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夏の水平線

作者: 白樫隆明

「ねぇ私ね、猫って、竜に似てると思うのよ」


 初夏の昼下がり、砂浜に近い一件の喫茶店。唐突に彼女はそう言って僕の肩にもたれかかった。彼女がいきなり何かを話し出すのは何も珍しいことではなかったけれど、もたれかかるのは珍しいことだった。


「そう?」


 短く聞くと、彼女はうんと言った。


「例えばね、あの目。蛇でもないのに、すごく細くなるじゃない。他の哺乳類はそのまま小さくなるのに、猫とか、猫科の動物って、縦に細くなるでしょ」

「そうだね」


 確かにそうだ。


「それに気まぐれ」

「気まぐれ?」


 隣を見ると、彼女もこちらを見ていた。ただ、見ていた。顔全体は前を向いたまま。海を向いたまま。


「天気みたい。何を考えてるのか分からないの。そりゃ、いくらかは分かるわよ。けど、本心は分からない。猫をかぶるって言うでしょ」

「言うね。けど、本心が分からないって、どの生き物でもそうじゃないか」

「特に、よ」


 彼女は顔をこちらに向けた。


「特に分からないのよ」

「それって」


 僕を入れてる?

 言う前に、彼女がまた海の方向を見たので、僕はその言葉を飲み込んだ。


「あなたは違うわ」


 その声は小さかったけれど、はっきりとしていた。






 そうだ、僕は竜だ。

 『後天性竜化症候群』。それが僕の病気。ある日突然体のどこかが鱗に覆われ始めて、数ヶ月から数年後には翼も生えて竜になる病気。

 治療法は、ない。






 カラン、コロン。彼女がストローでアイスコーヒーをかき混ぜ、氷が音をたてた。波は太陽の光で輝きながら、打ち寄せては引いていく。


「ねぇ、飲み終わったら、どこに行く?」


 僕はちょっと、自分のメロンソーダを飲んだ。勿論ストローで。


「うーん、どこでもいいなぁ」

「なによ、それ」

「どこでもいいのは、どこでもいいんだ」

「じゃあ、私が選んでいいの?」

「いいよ」

「そう」


 彼女はカバンからガイドブックを取り出して眺め始めた。僕はまたメロンソーダを飲んだ。波が打ち寄せては引いていく。






 僕の病気が発覚したのはもう今から五年も前になる。まだ大学生だった頃に、僕はトラックに引かれるという、今思えば大きな事故にあった。僕の家系にはこの病気の人はいなかったから、どうやらその時受けた輸血でなってしまったらしい。

 始めは、左手首だった。

 まだ入院中、痣だと思っていた部分が日増しに固くなり、ざらざらとしてきた。僕以外で一番最初にそれを見つけたのは母だった。


「あんた、なに?それ」


 その後が大変だったのは言うまでもない。両親は病院を警察に訴え、他の被害患者をも引き連れた裁判沙汰になり、結果人体からの直接献血は今後一切禁止という所でまとまった。

 だからもう、献血を求める声も、一切ない。






「ここがいい」


 ガイドブックを覗き込むと、彼女が指差したのは山の上にあるらしい展望台だった。少し小さめに載せてある写真が綺麗だ。


「いいね」

「でしょ?」


 ふふん、と彼女はいいものを見つけたというように得意気に鼻を鳴らした。そしてアイスコーヒーを飲んだ。


「すっごく見晴らしがよくて遮るものがないから、水平線がちょっと曲がって見えるんだって。ほら、地球が丸いからその形に」

「へぇ、そんなに」

「見てみたくなるでしょ」

「うん、なる」


 笑って彼女を見ると、彼女も笑っていた。


「決まり」


 ちょっと頂戴。僕のメロンソーダを彼女は飲んだ。詳しく言うと、僕のストローで。


「うわ、炭酸」

「そりゃ炭酸だから」

「まぁね。おいしい」

「僕もアイスコーヒー、もらっていい?」

「どーうぞー」


 僕は彼女の手が差し出したアイスコーヒーを飲んだ。メロンソーダの甘さに慣れた僕の舌はコーヒーは妙なくらいに苦く感じたけど、結構おいしい。






 後天性竜化症候群は輸血による血液感染と母子感染しかしません――病院側はそう言いながら、パニックを防ぐため僕を人通りの少ない個室に移動させた。

 パニックだって。あるんだな、パニックって。

 段々、段々、僕の体は変わっていくけれど、不思議とそれで“うつ”にはならなかった。これは竜の性質。“うつ”には決してならないというのを、誰かから聞いた。






 飲み物の代金は前払いだったから、僕と彼女はコップを返却して外に出た。


「あっつぅ」


 日差しが照りつけている。気温は大分上がっているようだ。僕は翼を広げて彼女に影を作ってやった。服を選ぶのに厄介になる翼も、こういう時には役に立つ。


「ありがと」

「どういたしまして」


 駐車場につき、車に乗った。彼女が運転、僕は後ろに。


「えーと、どっちだったっけ」

「右に出て、二キロぐらい真っ直ぐ」

「あぁ、そっか」


 ブルルルル。車のエンジンがかかった。






 左腕、左胸、腹。それくらい進行した頃だったと思う。彼女が見舞いに来たのは。


「あら、綺麗なお花」


 そう言ったのは母で、彼女は母に微笑んで、従兄弟と一緒に選んだんです、と言った。僕の好きな黄色い花ばかりだった。

 僕は彼女が驚くものと思っていた。だけど実際驚いて慌てたのは母で、彼女は事故にあう前と少しも変わらず、僕の前にいた。

 母が帰って二人になって、ようやく僕は口を開いた。


「嫌じゃないの、僕が」


 それはある意味僕自身に対して言ったのかもしれない。僕の中にある、変わらない彼女と変わる僕に対する不満に。

 彼女の答えは簡単だった。


「どうして?」


 何故そう問うのかと言いたげに彼女は言った。僕はヤケになった。


「僕がこんな病気で。…変わっていってさ。嫌いになるとか、別れたくなるとか」

「ならないわ」


 彼女はゆっくり首を振った。


「あなたはあなただもの」


 そう言って近付いて、止めようとした僕の右手を、彼女はとった。


「よかった。生きてて。本当に」


 気がついた時には、彼女の唇は僕のそれと重なっていた。






 風が通り過ぎていくのか、僕達が通り過ぎていくのか。少し開けた窓から空気が激しく音をたてて入ってくる。今の彼女は気分がいい。何故分かるかと言えば、鼻歌が聞こえてくるからだ。


「誰の歌?」

「カーペンターズよ。知らない?」

「カーペンターズは知ってるけど、その歌は知らないな」

「じゃあ、今度CD貸してあげる」

「どうも」


 カーペンターズって、兄妹なのよぅ。て、知ってるわよね。彼女はハンドルをきって今度は左に曲がった。






「私ね、両親がいないのよ」


 窓辺に鳩がいた、みたいな軽い口調で、彼女は言った。


「事故でね、小学生の頃死んじゃった」

「…知らなかった」

「当たり前よ、言わなかったもの」


 彼女はテーブルから少し落ち掛かった花びらを拾って、ゆっくり話し始めた。授業参観に親がいないことに対する違和感、叔父や叔母への遠慮、一人暮らしの感覚、そして僕と知り合った時のことまで――。


「懐かしかったの。自分でもよく分からないけど。初対面なのにね」


 何故今、それを話すのだろう。

 僕は怖くなった。何故だか。


「どうして」


 彼女と目があった。

 彼女はただ、僕を見ていた。僕だけを。


「あなただから、話すの。今」


 今……






 駐車場から展望台に行くまでには、少し坂を登らなければならない。彼女は髪を風になびかせ、僕のちょっと前を歩いていた。

 あれからも僕達は、一緒にいる。

 誰かに、そんな姿でも幸せか?と聞かれたら、僕は迷わず、幸せだ、と答えるだろう。

 僕は竜だ。それは変わらない。でも、僕は竜である前に、僕なんだ。


 変わらない。


「ね、手でもつなぐ?」

「へ?」


 彼女の言葉が唐突すぎて、僕は素っ頓狂な声を出してしまった。振り返った彼女は笑っていた。


「ただ行くのもいいけど、手をつなぐのもいいじゃない?」

「まぁ、そう…だな」

「なに、その嫌そうな返事」

「別に嫌なんじゃないって」

「じゃあつなごう?」

「…うん」


 差し出された彼女の手を握る。照れくさそうに、彼女は前を向いた。


 ガイドブックの展望台からは何が見えるだろうか。ただのだだっ広い水平線だけだろうか。船が見えるのか。鳥が飛んでいるのか。まだ何も分からない。

 まぁ、それもいいじゃないか。未来が分からないのはいつものことだ。別に今に始まったことじゃない。


 今分かるのは、手が汗ばんでるなってことぐらいだ。


「再出発っ!」



 意気揚々と、彼女は言った。


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