二一 男女の差
ナゴォ宅の屋根裏に戻って、圭太は延々と文句を言い続けた。
「なんで、邪魔しに来たんだよ」
「オレはヒーロー、っつーか、ヒロインなんだからさー、あんなザコ男三人くらい、ぜってー倒せたっつーの!」
「ピンチのときにチート能力が発動するってのは、お約束じゃんか! 誰だって知ってるだろ?」
「母さんのせいで、オレの能力、全然ジャンプアップしねーじゃん」
そんな文句すら、今日は愛おしい。
もし杏子が間に合っていなかったら、文句を言う元気はなかったはずだから。それどころか自殺の心配をしなくてはならなくなる。
今の状況で死んだら、元の世界への奇跡の生還はあり得ない。
安堵で杏子の顔は緩みっぱなしだ。それがまた圭太の怒りのもとになる。
「あのなー、言っとくけど、オレの特殊能力が本気で発動したら、あんなヤツら、ずったずたのバッラバラなんだからな!」
杏子は機嫌よくうなずいた。
「そうよね。圭ちゃんのミラー、凄いもの。ママ、びっくりしちゃった」
三人の乱暴者は、柴犬おばさんが連れてきた村人達と協力して、村に運んだ。打撲やあざや擦り傷はできていたけれど、命に別条はない。親達は三人を怒鳴りつけ、杏子達に頭を下げたから、今頃はきっと説教されているだろう。
──もう、大丈夫。
思うとさらに頬が緩む。
「レベルアップ、してたじゃないの。見たこともない鏡……鏡よね? あれ。あの金属板がなかったら、ママ、刺されていたわ」
月明かりの中で圭太がふふんと肩をそびやかす。
「鏡に決まってんだろ。ここの文明レベルだと、鏡はガラスじゃねーって言ったじゃんか。普通のより、金属のほうが強度あるじゃん」
杏子は感嘆の息を吐く。
「凄い、圭ちゃん。本当に頭がいい!」
だから高卒認定を受けて大学に……と続けかけた言葉をどうにか呑みこむ。
そんなことを言ったら、また口を利かなくなるかもしれない。
──たぶん、知らない場所に飛ばされたから、そのせいで、こんなに喋ってるのよね……
大学や将来の話は、元の世界と身体へ無事に戻ってからにしよう。
とりあえず、そう決める。
翌日から、杏子の忙しさは格段にアップした。いつもの頼まれごと以外に、あちこちに目を配らなくてはならない。
男の子のペットの件では、実際はともかく男の子はペットの命の危機を感じていた。だから『感謝の水晶』が出現したのだ。
杏子でなくてもそう結論を出すだろう。
それは二つめの水晶の出現で証明された。
おじいさんが屋根の修理をしているとき、足を滑らせたのだ。屋根から落ちかけたのを、手伝っていた杏子は間一髪でつかまえた。今の杏子の腕力なら、痩せた老人くらい片腕で引き上げられる。それを下で見ていたおばあさんから『感謝の水晶』がでてきたのだ。
そのうえ涙を流してお礼を言うおばあさんにつられるかのように、おじいさん本人からも水晶がでた。
──これって、自分の命を助けてもらったというより、おばあさんを喜ばせたことへの感謝って感じよね……
つまり、おじいさんにとっては自分の命が助かったことより、妻が喜んでくれたことが嬉しい、本当の感謝が湧くほどの出来事になるということ。
──人はみんな違う。本当に感謝する出来事も別々……
杏子だって、自分より圭太が救われたほうを感謝すると思う。
けれど少なくとも、大切な人やペットの命を救うことは、わかりやすい。おばさん軍団のお喋りに耳を澄ませ、危なそうな場所や人や獣のことを常に心にかけておく。誰かのピンチをタイミングよく救えるように。
もちろん、忙しい原因はそれだけじゃなかった。
圭太だ。
あれだけ言って聞かせたのに、圭太はまだ男達と対等にケンカできると思っている。
「バカにしやがって……分断できれば、各個撃破してやれんのに……」
あの夜、つぶやいていたのも聞いた。
圭太は聞こえていないと思っていただろうけれど、〈頑健〉な杏子の身体は耳がいい。五十歳女性なら聞き逃す音声も、充分聞こえる。
だからやめてって言ってるでしょ!
その場で叫ばなかったのは、おばさんの分別だ。
母親が絶叫して止めたって、どれだけ長く言い聞かせたって、圭太は納得しないだろう。
それが思春期の男の子というもの。
この五年で杏子は思い知った。それで説得できるなら、圭太はとうに学校へ行っている。
説得できないなら、陰ながら見守るしかない。
幼児相手でも難しい子育て方法は、思春期だと難度が百倍くらい上がる。
熱い鍋に触ろうとしたり、包丁を振り回そうとしたり、洗濯機に落ちかけたりと、幼児に気を配るのも充分大変だった。
けれど暴力とレイプをためらわない、ならず者を挑発して、腕力で対抗しようと考える十六歳の少女ほどの危険は、ちょっと考えられない。しかもそれを、母親に見つからないように実行しようとしている。
今の杏子の腕力なら、圭太を力づくでどこかに閉じ込めるのは簡単だ。けれどそれはしたくない。
せっかく自分から、外に出てきたのに。
この世界に来る前の圭太なら、チンピラに睨まれただけで、二度と家から出なくなったはずだ。他人とかかわるのを頑なに避けて。
だから閉じ込もってほしくない。
けれどもちろん杏子一人で、圭太の年齢の子供を見守りきれるわけはなかった。悪いとは思うけれど、ニータに協力をお願いする。なにか変だと感じたら、すぐに知らせてほしいということだけ。
有難いことに、ニータは承知してくれた。ほかの子供たちにも頼んでくれるとまで言ってくれて、正直、ほっとする。
──まったくもう! ニータちゃんにこんなに心配してもらえるなんて、どんなにありがたいことか……圭ちゃん、わかってる?
わかっていないに決まっていた。それが十七歳男子というものなのだから。
とりあえず圭太はタヌキ男を標的と決めたらしい。杏子の今の巨体でも馬男の蹴りがかなりダメージになったのを見て、さすがに無理だとわかったのだろう。もう一人の羊男も、馬男に次ぐ体格だ。消去法でタヌキ男なら勝てると踏んだらしい。
物の考え方としては悪くない。以前から思っていた通り、圭太は決して馬鹿ではなかった。
ただこの場合問題なのは、根本的な部分にある。
男女の筋力差。
女性ならたいてい、成人する前のどこかで実感するものだ。身長にも体重にも無関係。とにかく腕力が違うということを。
杏子は中学二年のときだった。
近所の見晴し丘公園で、足を滑らせたのである。
杏子の身長より二十センチ高いだけの、崖ともいえない段差だったけれど、簡単には登れない。必死でやればなんとかなるかもしれないが、制服が泥だらけになってしまう。
一緒にいた友人二人が手をのばしてくれたけれど、しゃがんだ体勢では力は入りにくいし、杏子のぽっちゃり体形もあって、まったく登れなかった。
そのときたまたま通りがかったクラスの男子を、友人が呼びとめたのだ。
もともとそのときのクラスは雰囲気が良く、まとまりがあった。おかげで、男子は特に意識もせずに、不通にしゃがんで手を出してくれた。
杏子も照れずに、女子にするのと同じ感覚で手をつかむ。
「重いよ」
一応、そう断ったけれど、それは見ればわかること。
「だよなー」
軽く笑って、男子は杏子の手首をぐいと引いた。
そうしたらもう、杏子は段差の上にいたのである。服も全然汚れていなかった。
一瞬、なにが起きたのかわからなかった。男子は杏子より数センチも背が低く、体重は十キロ以上軽い。なのに女子二人がかりで無理だったことを、一人で軽々やってのけたのだ。
杏子を含めて三人の女子はびっくりして、それから手を叩いて褒めたたえた。男子は照れて「アホくさ!」とか言っていたと思う。
十四歳のあのとき、杏子は男女の腕力差を思い知った。女子二人の力より、チビ男子一人のほうが強い。
その力の差は、今の身体でも日々実感している。
もちろん今の杏子は、あの中学生の男子より五十センチは背が高くて、筋肉モリモリで、いかにも強そうだけれど。
それでもきっと、同じ身長と体重の女性よりずっとずっと強いだろう。
そして圭太はその差がわからないのだ。
男女の腕力差が広がる時期に、家に閉じこもっていたからだけじゃない。多くの男は、女の非力さをわかっていないものなのだ。
夫もそうだった。
つきあってしばらくしたころ、夫は兄弟と遊ぶ感覚で、杏子へプロレス技をかけてきた。あまりの痛さにやめてと頼んでも、杏子が泣きだすまでやめなかった。楽しく遊んでいると、思いこんでいたという。
あのとき必死な顔で謝ってこなかったら、杏子は結婚しなかっただろう。
それくらい痛かった。
痛いだけでなに一つ楽しくなかった。男の兄弟というものは本当にあれを遊びと思うのかと、ずいぶん長いこと疑っていたものだ。
それに、圭太の好きなゲームもマンガも戦う女の子で溢れている。巨乳でウエストのくびれた少女の一蹴りで、大人の男がバタバタ倒れるのは、フィクションとしては面白い。女である杏子でも少し胸がすく。
けれどあれはフィクション、絵空事だ。
かなり鍛えた女性でも、家にこもっている圭太がやったみたいに、拳で壁に穴をあけるのは難しい。ボクシングジムに数箇月通った女性と、ぶらぶらしている男性が殴りあったら、あっという間に男性が勝つ。
──圭ちゃんには、今の女の子の腕力を知ってもらわなくては……
そのうえで最悪の事態は回避する。それが一番重要なことだ。『感謝の水晶』を百枚集めても、圭太の心が壊れたら取り返しがつかない。
──それにしても、圭ちゃんのあの笑顔……やっぱり媚び媚びよねぇ……
部屋にあった本の表紙に似せれば良いと言ったものの、あれではまるで襲ってくださいと頼んでいるようなものだ。ニータに対しても一所懸命その笑顔を見せているけれど、女の子には効果はない。
──というより、あんな笑顔見せられたら気持ち悪いよね、普通……
それでも優しく接してくれるニータには、頭が下がる。
普通の女子なら警戒警報が頭の中で鳴り響く。杏子だってもし、佳代子や厚美達があんな顔してやって来たら警戒する。絶対に、面倒な頼みごととか、マルチ商法への誘いとか、搦め手でしてくるに決まっているから。若いころだったら、自分の恋人を狙っていると警戒しただろう。
そういう笑顔が、男性にはとても魅力的に見えるのは不思議だ。
圭太があの笑顔を向けると、男達は老いも若きも一様に鼻の下をのばす。もちろん、圭太のターゲットのタヌキ男も。
ニータの報告によると、圭太はあの堅蔓の根の木刀を、こっそり隠しているのだそうだ。木刀があればやっつけられると考えているらしい。
その木刀を盗み出すかと聞かれたけれど、そのままにしておいてもらった。かわりに常に剣を腰につけておくことにしている。
何度か振ってみたけれど、さすがに使いやすい。きっとこの身体に合わせて作られているのだろう。
剣を使ったら、場合によってはタヌキ男を殺してしまうかもしれない。
杏子はそれも覚悟している。
人を殺したいわけではないけれど、いざというとき、圭太とタヌキ男のどちらを選ぶかは、考える必要もなかった。




