蒼天の翼
蒼い。
なんて呼べばいいんだろう。この広い頭の上。
見慣れたそれとはまるで違う。
これを空と呼ぶんなら、いつも見ていたあれはなんだ?
これとあれを同じ名前ではきっともう呼べない。
こんなに透明で青くてまぶしいのに。
その向こうに広がる果てしない闇を感じる、この空。
太陽に照らされて青く輝いて見えているのは、暗い宇宙空間の一部なんだと妙に納得した。
その、上に向かって深くなっていく空に。
いくつにも重なった雲がくっきりと、長く、白く横たわっている。
黒い大地を割って轟々(ごうごう)と落ちる、イグアスの滝みたいだ。
風が気持ちいい。
天を仰いで目を閉じる。
悪戯にぱっと瞳を開ければ、真っ白な雲が空から押し寄せてくるような錯覚をおこした。
ああ、雲って、こんなに存在感のあるものだったんだなあ。
俺が暮らしていた街の空は深く広い青さがないから、雲だってこんなに目立ちはしない。
不思議だよな。
あっちの雲は当たり前の顔して空に属しているけど。こいつらは、ここの雲は、あきらかに大地に属してる。
考えてもみろよ。宇宙には雲なんてないんだぜ。
すげーな雲。
すげーな空。
すげーよおまえらは。
ものすごく気持ちが揺さ振られて、無頓着に俺を座らせてくれている寛大な大地の赤い土を、手のひらにぎゅっと握りしめた。
「…見せてやりてぇな」
ふと、口をついて出た言葉の女々しさが、広漠な風景に嘲笑されたのを感じる。
《ガタガタ言ってんじゃないよ。ここでそんな気持ちになるなんて。アンタ、バカ?》
どこまでも続く真っ直ぐで長い地平線を持つ大地から、ズバリ言われたような気がした。
「うるせー、ばーか」
こいつは。この星は。きっと女だ。なんとなく、そう思った。
それも、相当に口の悪い、性格のキツい女だ。
人の気持ちになんか寄り添ってみようともしない。そのくせ、やけに懐の深い女。
抱き留めてはくれるけど追いかけてはこない。
支えてはくれるけど引き止めはしない。
暗黒の宇宙で独り、凛として青く輝く星。その女のような意識をありありと想像して、俺は握っていた土くれを投げた。
「おめーのが、うるせーんだよ、ばーか。」
デカい声になったのは、俺がこいつの、この星のデカい懐に抱かれて甘えている証拠。
「ばーか、ばーか」
我ながら鼻タレのガキみたいだなと思いながら、赤土の上に体を投げだして大の字になる。
《バカはアンタの方。まあ、いいだけゆっくりしていけばいい》
背中に感じる大地の鼓動が。上から降り注ぐ圧倒的な光りと大気が。
同時に腕を開いて、異端な俺の存在に目をつぶってくれているのだと感じる。
おかげで、なんの前触れもなく落ちてきた自分の涙に、俺はまったく戸惑わないですんだ。
いまごろ、アイツは。
アイツは都会の空の下でどうしているんだろう。
今こんなにも密着してるこの大地が、明日、俺の不在を嘆かない以上に。アイツは今日も、俺のいない世界で元気にやってるんだろうな。
それでいいじゃないか。
場所の雄大さにそぐわない胸の痛みをチクリと感じて、俺はまぶたをゆっくり閉じた。
『アンタにはアンタの生き方がある。それでいい。アンタは何も間違ってない。』
自分の口が吐いた言葉を今さら少し悔やんでみる。馬鹿な俺。ちっせぇ俺。
ポロリポロリと休みなく落ちていく小さな雫は、すべて大地に吸い込まれていく。
《ようこそ》
受け止めるばかりで、誰のことも追いかけはしない大地が。俺を仲間と認めて微笑んだ。
「おまえと一緒にすんなよ」
答えの出ない事を考えたって仕方ない。
追いかけはしねーけど。すべての道はローマに続いてるんだぜ?
だから…。
「もう、行くわ」
立ち上がった俺を引き止める者はいない。
《せいぜい、がんばるのね》
そっけない大地の声に送られて。俺は、もう長い間たたんでいた背中の翼を大きく広げた。
全身にぐっと力を入れて、この体を支えていた大地から離れる。
《せ、ん、べ、つ。》
大地が巻き起こした上昇気流。
詰まる息は翼を使うせい。俺が、歩くことではなく飛ぶことを選んだせい。
気流に乗った体がグイッと舞い上がる。
蒼い、蒼い空へ。
空気の薄さにはまだ慣れない。けれど。
一点で繰り返していた旋回を止めて、激しい横風に翼を乗せようと試みた。
乗れない。
空が、風が、俺の翼を拒絶する。
《大地に未練のあるうちは飛ぶもんじゃない。さあ、お帰り》
ちくしょー。
大地が女なら、こっちはやけに厳しい男みてーだ。
突き放すことにかけては天下一品。追いかけるどころか、受け止めることもしないのかよ。
《ほら、グズグズしてると落ちるぞ》
「誰が…、落ちるかよッ」
苦しさに喘ぎながら、大きく53回も羽ばたいて、やっと風は俺の体を捕まえてくれた。
風に乗った翼が突然に軽くなる。
「おせーんだよ、頑固じじい」
蒼い空に言い放つと、風が揺れて体が傾いだ。
「ふざけんなよっ!落ちるだろっ」
それでも、一度、風に乗った体が落ちることはない。この翼をたたまない限り、どこまでも…
《落とさないんだ?過保護だねえ。》
どんどん離れていく大地が、俺を掴んでいる風に向かって皮肉を言う。
「うるせー、ばーか」
《行き先はおまえ次第。目的地まで選んでやる気はない。》
大地からの干渉など気にもとめず。決断を迫る潔く蒼い空。
行き先…。行き先は、まだ決まっていない。
この広漠とした大地の果てへでも、アイツの選んだあの街にでも…。
今なら、まだ。
《すべての道はローマ、でしょ?》
揺らぐ俺の心をからかうように、もう遠くなった大地からクスクスと笑い声が聞こえた。
「ホント、うるせー」
そう、すべての道はローマに繋がる。
だから、きっと、また、会える。
選ぶ道は違っても。
一緒に育ったアイツから離れていくことを、酷く悲しんでいる自分にそう言い聞かせて。
深々と息を吸い込むと、俺はアイツのいる街とは逆の方向へ翼を翻した。
空の蒼さが、目に痛い。
涙が一粒この目を離れ、口うるさい大地に向かって落ちていく。
わかってる。もう、後戻りはできない。
一度広げた翼をたたむことはできない。ただがむしゃらに、自分を信じて飛ぶだけだ。
それでも、どこにも行き着けなくて。
いつか力尽きて落ちることがあったら、コウモリのように大地を這ってアンタの顔ぐらいは見に行くよ。
不格好でも最後まで、前に進む自信だけはある。
その時までは。
この空が俺の選んだ場所だから。これが俺の選んだ生き方だから。
アンタが間違ってないように俺だって間違ってはいない。
答えはきっと、ひとつじゃない。そう信じて。
大地より広い蒼天に、今日から独り翼を広げる。
全ての道は…きっと。
いつか、きっと。