だいたい、馬車の馬なんか、歩きながら垂れ流してるじゃんか。誰のだかわかりっこねーよ」
「……そう……かな?」
少なくとも、この箱の中でお漏らししなくて良かったと思うべきなのか。おしっこ臭の中で寝るのはツラい。
──ここには、圭ちゃん以外、誰もいないし……
赤ちゃんのころ散々おしめを換えていた子供が目の前でトイレを使っても、不快感はなかった。後追いの時期や外出先では、圭太と一緒にトイレに入るのは、日常茶飯事だったことでもある。
──圭ちゃんだけなら、いいか……
それでも外の他人に見られるのは抵抗があるから、杏子は毛布を頭からかぶって用を足す。これなら万が一、外を誰かが通っても、見られずに済む。
男の身体は本当に便利だ。もう何度そう思ったかわからない。
力が強いから、荷物がたくさん持てるし疲れにくい。背が高いから、棚の上にも手が届く。脚力も強くて、ジャンプしたら枝先のペットも簡単に救えた。そのうえトイレも楽だ。パンツを脱ぐ必要すらない。
さらに言えば、襲われないように周囲に注意しなくてすむ。
女性が周囲に警戒すると、男達はすぐ『自意識過剰』だの『誰も襲わねえよ』だのとバカにするが、それを本気にしたら怖い目に合うのはこちらだ。言ったあなたは襲わなくても、世界中、いや半径十キロ以内でもいい、その範囲内のすべての男が『襲わない』という根拠はあるのか。さらに、そんなこと言う男の限って、運悪く女性が襲われると『誘ったんだろう』『おまえが悪い』と、掌を返す。傷ついている女性を、もっと傷つけようとするのだ。
だから自分の身を守るのは、女性の基本。
力の強いだけのつまらない男に目をつけられず、だけど仲良くなりたい男性には振り向いてもらえるように、若い女は知恵を絞らなくてはならない。
男には、そんな回りくどさはいらない。
──人間って、不公平に造られているから……
先生がどんなに『人は公平だ』と教えても、五十にもなれば現実を知る。悩んでも羨んでも、どうしようもないことも。
だから杏子の人生は成功だ。
中の下レベルの容姿と頭脳なのに、ほどほどの夫を見つけられて、二人の子供も得られた。普通に生活できるだけの収入も、夫は稼いでくれる。
あとは、圭太が自立してくれて、杏子が佳代子達と温泉旅行に行けるようになったら、大成功だ。
──でも、圭ちゃん、ニータちゃんと普通に話していたし、もうすぐその夢もかなうかも……
鉄格子の窓に寄りかかって、流れる景色を眺めながら、杏子はまだ見ぬ湯布院の湯けむりを思った。




