無伴奏フーガ
噛み合わない思い。
分かりあえない苦しみ。
閉じ込めた叫び。
狂おしいほどに切ない旋律はやがて交わり、美しく儚い音楽を奏でる。
──────────
石倉太一がこの物語と出会った経緯から話をしたい。
彼、石倉太一は明治に創設された石倉紡織に長男として産まれた。
現在、取締役である父の清太が三代目であり、父がその座を退けば四代目のそれは太一に譲られる。
今年で37歳の太一は来る日に備え、大学では経済を学び、卒業してからは海外暮らしを強いられた。
日本へ帰ってからも、石倉紡織にある数多の部署を一年ごとに変わり、仕事のことを学んだ。
そして、第二段階として大正時代に建てられた洋館を与えられる。
代々石倉家に継がれてきたこの洋館は外装内装はもちろん家具や、食器、電灯などそのままになっている。
父の清太は静かすぎて落ち着かないと一週間ももたないで出たそうなので、家の中は祖父の過ごしていた時のままになっている。
正確にいえば、祖父の妹家族が住んでいたらしい。
そんなことで石倉太一は現在、屋敷の掃除をしている。
明日から清掃業者に来てもらう手筈になっているが、その前に必要な物とそうでないものを分けにやって来たのだ。
──────────
太一が車から降りると蝉の声が大きくなり、同時に額から汗が滲み出た。
それを脱ぐって洋館を見上げる。
2階建てのそれは、それよりも大きな木のおかげで涼しそうだし、風の通りも良さそうなので、冷房ばかりに頼らなくても快適に過ごせそうだ。
ギリギリと音をたてる錆びた鉄の柵を押し開けると、そこには緑が広がっていた。
年に一度は手入れのために清掃業者が入っているとは言っても雑草が延び放題になっている。
元は家庭菜園でもやっていたのだろう跡が残されていた。
手入れをすれば再び使えそうだ。
そのまま玄関まで進み、解錠して中へ入った。
玄関はタイル張りになっており、そこを上がると正面に板張りの廊下が伸び、その左右には何枚かの扉がある。
右側の扉はダイニングになっている。
昔は急な来客や、社交場として使用していたようだ。
左側にある部屋は曾祖父からの趣味の部屋として、書籍を始め絵やレコードなどがズラリと並んでいる。
その隣は書斎、そして風呂場、御手洗いと並んでいて、廊下の突き当たりに調理場がある。
そのすぐ前にある螺旋階段で2階へと行けるようになっている。
太一は靴を脱いで各々の部屋の窓を開けて空気を入れ替えると、廊下の中腹にある大きな振り子時計の前で立ち止まった。
硝子の扉を静かに開けて、針を現在の時刻に合わせてから螺を巻き、振り子をそっと動かしてみた。
すると、コチコチと小気味の好い音をたてて振り子は動き、時を刻み始めた。
動き始めた事に満足になった太一は2階へと上がった。
1階が仕事にも使えるようにと広い間取りであるのとは逆に、2階は完全に家族のプライベートスペースとなっている。
階段を上り詰めると正面、つまり玄関の真上となる場所には大きな窓がある。
そこから外を眺めれば、太一が乗ってきた車が見下ろせる。
その左手側にあるのが大きな寝室。
恐らくそこは夫婦の寝室だ。
その向かい側にある、窓に近い方の部屋に入ったが何もなかった。
物置に使用しているわけでもないようで、本当に何もなかった。
この部屋の窓を開けると、その隣の階段に近い部屋に入った。
こちらは本棚と文机、ベッドがあったが本棚に本はなくベッドには布団も敷かれていない。
ここの部屋の窓も開けて向かいの大きな寝室へと入った。
大きなベッに使用可能か不明な豪華なオーディオ機器やソファ、そしてテレビ。
この部屋にも書籍が詰め込まれている。
太一はこの部屋の窓も開けて回った。
するとふいに、ベッドの横にある文机が気になった。
大人が使うにしてはやや小さめのそれは、長年愛用してきたのだろう色褪せや傷が目立つ。
左端に『美夜』と彫ってある。
祖父の妹の名前だ。
やはり、この部屋は夫婦の寝室だったのだ。
祖父の妹夫婦が使用していたそのままなのだ。
一番上の引き出しに手をかけたが滑りが悪く上手く開かない。
力を込めて引き出すとようやく半分ほど中が見えた。
何が入っているのか覗いてみると、写真が1枚とノートが1冊、そして何かの鍵だった。
力を込めてようやく半分ほど引き出すことができた。
写真をみると昔に撮られたものだろう、カラー写真ではなく、写っている人物も丸坊主の男の子2人だった。
その2人はこちらを睨んでいる。
10歳ほどの男の子が拳を握りしめている真横で、6歳くらいの男の子が隣の男の子のタンクトップの裾を強く握っている。
2人とも警戒心を込めた目付きでこちらを見ているが、小さな男の子の方はとても不安そうだ。
その写真を裏返すと『武郎さんと宗助さん、十二歳、九歳』と書かれていた。
2人とも年のわりには小柄である。
この写真はどうやらこの家を背景に撮られたようだった。
そして、次にノートを手にとって開いてみると、鉛筆で描いてある草花の絵や、押し花などが貼られていた。
パラパラと捲っていくとページの隙間から何かがひらりと落ちた。
それを拾って見てみると『武郎さんと宗助さん、十八歳、十五歳』と書かれていた。
裏返すと、成長した先程の2人が写っていた。
相変わらず歳上の方はこちらを睨んでいるが、もう1人の方は無表情だった。
─兄弟か。
よく見れば似ている。
太一はノートと写真を引き出しにしまい、次の段に手をかけたが、それも思うように開いてくれなかったので勢いよく引っ張り出した。
しかし、残念ながら何も入っていない。
不満に思いながらその段を押し戻すが、それも力が必要だった。
そして、最後の引き出しに手をかけた。
これも硬いだろうと思いながら力任せに引き出すと、それは軽くするすると滑らかに動き、しかも何も入っていなかったので、引き出しは勢いよく後方へ飛んでいってしまった。
それは本棚に当たって止まり、ひっくり返しになって落ちていた。
─しまった。床、傷ついたかなぁ。
と思ったと同時に引き出しの裏に何かが貼り付けてあるのを見つけた。
─なんだ、これ。封筒か。
引き出しを手にとってその封筒をはがすと引き出しを元に戻した。
人のプライバシーを考えるよりも先に手が動いた。
開封されていないので、まだ誰にも読まれていないようだ。
その時だった。
いきなりゴーンと大きな音が聞こえてきた。
一瞬ドキッとしたが、時計をみて納得する。
1時になったので、先程の振り子時計が教えてくれたのだ。
床に腰を落とし、ベッドにもたれて便箋を広げた。
──────────
太一は暫く放心していた。
─どういう事だろう。何があったのだろう。
立ち上がって先程の引き出しで見つけた鍵を手にとって裏口へ向かった。
そこには物置小屋が建っていた。
その扉の鍵穴に先程の鍵を挿す。
太一の考えは当たっていた。
扉が開いたのだ。
しかし、中には何もなかった。
大人3人が寝転べることはできるが、生活ができるような空間ではない。
少し期待外れだったが、ふと思った。
─屋根裏だ。あの寝室には屋根裏があった!
急いで先程の部屋に戻り、天井を引っ張り出して屋根裏を覗いた。
「当たり」
太一は屋根裏にあった美夜が書いた手記を下ろすと、掃除はそっちのけで読み始めた。
その日中には読みきれないので、泊まり込んで4日がかりで読み終えた。
まんべんなく読むと、ようやく先程の封筒の意味が分かった。
それは、とても苦しく痛いほどに哀しい愛の物語だったのだ。
噛み合わない思い。
分かりあえない苦しみ。
閉じ込めた叫び。
狂おしいほどに切ない旋律はやがて交わり、美しく儚い音楽を奏でる。
フーガのように。
──────────
「お前、俺の弟を殴りやがって!」
「うるさい!お前の馬鹿な弟が先に手を出してきたんだ」
─また始まった。
庭いじりをしていた美夜は立ち上がって表の様子を見て溜め息をついた。
やはり、そうだった。
─宗助さん。
鉄柵の向こうには華奢な体つきの宗助が、歳上の男の子数人と対峙している。
その先頭にいる、弟に手を出された年長の子があからさまに憤っていた。
彼の弟は宗助より3つ年が上だったはずだ。
─まったく。男の子ったら。
美夜は手についた土を軽く払う。
「弟を馬鹿にすんじゃねぇ!」と相手の男の子が大声を出す。
「俺の弟が馬鹿ならお前の兄貴はどうなるんだ!狂っているじゃないか!」
その罵声にどっと笑いが起きる。
─まずいわ。
美夜はそう思って急いで鉄柵を開けて表へと飛び出した。
「あなたたち!なんて酷い──」と言った所で宗助が硬い拳を振り上げて相手に飛びかかろうとした。
「だめ!宗助さん!」
そう叫んだが遅かった。
宗助の拳は頭一つ分背の高い相手の鼻先を目掛けていたのだ。
しかし、それはあと少しの所で止まった。
呆れた表情で宗助の手首を掴んで止めたのは、はす向かいに住む郡司弥太郎だった。
「喧しいぞ。お前たち、年下1人相手するのに何人で押しかけてる。情けない。──おい、宗助。こんな奴ら相手にするなと言っただろう」
宗助は弥太郎の腕を振り払い美夜の横を通りすぎて石倉家へと入って行った。
不満そうに去っていく男の子たちの背中を見送りながら美夜はため息をついた。
「美夜ちゃんがため息だなんて、らしくないな」と先程の剣幕をどこかへやった弥太郎が優しく笑う。
「あの子達、毎日のように宗助さんをからかって──飽きないのでしょうか」
弥太郎は「そうだね」と言って困ったように微笑んだ。
「威勢がいいのは良い事だけどね」
その時「おぅい!君たち!」と間抜けな呼び声が聞こえてきた。
「お兄様」
ゆっくりとしたペースで自転車を漕ぎながら現れたのは美夜の兄の藤一だった。
彼は自転車から降りながら暢気に「いやぁ、今日も暑いなぁ」と言って額の汗を拭った。
「2人ともお揃いでどうしたんだ?」
「また宗助さんがからかわれていたの」
「あぁ、お前の兄貴は狂っている、狂っていないなどと言い合っていたのか。だから、悪餓鬼たちとすれ違ったのだな」
藤一は困ったように頭をかいた。
「あの年頃の餓鬼には良い鴨だぜ、武郎さんは。ほら、人を避けるような生活だし、たまに叫び声が聞こえてくる。挨拶もしないし、目も虚ろだ。狂っていると思われても仕方がない」
「お兄様!妙な事を言わないで!武郎さんは戦争の影響で鬱になられたのですよ」
「鬱かどうかなんて分からないぞ。だってそうだろう。この家に来た時だって病院では外傷を診てもらっただけだろうに。あの2人の父親と昔馴染みだったからという理由でお父様が引き取ったんだ。それがなけりゃ完全に癲狂院へ」
「お兄様!もう止して!」
藤一は口ごもった。
「お兄様はもう少し弥太郎さんを見倣ってほしいわ。年齢だってひとつしか変わらないのに」
現在、藤一は13歳、弥太郎は12歳、美夜は11歳。
3人ともこの年の子供たちとは比べ物にならないくらい落ち着いている。
苦笑いを浮かべた弥太郎は「お前と武郎さんは同い年だったよな」と言ったので藤一は頷いた。
「双川の兄弟が石倉家に来てどれくらい経った?」
「1年になるよな?」と藤一が確認すると美夜は「えぇ」と頷いた。
「2人ともずっとあの調子?」
「えぇ、威嚇するような目付きは相変わらずです。武郎さんも離れからほとんど出てこられないので体調が心配です」
「毎日3食しっかり宗助が離れへと運んでいるから食事の問題はないよ。食器は綺麗になって返されているようだからな」
「じゃあ2人ともしっかり食べてはいるのだな?」
弥太郎は不思議そうだったがそれ以上は何も言わなかった。
石倉家の父親が双川の兄弟を石倉家へと連れ帰った来た時は2人とも心身共に衰弱していた。
昔に遠くへと越していった双川家のある一帯は戦禍に巻き込まれていたのだ。
人伝で双川の兄弟が近所に疎開していると知り、急いでそこへかけつけたが、彼らの父親は戦死、そして母親も逃げる最中に絶命したのだと知った。
2人は力なく寄り添いあうように横になっていたそうだ。
その姿を見て誠之助は2人を引き取る事を決めた。
それから1年が経つのだ。
今では自分の足で歩けるし、話もできるようになったが、兄である武郎の心は善くはならないままだ。
美夜は道端で話をする藤一と弥太郎に別れを言って家へと戻った。
手を洗い、玄関へ入ると、中から出て来た誰かがぶつかってきて美夜は扉に当たり、相手は勢いで転んでしまった。
「宗助さん!大丈夫ですか?」
体勢を立て直した美夜は転んでいる宗助に駆け寄る。
「お怪我はありませんか?痛む所は?」
宗助は俯いたまま「大丈夫です」と言ってゆらゆらと立ち上がった。
「本当に大丈夫なのですか?」
「はい」と言って立ち去ろうとする宗助の腕を掴む。
「でも、待って宗助さん。ほら、ここ。見てください。血がついています。私のではありません」
美夜は腕についている血液を見せるようにして、宗助の顔を覗きこむと驚いて大声を出してしまった。
「宗助さん!あなた!その顔!」
宗助は顔を隠すようにして美夜の腕を振りほどくと玄関を開けて走り去った。
追い掛けようとすぐに扉を開けたが、そこにいたのは腕を組んだ藤一と、弥太郎に腕を捕まれた宗助だった。
「どうした美夜。大声を出すなんてみっともないぞ」
そう言って藤一たちは家の中に入った。
「ごめんなさい。でも、宗助さんがお怪我をされていて、とても驚いて」
藤一が「どれ。見せてみろ」と俯く宗助の顎を上げて顔を歪めた。
「ひい。こりゃ痛そうだな。だが、まあ酷くはない。林田さんに診てもらえばいい」
林田とは通いで母親の家事の手伝いをしてくれている女性だ。
「このくらい大丈夫です!」
「しかしだなぁ。診てもらった方が早く治るぞ」
「大丈夫です」
「お前がそう言うなら構わないが、その怪我一体どうした?」
なかなか答えようとしない宗助の肩を弥太郎が小突いた。
「離れから出た時に転びました」
「転んだ?嘘をつくなよ。転んだなら膝に土がつくはずだ。なのに綺麗じゃないか」
「つ、土は洗いました」
藤一は不満そうに「そう」と言って下唇を出した。
「行ってもいいですか?」と宗助が不安そうに3人を見る。
「ああ、構わないよ。呼び止めて悪かったな」と藤一が言ったので弥太郎は宗助の腕を離してやった。
宗助は3人に向かって一度頭を下げてから玄関から出て行った。
「では、俺も失礼するよ」と弥太郎は手を上げて宗助の後に続いた。
石倉家を出た弥太郎は、宗助の後ろ姿が曲がり角に消えて行ったのを見付けたのでその後を追った。
「宗助」と声をかけるとびくりとして振り返った。
「怪我をみせてみろ」
「いいよ。大丈夫だから」
そう言って再び歩き出す宗助の肩を掴む。
とても華奢で骨張っているのでぎょっとしてしまった。
「いくらお前が大丈夫だと言っても周りはそうはいかない。額から血を流した奴が歩いてきたらお前も吃驚するだろう。それに、変な目で見られるのはお前だけではない。石倉家に迷惑がかかるんだ」
宗助は暫く考えると「分かった」と言って唇を尖らせる。
弥太郎の父親は開業医なので必要なそれらは充分にあるが、宗助の額の切り傷は家庭用の消毒薬で何とかなりそうだった。
処置を施している最中、痛そうに顔をしかめ両の手を握り締めながら、声を出すまいと我慢をしている表情を見ていると、まだまだ子供なのだと思ってしまう。
処置を終え「ちょっと待ってろ」と宗助を置いて台所に立ち、大きめの握り飯を2つ作り、沢庵を添えて差し出す。
目を丸くさせた宗助の腹が鳴った。
「ろくに食ってないんだろ?」
宗助は唇を噛み締める。
「腹が減っていないとは言わせないぜ」
弥太郎は鳴り止まぬ宗助の腹を指差す。
「食わないと石倉家に迷惑がかかる。ここでの事は誰にも言わないから」
その言葉に宗助はそろりと握り飯に手を伸ばす。
皿を綺麗にするのに5分もかからなかった。
そんなに急がなくても良いと言ったが聞く耳を持たなかったのだ。
宗助が満足した所で弥太郎が切り出す。
「最近、武郎さんはどうしてる?」
「どうって、元気だよ。外出はしないけどね。相変わらず硝子で物を作って遊んでる」
「それは良かった。体型はどうだ?痩せてるか?」
「いいや。ここに来た時よりは大分と」そう言った所で宗助は黙った。
「やはりそうか。お前の分の食事をほとんど食われているのだな」
「違う!いらないから兄ちゃんにあげてるだけだ!兄ちゃんは悪くない!」
宗助は声を裏返しながら必死に訴えた。
「宗助。よく聞け。お前が兄ちゃん──武郎さんの事を大切に思っているのはよく分かる。だが」
宗助は兄を馬鹿にされると激怒し、不審な行為を問われると必ず自分が罪を被る。
宗助自身は兄の事を本当に信頼しているので、それが正当だと思っているようだ。
唯一の肉親から離れたくないのだ。
「お前が苦しい思いをしていなくても周りはそうは思わない。お前の窶れた姿が他人の目にどう映るか考えた事があるか?いくらお前が武郎さんを庇っても他人には通じない。武郎さんを守りたけりゃまず自分の身を守れ」
怪我や病気になってしまえば無理矢理にでも武郎から離される事になってしまうだろう。
宗助は悔しそうに唇を真一文字に結んだ。
その晩の事だった。
眠ろうと布団に入った美夜の耳に何か物音が聞こえてきた。
何かしらと耳を澄ませてみたが何も聞こえてこないので、気のせいだったのだと再び眠ろうとした。
しかし、また物音が聞こえてきた。
さっきよりもはっきりと、そして近くから。
美夜は上半身を起こして何処から聞こえてくるのか探ってみた。
─この家からだわ。
布団から出ると窓から外を見た。
騒ぎが起きている様子がないので、やはりこの家からの物音だ。
その時、男の咆哮が聞こえてきた。
─まさか武郎さん?
そろりと部屋の扉を開けると部屋の前を忍び足の兄が通り過ぎる所だった。
「お兄様?」と小声で呼び掛けると藤一は振り返った。
「何をしている!部屋に入って施錠しろ!出てくるんじゃない!」
藤一も美夜に負けず小声でそう言うと、無理矢理美夜を部屋に押し込んだ。
「ちょっと待って。暴れているのはもしかして」
「ああ。武郎さんだ。相当お怒りのようだ。厨房で暴れている。腹が減ったのかな?」とひきつった笑顔を見せる。
「宗助さんが危ないわ」
藤一は顔をしかめた。
「私、弥太郎さんを呼んできます!」
「馬鹿を言うな!夜遅くにその様な格好で外出させるわけないだろ!」
「だって、お父様とお母様は今晩戻らないのよ?私しか助けを呼びに出られない」
藤一は「駄目だ。部屋に入っていろ」と言い残して階段を下りて行ったが、美夜が素直に従うわけがない。
藤一の後を静かに追う。
その間にも喚き声や、金属を叩き付ける音や皿が割れる音が聞こえてきた。
「兄ちゃん駄目だよ!そんなことしないで!」
耳に届いたのは宗助の震えた声だった。
「宗助さん」
美夜は階段をかけ下りると厨房の扉を開けた藤一の背後についた。
「何をしている!」
藤一が声を張り上げると、鍋の蓋を持った武郎とそれを取り押さえようとする宗助がこちらを見た。
こちらを睨む武郎は、この家に来たときよりも肉付きが良く、腹に肉が付き始めていたが、目の回りのクマは残したままだ。
「何をしているのです!武郎さん!宗助が悲しんでいるじゃないか!」
武郎は宗助を一瞥すると、鍋の蓋を床に叩き付けた。
皿の破片の上に落ちたそれは不快な音をたてた。
「こいつのせいだ!」
そう言って武郎は宗助の髪を引っ張った。
「こいつが俺の飯を食った!自分の分だと言って食ったんだ!」
「宗助の食事だったからでしょう!」
「こいつは─」武郎はそう言って宗助を割れた皿の上に叩き付けた。
「やめろ!」と藤一が武郎の下へ駆け出すのと美夜が玄関へと駆け出すのは同時だった。
─宗助さんが!宗助さんが!
美夜は必死で駆けた。
この長い廊下が初めて憎らしく感じ、扉の重さに腹が立った。
靴も履かずに郡司家の扉を叩いた。
「弥太郎さん!弥太郎さん!お願いです!」
なかなか反応を見せないので焦りが募る。
それでも構わずに呼び続けていると、玄関の灯りがついて硝子戸が開いた。
驚いた表情の弥太郎が顔を出す。
「こんな時間にどうしたの」
弥太郎は昼間の服のままだった。
「そ、宗助さんが!武郎さんが!」
その2人の名前と美夜のただならぬ様子で状況を察知した弥太郎は「美夜ちゃんは此処にいて!」と言い残して石倉家へと走ったが、美夜は言うことを聞かずに後を追った。
厨房へ戻ると藤一に羽交い締めにされた武郎がもがいていた。
足元で踞る宗助は微動だにしない。
「宗助!」
弥太郎が駆け寄ろうとすると「放せっ!触るんじゃねぇ!」と暴れる武郎の肘が藤一の脇腹に食い込んだ。
藤一が「うぅ」と息をつまらせ、力を緩めた隙に武郎は宗助を蹴りつけようとしたが、弥太郎が盾になってその攻撃を受けた。
弥太郎が瞬時に武郎の足首を掴んで乱暴に引っ張る。
すると、バランスを崩した武郎の背後にいた藤一が再び彼を羽交い締めにした。
弥太郎は近くにあった調理用の紐で武郎の両手を結んだ。
素早い動きだった。
離れへと連れて行く時、武郎は諦めたのか頭を垂らしたまま、何も言わなかった。
「弥太郎。よく来てくれたな。ありがとう」
「勉強していたんだよ。それに父が遅くに帰ってくるから、それを待っていたんだ」
「なるほどね。助かったよ。俺はお父様が帰るまでここで見張りをしているから、弥太郎は宗助をみてやってくれ」
その言葉に弥太郎は頷いて厨房へ戻った。
そこには踞ったままの宗助を、少し離れた場所から心配そうに見つめる美夜が立っていた。
美夜は弥太郎に気が付くと緩く頭を振る。
弥太郎はゆっくりと宗助に近づいた。
一歩踏み出す毎に、皿の破片がばりばりと音をたてる。
宗助の背中に手を触れようとした瞬間だった。
「触るな!」と宗助が叫んだ。
吃驚して手を引っ込める。
「触るな!俺に構うな!」
そう叫ぶ声は震えている。
「宗助。俺だ。弥太郎だ」
宗助は声の主を確認しようとゆっくりと顔を上げた。
その顔は額や頬からの出血で紅く染まり、目は腫れている。
震えていた。
悲しそうにこちらを見る宗助の瞳が紅い。
出血ではない。
泣いているのだ。
「立てるか?」と弥太郎が手を差し出す。
「宗助さん!大丈夫ですか?」
「──こんなに散らかして、ごめんなさい」と立ち上がった宗助が謝る。
「何を言っているの。可哀想に!あなたは悪くないわ」
美夜はそう言って一歩踏み出したが、すぐにその足を引っ込める。
宗助の目がそうさせたのだ。
「来るな」
それは裸足の美夜に対する呼び掛けではないことは明らかな声色だった。
「来るな。やはり、お前もそう思っていたのだな」
宗助の声は震えていたが、怒りに満ちていた。
目は美夜をきつく睨み付けている。
顔面から血を流した者にその目付きで睨まれた美夜の体は、石のようになり、動く事ができなかった。
「やはり、あんたもそう思っていたんだ!口では兄ちゃんを心配する事ばかり言って、内心は狂っていると囃し立てていたのだろう?あなたは悪くない?では、一体誰が悪いんだ?あんたには答えが分かっているのだろう?教えてくれよ、誰が悪いんだ!──可哀相に?本当に可哀相なのは、兄ちゃんだ!誰にも何も分かってもらえない兄ちゃんだ!弟の俺にだって、俺にだって」
そう言ったところで意識をなくした宗助がふらついたので、弥太郎は急いでその華奢な身体を抱き上げた。
「軽いなぁ」と弥太郎が言う。
「私──」
美夜が一歩踏み出すのを首を振って止める。
「来ないで。皿の破片が多すぎる。危ないからね」
弥太郎はそう言って優しく微笑んだ。
「いろいろと疲れていたのだろうね。安静にしていれば問題はないよ。今晩はうちに連れて帰る。もう少しで父も帰る頃だし」
俯く美夜に優しく声をかける。
「宗助も少し気が立っていたんだよ。気にする事はない」
彼の言葉がありがたくて涙が溢れたが、美夜の心は岩でも詰まっているかのように重く苦しかった。
宗助の言葉に間違いは無かった。
実際、あの狂気の叫び声を聞いた時、咄嗟に浮かんだのが武郎の存在であった。
兄が武郎を狂っていると言った時も、口では兄の言葉を軽蔑していたが、心の端では同じ事を感じていたのだ。
宗助が武郎の事をからかわれている時だってそうだ。
そんな美夜を信じていた宗助があのようなことを言うのは仕方がないのだ。
自分は彼を裏切ったのだから。
少なくとも宗助はそう思っている。
美夜は己の愚かさに落胆した。
宗助の負った傷は軽いものだったので、大した処置はしなくても良かった。
意識をなくしたのも日頃の疲れがピークに達していたのだろうと父は言った。
昼頃に宗助が目を覚ました。
「お。起きたか。おはよう」
まだ目を開けきらない宗助の横で、弥太郎は湯飲みに白湯を注いだ。
「ここは?」と微かな声で聞いてきたので郡司家だと教えてやると安堵したように息をついた。
「兄ちゃんは?」
そう言って上半身を起こそうとする。
「気分はどうだ?横になっていなくてもいいのか?」
「うん。大丈夫。ねぇ、兄ちゃんは?」
弥太郎は白湯の入った湯飲みを宗助に渡した。
「武郎さんも怪我をされていたから誠之助さんが戻られて直ぐ病院へ行ったよ。こちらにも一度来られたが、お前がよく眠っていたのでそのまま帰られた。大層心配をしていらしたぞ」
何を考えているのか、宗助は窓の向こうばかり見ていた。
誠之助は帰宅してすぐに状況を察知して郡司家に駆け込んできた。
布団に横たわる宗助の手を握り心配そうに髪を撫でる姿を見て、本当の親子のように思えた。
今後もこのように武郎が暴れてしまうとこれ以上の怪我人が出てしまう可能性がある。
あの青ざめた表情の誠之助がどういった判断を下すのかが気がかりだった。
武郎が癲狂院へ入ってしまえば宗助はどうなるのか。
いくら殴られようと宗助は武郎を恨むことはせず、ただ守りたい一心なのだ。
このまま2人が離ればなれになってしまう事を考えると、弥太郎は心苦しくなった。
武郎は宗助の全てなのだ。
「何か食うか?父が手土産で甘納豆を買ってきたんだ。美味いぞ」
「ねぇ、兄ちゃんは──」
宗助の語尾が震えている。
「兄ちゃんは─狂っているのか?」
弥太郎は宗助の頭を撫でた。
この少年は小さな身体で必死に兄を守ろうとしているのだ。
「人は皆、狂いの中に生きているとは思わないか?」
弥太郎は宗助に見つめられながら続けた。
「人は誰もが自分中心で生きている。自分の信じている事が絶対なんだ。だから自分と違う考えや、理解できない行動をとるやつを見ると「狂い」だと判断する。武郎さんだってそうだ。周りがいくら武郎さんを狂っていると言おうが、本人は自分が狂っているのではない、周りが狂っているのだと言う。人は皆、狂いの中に存在する。硝子の向こう側の様子を見て笑っていたと思えば、今度は笑われている。そこは壁の外側だと思っていたのに、気が付けば内側だった。出口はない。叫ぼうが暴れようが誰もがこちらを見て笑うんだ。「見ろ。あいつは狂っているぞ」と。そうしてある者は「あぁ、自分は狂っているのだ」と深く考え、ある者は自分が正常であると安心する。狂っているのは自分ではないと勘違いをする。この世は気狂いしたやつらが蔓延っている」
「──それでは、弥太郎も狂っているのか?」
「あぁ。見る人が見れば、俺は狂人だ」
「俺もか?」
「あぁ、そうかもしれないな。藤一は確実にそうだ。あいつは誰が見てもおかしなやつだ」
弥太郎はそう言うと宗助の髪を少し摘まんだ。
髪が伸び始めている。
「宗助──すまない」
「─何が?」
「俺が宗助に変な事を言わなければ、こんな事にはならなかった。宗助の分の食事は自分で食えと──お前の立場も考えずに軽はずみに言ってしまった」
「─違うよ弥太郎。誰も悪くない。──誰も悪くないんだ」
「いつでも力になるから」と宗助の頭を撫でる。
「皆、狂いの中に存在する」
宗助は弥太郎の言葉を繰り返して呟いた。
武郎が入院したその晩、宗助を郡司家に預けた石倉家では家族会議が開かれた。
議題は武郎の事であった。
やはり誠之助は兄弟を離したくないと主張した。
「2人は離れてはいけない。家族なら一緒にいるべきだ」
誠之助のその言葉に藤一が反論する。
「おっしゃりたい事は重々承知しております。ですがお父様、現に危険な事態が起こりました。この度は大事には到りませんでしたが、いつまた癇癪を起こすのかと恐れながら生活をしたくはありません。お父様やわたくしが家に居ない時にああなってしまえば、と考えるだけでも不安でなりません」
誠之助は深く息をはいた。
「使用人をつけるつもりだ。屈強で力自慢のやつだ」
それに反論したのは美夜であった。
「力で押さえ付けてしまうのはよくないです」
誠之助は頭をかかえた。
「わたくしは」と母親の貴代子がか細い声を出した。
「わたくしは、正直とても不安に思います。家族が離れてしまうのは避けたいですが、石倉家に何かが起こってしまえば話が変わってきます」
「少しだけ時間をくれないか?病院の先生にも話を聞いて、私も勉強をしよう」
誠之助は友人の子供は見離す事はできない、せめてあと一時だけ欲しいと粘った。
「それならお父様。使用人を雇うよりも良い手段がありますよ。どこぞの知らぬ輩よりも頼りになる強いやつが。あいつならわたくしたちも安心です」
誠之助が首を傾げる。
「弥太郎ですよ」
誠之助は弥太郎を信頼している。
近所の子供達の喧嘩を止めるのはもちろん、医者の息子としても随分頼りになる。
大人に負けず劣らずの力もある。
あの年頃の子供にしては出来過ぎているくらいだ。
「しかし、郡司の家に迷惑がかかりはしないか?いくら近所の誼みだからといって、そんなところまで頼ることはできない」
「宗助も慕っていますし、我々も信頼しております。家も近くです。何かあればすぐに駆け付けてくれます。今日だって、献身的に宗助の面倒を見てくれています」
「しかしだな」と誠之助は渋る。
「如何なる時も母屋の施錠を怠らないようにしましょう」
それでも「弥太郎くんに何かあっては困る」と首を縦にふらない誠之助に藤一は続けた。
「宗助は弥太郎になら心を開くかもしれません。しかし、そのためには武郎さんとは離してはいけません。兄弟が離れない事を望み、尚且つ宗助の身の安全を考えるのであれば弥太郎にも頼るべきだと、わたくしは考えます」
しばらく誠之助は黙っていたが、決意を固めて首を縦に振った。
「それでは一度様子をみよう」
藤一と美夜の安心した笑顔とは逆に貴代子の不安な表情は変わらなかった。
その翌日から弥太郎は、石倉家の男手が留守の時を中心に、宗助と話をする事になった。
自分のご飯を口にすることもできるようになり、体力も人並みに追いついたので、宗助の頼みで庭で剣道や柔道を教える事になった。
弥太郎自身、学校で学んだ程度しか分からないので上手くはないが、宗助はそれなりにものにしていった。
しかし、宗助の美夜への態度は武郎が暴れた日を境に一気によそよそしくなり、廊下で擦れ違っても会話もなく、視線すら合わせようとしなかった。
美夜は酷く落ち込み、どうにか宗助との仲を改善しようと毎日のように頭を抱えていたが、藤一はそんな事は気にするなといつも暢気だった。
「美夜ちゃんと話はしていないのか?」
剣道の稽古の後、身体を拭きながら弥太郎が訊ねる。
「話すことなどない」
宗助は無表情にそう返す。
「あの晩の事とても悩んでいるぞ」
「ならばずっと悩ませておけばいい」
弥太郎は聞こえよがしにため息を吐いた。
「宗助。美夜ちゃんが助けに出なければお前はどうなっていたか分からんのだぞ」
「どうなっていたんだろうね。ただ、助けてほしいなんて言ってないから」
「お前は誤解しているんだよ」
「誤解って何。あの人のあの時のあの表情が全てを語っていた。あの人は自分でも吃驚したのだろうさ。言葉とは裏腹の感情を隠しきれていなかった。それを証拠に反論しなかったじゃないか」
「じゃあ俺が周りと同じような態度ならお前は俺を憎むのか?」
「あり得ないよ。弥太郎はそんな事は言わない。そんな奴じゃない」
その時だった。
「あ、美夜ちゃん」と弥太郎が振り返る。
美夜は弥太郎と宗助が上半身を露にしているので急いで背を向けた。
「すみません!」
「こちらこそごめん。こんな格好で。2人とも服を着たから大丈夫だよ」
弥太郎のその言葉に美夜は2人を見た。
「昼食が出来ましたので声をかけにきました」
その言葉も聞かずに宗助はさっさと離れへと戻って行った。
「まったく。愛想のない奴だなぁ」
弥太郎が困ったように頭を掻いて美夜を見ると、彼女は悲しそうに俯いていた。
先程の会話が聞こえていたのだろう。
「さてと!昼食をいただこうかな」
無駄に元気よくそう言うしかなかった。
その言葉に彼女は笑顔を見せたが、明らかに無理をしている。
美夜が宗助の信頼を取り戻そうとしていたのにも関わらず、向こうからの反応は一切無かったが、ある日思いがけない事があった。
絵画のお稽古に行こうと支度をしているときだった。
今日着けていこうと思っていた髪飾りが無かったのだ。
父からの土産物のそれは大変気に入っていたのだが、どこを探しても見当たらなかった。
最後に使ったのは一昨日。
帰宅して直ぐに──と記憶を辿ったが上手く思い出せない。
もう時間もないので今日は諦めて違うものを髪に着けて部屋を出た。
落胆しながら扉を閉めると、壁に小さな封筒が立て掛けられていた。
何かしらと中を見てみると。
「髪飾り」
父からの土産物の髪飾りが入っていたのだ。
驚いて辺りを見たがそこには誰もいなかった。
誰かしらと頭を捻るが、ひとりしか思い浮かばない。
両親や兄ならば直接渡してくるはずだ。
弥太郎や友人であってもそうだ。
この髪飾りが美夜の物だと知っており、尚且つ手渡し出来ない人物はただひとり。
─宗助さんだわ。間違いない!
宗助と武郎は母家にも自由に出入りできるが、滅多に顔を合わせない武郎の方は、この髪飾りが美夜の物だと知らないはずだ。
どう考えても宗助に間違いはない。
美夜は嬉しくなって飛び上がりそうなのを必死に堪え、急いで髪飾りを付け替えると外へ出た。
庭で剣道の稽古に勤しんでいる弥太郎と宗助に「行ってまいります」と声をかける。
「今日はずいぶんと急いでいるね」
「えぇ、大切な物を探していました」
「おや、それは大変だ。見付かったの?」
「えぇ。親切な方が届けてくださいました」
その言葉に宗助の視線が美夜の髪飾りに向いた、ような気がする。
「そう。それは良かった。気をつけて」
弥太郎の言葉に軽く頭を下げると美夜は駆け出す。
喜びのあまりに、そのままふわりと空でも翔てしまいそうだった。
──────────
石倉美夜が双川宗助への礼を考えていた事実は屋根裏から見つけ出した手記を読めば分かる。
石倉美夜は双川宗助の喜ぶ物をプレゼントしようとしていたが、彼の好みのものが分からない、どうしたものかと悩んでいる様子だった。
しかし、その後の手記には『宗助さんへの感謝の意は沈黙で表す』と書かれていた。
さて、屋敷を見て回れば双川武郎が付けたであろう様々な傷が外壁や厨房、離れの内部に残されている。
彼の精神が不安定であった事が手に取るように伝わってきた。
石倉誠之助がその傷をそのままにしておいたのかは、今となっては知るよしもない。
石倉美夜の手記と同じ場所に郡司弥太郎のそれも存在していた理由は後に分かるが、双川宗助のそれはひとつも見付ける事ができなかった。
処分されたのか、そもそも存在していなかったのかも不明だ。
石倉美夜と郡司弥太郎の手記を読めば、2人が双川宗助の事を大変気にかけていたことが分かる。
彼はそれを知らなかったのだろうか。
それとも知らないふりをしていたのだろうか。
──────────
「宗助、お前!その格好!」
弥太郎は石倉家へと入る直前の宗助を呼び止めた。
「誰にやられた!」
宗助の衣服は泥や血で汚れ、破れていた。
顔にも切り傷をつけている。
「やめてよ弥太郎。俺もう子供じゃないんだ」
宗助は迷惑そうにため息を吐いた。
「馬鹿を言うな。お前はまだ12歳だぞ。子供じゃないか」
その言葉に不満げな表情を浮かべる。
「怪我なんてしていない。これは俺の血じゃないよ」
「じゃあ誰の血だ?まさか、お前!」
目を細めて宗助を睨んだ。
「誰のだっていいじゃないか」
宗助はそう言って弥太郎から逃げようとしたが「そうはいかないぞ」と肩を掴まれた。
「謝ったのか?」
宗助は反応を見せない。
「謝ったのかと聞いているんだ」
「馬鹿なのは弥太郎だ!謝るくらいならこんなことしない!」
「誰の血だ?ほら、謝りに行くぞ!」
「嫌だ!ふざけるな!あいつらが頭を下げない限り俺はあいつらに謝らない!だから俺は一生あいつらを許さない!」
宗助は怒鳴るようにそう言った。
彼がこんなにも怒りを現わすのは兄を侮辱された時だけだと弥太郎は心得ているのですぐに理解した。
「だからって暴力は駄目だ」
「違う。自分の身を守っただけだ」
弥太郎はため息をつくと「誠之助さんや美夜ちゃんが心配するだろうから、血は流して行け」と宗助を風呂にいれさせた。
宗助に柔道や剣道を教えてからもうすぐ3年が経とうとしている。
弥太郎はこの時、初めて気が付いた。
宗助は武郎を馬鹿にするやつを懲らしめるためにそれらを教えてくれと頼みこんできたのだ。
「まったく」
弥太郎はため息をついた。
風呂から出てきた宗助に茶を渡すと自分の正面に座らせた。
「暴力じゃ何も解決しない。そんな事くらい分かるだろう」
「それは腐れた性分を持つあいつらに言ってよ。こっちからは何もしていない。先に手を出したのは向こうだ」
「手を出してしまえば同じ事だ」
「7人を相手に勝ったんだ。褒めてよ」
「俺はお前に誰かを傷つけてほしいから武道を教えたつもりはない。ただただ肉体の勝利を求めるなら、俺から教える事は何もない。それらと同時に精神の強さも鍛えているつもりだったんだけどな」
悲しそうな表情の弥太郎に宗助は素直にこう言った。
「─ごめん」
弥太郎は驚いて宗助を見ると、あははと笑った。
「お前は本当に良い奴だよ」
宗助は気まずそうに俯いた。
「宗助。お前は強くて優しい奴だ。これからもずっとそうだろう。この先、きっと理不尽な事や我慢できないような出来事が沢山待ち受けている。周りの言うことに耳を傾けて腹を立てていたらきりがない。守る強さは勿論大切だが、聞き流せる強さも必要だ」
──────────
「宗助さんは弥太郎さんと一緒だと、とても楽しそうです」と美夜がそう言った時は驚いた。
それはある日の午後、習い事から帰宅している彼女に弥太郎が声をかけた時のことだ。
悲しさを隠すような健気な声だった。
「そうかな?」
「ええ。父は弥太郎さんに宗助さんの事をお願いして大正解だと言っておりました。それほどに宗助さんは弥太郎さんに心を開いているという事です。私なんか話にもなりませんわ。私は宗助さんに毛嫌いされていますもの」と寂しそうに俯く。
「そんな事はないさ」
「いいえ。そんな事あるのです。最近では父や兄とも話をする姿をみかけます。なのに、私には一言も声をかけてはくれません」
「でも、ほら。髪飾り。あいつが返してくれたんじゃないの?」
弥太郎は慰めようと何故か必死になってそう言ってみた。
「3年も前の話です。今では宗助さんだったのかも分かりません」
弥太郎は相手に聞こえないようにため息をついた。
「宗助さんは弥太郎さんの事が好きなのですよ」
「信頼はしてもらえているとは思うけど」
「それとは別に」と美夜は一度声をつまらせたあと、ゆっくり口を開いた。
話すことを躊躇うかのような間合いだ。
「どうしたの?」
「愛とか恋とかそういう事です」
美夜のその言葉に弥太郎は「へ?」と間抜けな声を出す。
戸惑ったが、次の瞬間には大きな声をあげて笑った。
「美夜ちゃんの発想はおもしろいね。愛とか恋ね」
しかし、彼女が深刻な表情を変えないので弥太郎は笑うのをやめた。
「美夜ちゃんは、宗助に恋をしているんだね?」
美夜は「分かりません」と小さく返事をした。
「話をしてもらえない不安が大きくなって、意識をしてしまっているのだと思います。だって私にはもう─」と言葉を止める。
目の前に宗助の姿が見えたのだ。
彼はこちらをちらりと見ただけで足早に去って行った。
「あいつは礼儀知らずだ」と弥太郎が腕を組んだ。
「ごめん。話の途中だったよね」
「大丈夫です。たいしたことではないので」
「あいつにはちゃんと言っておくから」
「気にしないでください。私、少し気がどうかしていました」
また無理に笑顔をつくった。
美夜を家の前まで送り届けると、玄関に藤一の姿があった。
「よう」と手を挙げて弥太郎に挨拶をすると、美夜は「ありがとうございました」と頭を下げて家に入って行った。
「なんだあいつは」
藤一は美夜が消えた先を見て肩をすくめるとそういった。
「弥太郎。今晩、食事に来ないか?」
「男手が留守なのか?」
「いいや。俺はいる。両親が出かけるんだよ」
「構わないが」
「よし、決まりだ」
藤一はそう言って手を鳴らした。
その晩、弥太郎は食事をご馳走になるため、石倉家の食卓にいた。
そこには藤一と美夜しかいなかった。
「相も変わらず、武郎さんと宗助は離れで過ごしているようだな」と弥太郎が言ったちょうどその時、調理場に繋がる扉から宗助が大きな盆を手に現れた。
「宗助。今晩は弥太郎がいるぞ。たまにはここで一緒に食べないか?」
藤一の誘いに、宗助は首を横に振って断ると、そのまま出て行った。
「そう言えば、武郎さんがひとりで食べる事になるから可哀相だと言っていたことがあったな」と弥太郎は呟いた。
ちらりと美夜を見れば、俯いている。
弥太郎は先程の美夜の言葉を思い出して苦笑いをした。
食事の間は他愛ない会話を楽しんだ。
特に藤一は相変わらず陽気だった。
「そうだ、弥太郎。明日、美夜の14度目の誕生日なんだ。祝いの会を開くんだが、来てはくれないかな?」
その誘いなら2週間ほど前に本人から受けたが、返事をするのを忘れていた。
贈り物もしっかりと用意している。
「あぁ、もちろんさ」と弥太郎がこたえると、美夜は笑顔を見せた。
和やかな夕食を終らせ、食堂を出ると、藤一と美夜が玄関まで見送ってくれた。
「明日、宗助はどうするの?」と弥太郎は美夜に聞いた。
「誕生日会を開くとはお話はさせていただきました。出席していただけるのかは分かりません」
「返事をしていないことは俺が何か言える立場ではないね」と弥太郎が笑う。
「私は弥太郎さんに来ていただけると聞いて、とても嬉しかったです。男性は弥太郎さんと兄の2人だけなのですが」
「そうさ。弥太郎が来れないと言おうものなら、引きずってでも参加させるつもりだったんだぜ」
弥太郎は2人に別れを告げ家に帰った。
翌日の15時頃に会は始まった。
友人達がそれぞれの工夫を凝らした贈り物を渡すと、美夜は大層喜んだ。
それを見た弥太郎も嬉しくなる。
宗助の姿がそこにはない事を気にかけまいとしている美夜の健気な姿を見ていると時折悲しくなるが。
「おい。やはり俺達は場違いな気がしなくもないな」と藤一が弥太郎の脇腹を肘で押した。
「暇をするか?」
「それはいけないだろう。それにだ、まだ俺は贈り物をしていない」
弥太郎のその言葉に藤一が目をしばたたいた。
「贈り物を持ってきてくれたのか?それは良い。美夜が喜ぶぞ」
「たいした物ではない」
弥太郎はそう言ったが、数ヶ月というかなりの時間をかけて選んだ。
といっても、外国へ留学中の恋人に会いに行った姉に、異国の特色が濃い物をなどと他にも細かく指示をして買ってきてもらったのだが。
3つの候補があり、弥太郎はその中から美夜が喜びそうな物を選んだ。
「素敵だわ!」「なんて美しい!」「綺麗ねぇ」の歓声を耳にすると、安心した。
「弥太郎さん!本当に素敵です!」
美夜の両手に行儀よく乗っている木製の宝石箱は蓋を開ければかわいらしい音楽が流れる。
蓋の裏には小さな鏡がはめ込まれ、そこには流れるような白い線で蝶が刻みこまれている。
外観は質素だが、蓋を開けた時との違いが一段と目を引く。
会は盛り上がり、20時に終了した。
誠之助は仕事で数日家を空けているので、美夜の友人達は使用人が車で送り届けた。
「とても良い誕生会だった」と藤一が言った。
「そうだね。楽しかったよ」
「お客様に楽しんでいただけると、私も良い気持ちです」と美夜。
とうとう宗助は顔を出さなかった。
さて帰ろうと席を立ち、最後に美夜に「本当におめでとう」と告げて石倉家を出た。
立ち止まり、夜空を見上げれば月がこちらを照らしている。
地面を見れば影がくっきり落ちるほどの輝きだ。
「美しい夜だ」
弥太郎は歩き出した。
すると郡司家の玄関の前に人影のあるのに気が付いた。
「宗助か?」
人影は弥太郎に気が付くとこちらに走り寄ってきた。
やはり宗助だった。
「美夜ちゃんの誕生日会だったというのに、どこへ行っていたんだ?」
「そんなことはどうでもいいんだ!」
宗助は焦っている様子だった。
心配してくれている人の祝いの日を「そんなこと」というのはどうかと問いたくなったが、事情を聞いた弥太郎はその言葉を飲み込んだ。
「兄ちゃんを見てない?」
宗助は射るように弥太郎を見た。
彼は視線と同じように力強く弥太郎の両腕を掴む。
ただ事ではない。とそう思った。
宗助の様子が尋常ではなかったのだ。
「どうした?」
「兄ちゃんがいない。どこにも、いない」
武郎を探して回ったのか、額に汗をかいた宗助は肩を上下させていた。
「お前は大丈夫か?」
「俺なんて気にしないで、兄ちゃんを!」
「家から出ないのではないのか?いつからいないのか分かるか?」
「夜になるとたまに外に出る。ただ、近所を少し歩くだけだからすぐに帰るんだ。なのに、2時間しても戻らないんだ」
宗助は辺りに立つ電柱や木を見て舌打ちをする。
「2時間?」
「いつもなら30分程で帰ってくる。─何か、あったんだよ」
宗助は落ち着きなく指先を動かした。
「武郎さんの行きそうな場所に心当たりは?」
「ない」と首を振る。
「お前は休んでいろ。俺が見てくる」
「俺も行く。兄ちゃんは辛うじて俺の言う事なら聞いてくれる」
「分かった」と2人はとりあえず走り出した。
美夜は自室に戻り、弥太郎からもらった宝石箱を静かに机に置いた。
皆が祝ってくれて嬉しかった。
しかし、ある人物が欠けていた。
「宗助さん」
美夜は彼の名前を吐息にまぜた。
皆も同じくらい大切だが、彼がいてほしいと願うのはなぜだろう?
無口で無愛想な宗助は全てを敵視している。
人間なんて嫌いだ。
信頼なんてしない。
自分もその内のひとりなのだと思うと悲しみにのまれる。
「美夜ちゃんは宗助に恋をしているんだね?」と弥太郎に言われた時、苦しくなった。
なぜだろう?
心に何だか靄がかかったように感じた。
美夜は窓辺に立って夜空を見る。
なぜにこうも人の心は掴み所がないのだろうか。
自らの心だって。
その時、郡司家の玄関先に2つのかげが見えた。
その姿は弥太郎と宗助に間違いはなかった。
立ち止まった弥太郎に駆け寄る宗助。
何かを話している様子だ。
すると宗助が弥太郎の腕を掴んだ。
窓を開けてみたが、声までは聞こえてこない。
2人はしばらくそのまま何かを話しているようだった。
そして弥太郎が宗助の脇を通り抜けようとした。
しかし、宗助がそれを止めたのか、弥太郎が立ち止まる。
そして、弥太郎が宗助の腕を掴むと、2人は暗い闇へと消えて行った。
今のは一体何事だろうか?
気になった美夜は部屋を出て隣の兄の部屋を叩いた。
「どうした?」と顔を扉から覗かせた藤一は本を片手にしていた。
今の騒ぎは知らない様子であったので「本を借りたい」と適当に言って、何冊か持たされると部屋に戻った。
しかし、何も読む気にはなれない。
こんな時刻に2人は何処へ向かったのだろう?
今まで宗助は一体何をしていたのだろう?
美夜は再び夜の闇にのまれた郡司家を見た。
静寂に包まれたそこには誰もいなかった。
2人は河原や学校など遠くまで散々走り回ったが武郎の姿はどこにも見えなかった。
家に戻っているかもしれない、と一旦帰る事にするが、その道中、一言も話はしなかった。
石倉家に着いたのは、日付が変わる少し前で、2人とも草臥れていた。
どうせいないだろうと予想していた弥太郎は離れの電気をつけて驚いた。
武郎がこちらに背を向けて布団を被っているのだ。
「兄ちゃん」
安心した宗助がそっと武郎の元へ歩きだしたその時、掌に違和感が走った。
なんだと思い、何気に自分の掌を見て驚く。
赤く、そしてぬめぬめしているのだ。
それとほぼ同時に宗助の叫び声が耳を貫いた。
「兄ちゃん!」
弥太郎は宗助を押し退けて武郎を仰向けた。
口や鼻や目など、いたる所に傷を作った武郎の顔は血だらけで体には殴られたような痣もあり、とても痛々しい。
弥太郎は呼吸を確認した。
「大丈夫だ。眠っている。しかし、一体どうしたというんだ」
何事も無かったかのように、気持ち良さそうに寝息をたてている武郎を見つめる宗助。
重傷ではなさそうだ。
武郎を見る宗助の目は震えていた。
その姿は怒りに満ちている。
「足を滑らせて河原の傾斜でも転げ落ちたのだろう」
弥太郎はそう言った。
「本当にそう思う?」
宗助は武郎を見つめたままだ。
弥太郎は「─いいや」と前言を撤回する。
転げ落ちただけではこんなにはならない。
明らかに人の手による怪我だ。
宗助の顔色は青白く、両の拳は震えていた。
彼の考えている事はすぐに分かった。
「復讐なんてするもんじゃない」
その言葉に宗助は武郎から視線を外す。
「兄ちゃんは悪い人間じゃない。だって、ほら」と壁に飾られた光り輝く様々な置物を指差した。
そこにはたくさんの硝子の破片を繋ぎ合わせて作られた花瓶であったり、置物がずらりと並んでいた。
この殺風景な世界に唯一の暖かみをもたらしてくれる。
様々な色合いの硝子が綺麗な彩りを見せていた。
「こんなにも綺麗な物を作り出せる人間に、悪い人はいないんだ」
宗助が蝋燭に火をつけ、それを硝子の瓶の中にいれて小屋の電気を消すと、それぞれの硝子が光を受け、色をもった光が壁に投影される。
目映い暖かな色彩が何とも幻想的で言葉がでない。
その煌めく輝きに圧倒され、息をのんだ。
「そうでしょ?」と宗助は弥太郎を見た。
その刹那。
誰にも理解してもらえないという悲しみが目に宿されていた。
その時「宗助さん?」と女性の声が聞こえてきた。
美夜であることは確かだ。
弥太郎は小屋の電気をつけて扉を開けた。
「どうしたの、こんな時刻に」と弥太郎がこたえる。
「宗助さんの声が聞こえた気がしたので」
美夜はちらちらと宗助を気にしながら言う。
彼は不満げに美夜が入ってきた扉を睨んでいる。
「一人で来たの?藤一は?」
「寝ているようです。呼び掛けても反応がありませんでした」と美夜は言葉を詰まらせた。
また下手な事を言って相手を怒らせたりしないか怖くなったのだ。
俯く美夜に弥太郎は小声で話し掛ける。
「宗助は大丈夫だよ」
「よかった」と安堵する美夜。
「心配かけているんだから美夜ちゃんに「すみません」ぐらい言えないのか?」
2人の視線が宗助に注がれる。
「俺は心配なんてしてほしくない。心配するなら勝手にしていればいい」
「おい、宗助。そんな言い方はないだろう」
「いいんです。武郎さんは?」
美夜は笑顔で聞いた。
「眠っているよ」
「そうですか。綺麗な物ばかりですね。──それでは、おやすみなさい」と美夜は室内を見渡し、それ以上何も聞かずにその場を後にした。
「おい。──今の態度は何だ?」
弥太郎は宗助を睨んだ。
「あれが世話になっている人への礼儀か?」
「取り繕うように兄ちゃんの心配して、それが気に入らない」
宗助は美夜が出て行った扉を睨んだ。
まるで、まだそこに憎い人物がいるかのように。
「何が大丈夫ですか?だよ」
「お前の事が心配なんだ」
「それが余計なお世話なんだ。放っておいてくれよ」
宗助の言葉に弥太郎は眉を下げた。
「俺の事もそう思っているのか?」
「違う。そうではない」
「お前の態度はあの夜、武郎さんが暴れた日から変わった。お前は美夜ちゃんの事を誤解しているんだ」
「そんなことはない。あの人の表情が物語っていた。俺が言ったことは図星だったのさ」
「話をすれば分かる」
「無理だ。さぁ、兄ちゃんが起きてしまうから、もうそろそろ出て行ってよ」
「宗助」
「付き合ってくれてありがとう」
これ以上話をしても悪くなるだけだと、弥太郎は諦めて小屋を出ようとした。
「俺は弥太郎が羨ましい」
背後で確かにそう聞こえてきた。
弥太郎は一瞬振り返ったが、お互い何も言わなかった。
美夜は小屋を出てすぐに確信した。
─私は嫌われている。
いや、嫌われているならまだましだ。
忌み嫌われ、疎ましがられているのだ。
これまでは、僅かな希望に縋り付いていた。
だが、もうそんなことは無駄なのだと思った。
そう思うと急に涙が溢れてきた。
胸が苦しくて、息をする度にきりきりと痛む。
頭の先や鼻先がつんとして、体中のいたる所から自分を苦しめるために、野蛮な何かが侵入してきている気がしてならなかった。
そんな何かから隠れるようにして小さく屈むと、土のにおいが鼻に届いた。
しかし、美夜は何かに突き動かされるように立ち上がった。
そして、決意が揺らがないうちに部屋に戻って机に向かった。
自分の中にある感情を紙に映し、答えを求める。
望むような返事は得られないと思っていたが、少しの期待はしていた。
あの髪飾りは宗助の好意だと信じている。
しかし、その気持ちを一瞬でも疑ってしまった自分が情けなかった。
髪飾りを返してくれた宗助の気持ちを信じよう。
そのためには、答えが必要なのだ。
何もない所で誰かを信じるには縋るものがほしい。
形になっているものでなくていい。
髪飾りが唯一の望みだったが、それも消えかけていた。
それが再び消えないようにするためには、宗助の気持ちが必要だった。
これは恋愛関係の話ではない。
ただ一人の人間として頼ってほしい、宗助の正直な気持ちをぶつけてほしいのだ。
美夜は気持ちを手紙に預けた。
目を合わせてくれないのだから、話もまともに聞いてくれないのはわかりきった事だ。
翌日、宗助が出かけて行き、戻る頃合いを見計らって、小屋の扉にそれを貼り付けた。
そして、息を潜めて窓から覗いていた。
昼前に宗助が帰宅した。
鼓動が早くなる。
扉に貼付けられた封筒を剥がして、差出人と宛名を探している様子だ。
差出人には名前を書かず、ただ、双川宗助様とだけにした。
辺りを訝しそうに見た宗助はそれを折り畳み、ポケットに入れて小屋の扉を開けると、読まずに入って行ってしまった。
その場で読んでもらえると思っていたので少し落胆したが、捨てないでくれただけ良かったと思うことにした。
夕食の時、食事を取りに行く宗助と廊下で出くわしたが、相手は何も反応を見せずに、食堂を通過して調理場へ入って行った。
読んでもらえたのだろうか、という悶々とした思いを胸に仕舞い、何気ない風に装った。
食器を返しに来た時も、宗助はいつもと変わらなかった。
あれは読んだのだろうか?それともまだ読めていないのだろうか?
読んだのだとすれば、どう思ったのかが知りたかった。
返事は期待してはいないと言ってもやはり、気になってしまうのが空しい。
「どうした?なんだか落ち着かない様子だな」と藤一が言う美夜は「何もないわよ」とだけ答えた。
その日は遅くまで起きていたが、何もなかった。
宗助が返事を書いて、扉の隙間から滑り込ませてくれはしないか、窓硝子に小石をぶつけて合図を送ってくれはしないかなどと夢を描いているうちに眠りについた。
翌朝、扉の近くには何も落ちてはいなかったし、窓には傷ひとつついていなかった。
念のために扉に何かが貼り付けられてはいないかも見たが、何もなかった。
差出人が不明なのだから、返事はなくて当然なのかもしれない。
いや、書面には名前を書いたのだから、読んでいればすぐに分かるはずだ。
差出人が美夜であることを知るのは難しい事ではない。
─ただ、返事が来ないだけ。
単純なことである。
翌日も、その翌日も返事は来なかった。
期待しているということは、僅かしかない可能性を信じているから。
確信があれば期待などしない。
ますます落ち込んだ美夜は弥太郎からの贈り物である宝石箱を開けた。
その箱から悲しく美しい旋律が聞こえてくる。
これはバッハの小フーガだと弥太郎が教えてくれた。
フーガとは複数の旋律がそれぞれの特徴を保ちつつ、お互いに複雑に重ね合うという技法らしい。
美夜はこの物悲しく物憂げな曲が大好きだった。
手紙を書いて2週間ほど経ったある日のこと、習い事の帰りに弥太郎と出くわした。
あの宝石箱を使っていると伝えると、嬉しそうに笑ってくれたので、心が晴れるような気がした。
「それは良かった。気に入ってもらえるか心配だったんだよ。それはそうと─」と弥太郎はこめかみの辺りを、人差し指でかいた。
「最近は宗助とどうなの?」
美夜は「あぁ」とため息をもらした。
「変わった様子はありません」
弥太郎は「そう」と言うと立ち止まった。
「俺からこんな事を言うのは間違っているとは思っているんだけど、宗助から言付けがあるんだ」
その言葉に思わぬ大きな声で反応してしまった。
「何です?」
「読んだそうだよ。美夜ちゃんからの手紙」
美夜は「やっぱり」と俯く。
「宗助さんは何と?」
聞きたいような、聞きたくないような、不思議な感情だ。
「まぁ、そうだな。歩きながら話をしようか?」と弥太郎は首を傾げた。
弥太郎が宗助から話を聞いたのは10日ほど前の話だった。
剣道の稽古後に話したい事があるから少し散歩でもしようと、珍しく誘ってきたのだ。
宗助は美夜からの手紙を「読んでみて」と弥太郎に渡した。
しかし、弥太郎は断った。
「読む気はない」
「なぜ?」
「それは、美夜ちゃんがお前に宛てた手紙だ。俺に宛てたのではない」
「いいじゃないか、そんなこと。読んでよ」と腕に押し付けてくる。
「読む気はないと言っただろ?」
宗助は口を尖らせてポケットに戻した。
「じゃあ聞いてくれる?」
「何を」
「あの人からの手紙の内容」
2人は人気のない公園を歩いていた。
先を歩く弥太郎の数歩後ろから宗助がついて歩いている。
弥太郎が不意に立ち止まったので、棕助はその背中で顔を打った。
「お前は美夜ちゃんの事をどう思っている?」
弥太郎は振り返って宗助と向き合う。
「お前の態度はあまりにも酷い。お前の言動で美夜ちゃんは傷ついている。彼女が話をしようとしてもお前は取り合わない。何が気にいらない?」
宗助は再び手紙を手に持つとそれを破った。
「俺はこんなものはいらないんだ。迷惑なんだ。あの人にもうこんな事はやめてくれと伝えてほしい」
「理由になってない。なぜ、迷惑なんだ?ちゃんとした理由を聞かないと彼女も納得しないだろうよ。もっとも、直接話をするのが一番なんだがな」
弥太郎は黙ったままの宗助を睨んだ。
宗助はゆっくりと口を開く。
「あの人は俺達を馬鹿にしているんだ」
その言葉に弥太郎は呆れ返り、両手を大きく広げた。
「何を言っているんだ。まったく!彼女がどれほどお前たちの事を気にかけているか!」
しかし、宗助は譲らなかった。
「そんなの上辺だけだ!」
「なに?」
「俺は知っているんだ!女ってのは酷い生き物なんだ。自分が気に入ったものばかりに目がいって、その他は知らん顔をする。汚いものは知ろうともせずに毛嫌いする!優しさで近づいてきたと思ったら、からかわれるだけだ。笑われるだけだ!かげでひそひそとずるい連中なんだ。くすくすと耳障りな笑い声をあげるんだ」
宗助は息を荒げてそう言った。
「お前がこれまでにどんな事を経験してきたかは俺には理解してやれないかもしれない。だが、俺とお前の性格が違うように、人はそれぞれ違っている。嫌な連中の嫌な部分が誰にでもあるわけではない」
「分かっているさ」
「分かっているなら─」と言ったところで宗助が首を振った。
「迷惑だと伝えてほしい」
「自分で言え」
宗助は目を潤ませると、呟くように言った。
「頼むよ」
「お前はなぜ、俺が羨ましいんだ?」
宗助は柳眉を下げた。
「以前お前は俺にそう言った」
「そんな事は言っていない」
弥太郎は小さなため息を吐くと、再び歩きだした。
しばらく無言のまま2人で歩いていると、背後から宗助の小さな声が聞こえた。
「俺だって」
そう言ったきり言葉を繋がなかった。
憂いに満ちた宗助の言葉に真意は見出だすことができず「分かった。伝えておくよ」としか返事ができなかった。
それから、弥太郎は美夜に打ち明けるのを何度か躊躇っていた。
美夜は日を追う毎に落ち込みが増しているように見えてくる。
弥太郎は重い腰を上げたというわけだった。
弥太郎は自分は情けない男だと感じた。
宗助の気持ちを理解する事が出来なかった上に、中途半端に美夜を傷つけた。
謝ることすら躊躇われる。
気が付けば、その時に宗助と歩いていた公園まで来ていた。
「ありがとうございます」
美夜はそう言った。
「弥太郎さんには迷惑ばかりかけていますよね」
「そんの事はないよ」
「私、やってみます」
思わぬ言葉に弥太郎は驚いた。
「何を?」
「弥太郎さんにも協力していただければ嬉しいのですが」
美夜は上目で相手を見た。
「俺にできる事ならやらせてもらうけど」
その言葉に美夜は嬉そうに微笑む。
「あの2人の写真を撮ろうと思います」
「写真?」
「はい。以前にもお二人の写真は撮らせていただいた事はあるのですよ。お二人が石倉の家に来てしばらくしてから─」と美夜は青い空を見た。
宗助が9歳、武郎が12歳の時に2人は石倉家に来た。
少し入院した後に住み始めた2人は、周りを警戒しながらも、徐々に石倉家で過ごすことに慣れていった。
そんな中、写真を撮ろうと提案したのは誠之助であった。
言われるがままにされた2人は、緊張が解けきらない中、写真機を睨むようにして見ていた。
「そんなに緊張しなくてもいいんだよ」と誠之助が言っても、2人は強張ったままだった。
何枚か撮影したうちの1枚を美夜は貰った。
それは今でも保存しているという。
「あれからもうすぐ6年が経ちます。いろいろな事がありました」
そう言った美夜はふっと笑った。
その笑みは美しく、口元に大人の色を見た弥太郎は、己の鼓動が高ぶった事に気付かずにはいられなかった。
その時の事なら弥太郎にも記憶はあった。
見知らぬ者に囲まれて立ち尽くす兄弟。
不安と戸惑いの表情ではあったが、微笑ましい兄弟の絆を繋がれた手に見れた。
武郎は宗助の手をしっかりと握り、弟を落ち着かせようとしていたのだ。
「お二人の強張った表情。今でも思い出すことが出来ます」
美夜は頬を緩めた。
弥太郎はそれに見惚れてしまう。
美夜は美しく育った。
「そうだね、よく覚えているよ」
弥太郎はそう返事をした。
その時から美夜は美しかった。
その姿もよく覚えている。
「周りの全てに恐怖を感じていた2人が信頼できるのはお互いの存在だけだった。武郎さんは宗助を守り、宗助は武郎さんを守った。その思いは今でも変わっていない」
2人にしか分からない世界に足を踏み入れることは難しい。
理解するのは困難だ。
その世界に入り込んで来た者は単なる侵入者だ。
拒絶されて当然の存在なのかもしれない。
それをやってみようとした美夜は素直で優しい。
それが宗助にとっては煩わしいのだろう。
弥太郎は切なくなって美夜から目を逸らした。
宗助、美夜、そして自分の気持ちが上手く噛み合わない。
「写真、良い考えだね」
弥太郎のその言葉に美夜が微笑む。
宗助を説得するには大層時間がかかると思っていたが、あっさりと了解を得た。
あまりにも呆気なかったので弥太郎は「本当に良いのか?」と聞いてしまった。
「変なこと言わないでよ。自分から聞いてきたくせに」
「断られると思っていたものだから」
「写真くらいどうってことないさ。兄ちゃんだって大丈夫だよ。もっとも、何にも考えていないだろうけど」と宗助は自分の首筋を撫でた。
「そうか、美夜ちゃんも喜ぶよ」
その言葉に宗助は唇の端を上げた。
弥太郎にはそれが微笑んでいるように見えた。
「あの人が喜ぶと弥太郎も嬉しいのか?」
「お?」とおかしな反応をしてしまう。
「弥太郎はあの人の事が好きなのか?」
「いきなり、何を言い出すんだ─」
その時、弥太郎は美夜の言葉を思い出した。
『宗助さんは弥太郎さんの事が好きなんですよ─』
『そうではなくて、愛とか恋とか─』
美夜の思い過ごしとしか考えていなかった。
なぜ今その言葉を思い出すのだろうか。
そして、なぜ宗助に「そんなことはない」と言ってしまったのだろう。
写真は翌日に撮られた。
宗助が快く承諾してくれたというものの、美夜への態度は相変わらず冷めていた。
弥太郎はその様子を遠巻きで見ることにする。
久しぶりに見た武郎は、背が伸びていた。
武郎は弟よりも無愛想でつまらなさそうに煙草を吹かしていたが、凛々しい顔立ちは何処と無く兄弟似ている。
庭にある大きな石に腰をかけた2人の写真を撮った。
すると宗助が「もう1枚お願いします」と誠之助に言った。
自分でも持っておきたいのだと言う。
写真撮影が終わると、そのまま庭で食事をする事になったが、武郎は写真撮影が終わると、そそくさと門を抜けて外出した。
宗助が弥太郎に近づく。
「あれでも兄ちゃん頑張った方だよ」となんだか嬉しそうだった。
その時、藤一が2人を呼んだので、彼のもとへ行った。
「武郎さんは出掛けた。どうせ小屋へ行っても宗助1人なら、ここで一緒に食事をしようじゃないか。なぁ、弥太郎?」と藤一が同意を求めた。
「弥太郎も一緒だぞ?」と藤一は続ける。
そして、宗助は小さく頷いた。
その頷いた姿を見た美夜は飛び上がりたくなるのを堪えた。
やっと宗助と同じ食卓につくことができるこの時を待っていたのだ。
宗助は美夜と弥太郎に挟まれるようにして席に着いた。
周りが色々と話をしている中、無言で食べ続けている宗助に美夜は思い切って話かけた。
「美味しいですね」
その言葉に宗助は小さく頷いた。
「外で食べるとまた違いますね」
その言葉には反応が無かった。
「好きな食べ物は何ですか?」
その言葉にも反応はない。
「では、嫌いな物は?」
やはり、反応はない。
「皆で食べると美味しいな」と美夜は呟いたきり話し掛けることはしなかった。
しかし、美夜は落ち込みはしなかった。
宗助が皆と食事の席に着いてくれたことが嬉しくて、他に何も考える事ができなかった美夜は気が付いていなかった。
宗助がなぜ周りから距離を置こうとするのか、なぜ美夜に対してあんなに冷めた態度なのか。
そして、宗助は知っていた。
このまま行けば自分がどうなるのか、周りがどうなるのか。
何も分かっていなかったのは弥太郎も同じであったが、この先の不安だけは感じとり、それは宗助より大きいものであった。
宗助が15歳、美夜が16歳、弥太郎が17歳、藤一と武郎が18歳。
それぞれが大きくなり、未来への想像を膨らませるようになったのもこの時期からだった。
──────────
ある冬の日。
出掛けていた弥太郎を玄関先で迎えたのは意外な人物だった。
外灯に照らされた不気味な立ち姿。
その顔には過去に負ったであろう傷跡が蚯蚓腫れになってみられる。
「やぁ、郡司」
暢気に手を挙げて挨拶するのは誰でもない武郎だった。
弥太郎の驚いた表情を見た武郎は気味の悪い笑い声をあげた。
「そんなに驚くなよ。俺だって外出くらいするさ」
「どうしたんです?こんな時刻に」
もうとっぷりと日が暮れている。
「塩を借りようかと思ってね」と武郎。
弥太郎は左の眉を上げた。
「いやいや、冗談だ」と再び笑い声をあげる。
「世間話でもしようかと思ってね」と武郎は自分の指先を見た。
何が気になったのか、眉間に皺を寄せている。
「まぁ、それも冗談なんだが」と弥太郎を見た。
「俺の弟を隠したか?」
武郎の恐ろしい視線に背筋に氷水を流されたかのような感覚をおぼえた。
睨むのではなく、冷たくて軽蔑を感じさせる目の色だった。
弥太郎には質問の意味が解らなかった。
「隠す?」
「おいおい。とぼけるなよ。俺の大切な弟だぜ?返してくれなきゃ困るよ」
「俺は何も知りません」
その言葉に武郎は相手の襟を掴み、引き寄せた。
「お前のではない。俺の弟だ」
武郎の力は恐ろしく強かった。
「それは承知しています」
「俺を馬鹿にしているな?」
武郎の目は充血している。
「今日は宗助を見掛けてはいません」
弥太郎のその言葉に武郎は喉の奥でくつくつと笑っていた。
そして「だろうな」と手を離すと「悪かったな」と言ってその場を去ろうとした。
その背中に声をかける。
「いつからいないのです?」
武郎は立ち止まって振り返った。
「夕食の食器を返しに行くのに2時間もかかるまい」と言って不気味に笑った。
「何処を捜しましたか?」
弥太郎の言葉に「あ?」と返す。
「今まで捜されいたのではないのですか?」
「何を?」と首を傾ける。
「何を?って。宗助ですよ。宗助を捜されているのでしょう?」
「あ?あぁ、宗助か。捜してはいない。いずれ戻るさ」
そう言って武郎は石倉家へと入って行った。
「何なんだ、あの人は」
弥太郎は溜め息をついた。
武郎の背中が見えなくなり、宗助を捜しに出ようとしたその時、目の前を話題の人物が通り過ぎた。
「宗助」
その呼びかけに振り返る。
「弥太郎か。いたの。そんな所で何しているんだ?」
そのあっけらかんとした態度に、先程の武郎の事を伝える。
「兄ちゃんには出掛けるとは言っていたんだけどな」と呟いた。
「こんな事はよくあるのか?」
「よくはない。ときには俺だって夜の散歩くらいするさ」と宗助。
「そうではなくて、武郎さんだ。誰かの言った事を覚えていなかったりはするのか?」
「いいや」と宗助は頭を降る。
「支離滅裂なことは言わないか?」
「そんな事は今更聞くまでもないだろう?」と言う。
暗がりから覗く宗助の表情はよくわからなかった。
「兄ちゃんが心配しているようだから戻るよ」
その言葉に弥太郎が頷くと白い息を残して去って行った。
3日後の朝、美夜が郡司家の玄関を乱暴に叩いた。
武郎が暴れて以来の出来事なので、弥太郎は一瞬ひやりとした。
「どうしたの?」
「宗助さんがお怪我を!たいしたことないとはおっしゃっていますが、お兄様が弥太郎さんを呼んでこいと」
弥太郎は眉を歪ませると石倉家にある小屋へ駆け込んだ。
そこには面倒臭そうに眉根を寄せた宗助が額から血を流し、壁にもたれて座っていた。
「たいしたことないって言ったのに」
扉の近くで腕を組んだ藤一が弥太郎に囁く。
「実際、怪我はたいしたことはないだろう」と言ったが、その表情は歪んでいる。
血を見るのが苦手なのである。
「何があったんだ?」
「分からないからお前を呼んだ。食事を取りに来ないものだから部屋を覗いてみたんだよ。そしたらこうなっていた。武郎さんの行方は分からない」と藤一が室内を顎でしゃくった。
「兄ちゃんではない。心配するような事は何にもないよ」と宗助。
弥太郎が宗助の側にしゃがみ込む。
「何にもないのに、そんなに血だらけになるものなのか?」と傷口に触れる。
「痛いな、何するんだよ」と顔をしかめる。
「何があったんだ?転んだだけでそうなりはしないよな?」
藤一は美夜を連れて部屋から出て行った。
「兄ちゃんではない」
「武郎さんはどこに?」
宗助はゆるゆると頭を振った。
「硝子を集めに河原にでも行ったんじゃないかな?」と小さな声で言う。
「武郎さんでないのなら、お前のその怪我はなんだ?」
宗助は静かに俯く。
「どこで負った?」
「うるさいな」
「なんだ?」
「うるさいんだよ。朝からどうかしてる」
宗助の言葉に眉をひそめる。
「朝から血を流している方がどうかしている。俺達はお前が心配なんだ」
「もういいじゃないか。心配なんかしてくれなくてもいいんだ!前にも言っただろ?迷惑なんだ!」
宗助は目を合わせずに怒鳴った。
「俺の事など気にしないほうがお前たちも楽なんだからな!どうせそれが本心なんだろ!俺達のことなんか、目の上の瘤としか思っていないんだろ?」
その言葉に弥太郎は宗助の頬を殴る。
「俺の目を見てそう言え。どんな面でそんな事を言うのか見てやるよ。さぁ!しっかりと俺の目を見て言え!」
宗助は立ち上がった。
弥太郎も同じように立ち上がる。
「迷惑だ」とぽつりと言う。
宗助の下瞼が痙攣している。
「迷惑なんだよ、弥太郎。もう構わないで」
弥太郎は宗助の襟を掴んだ。
睨み合う。
胸が熱くなり、苦しくなる。
襟を掴む手が震える。
こんなに─
こんなにお前を─
「それがお前の本心か?」
やっと出た言葉がそれだった。
「俺の事を心配しているってなら、構わないでくれ」
弥太郎は言葉に詰まった。
ただただ、悲しかった。
なぜ─
襟から手を離すと、宗助がよろめいて壁に当たる。
お互い言葉は交わさずにしばらく時間が経ち、弥太郎は静かに部屋を出た。
「おい、弥太郎。大丈夫か?怒鳴り声が聞こえたが何があった?」
藤一が肩を優しくたたく。
美夜は心配そうに2人の後をついて歩いた。
弥太郎の様子がおかしい。
あんなに気丈で優しい彼がこのように気落ちしていることに美夜は驚き、身を反すと自制する間もなく、足速に宗助のもとへ向かった。
「失礼します」
そう言って、返事を待たずに扉を開けた。
そこには先程と同じように壁にもたれて座る宗助がいた。
宗助は驚いて美夜に顔を向ける。
「返事も聞かずに押し入るとは!無礼な女め!」
声を荒げて立ち上がった。
「無礼なのはあなたです!親身になっている弥太郎さんをあのような姿にしてしまうだなんて!どれほどあなたを気にかけているのか、ご存知ないわけではないでしょう!」
「人の住家に押し入って大声をだすなんて、無恥の極みだ」
「なにを─」
美夜は声をつまらせる。
「出て行け!」
「あなたはなにを恐れていらっしゃるのです!」
美夜は声を荒げた。
「なにを─」
今度は宗助が言葉を詰まらせた。
「いったい何に恐れているの?」
美夜の声は先程とは変わって優しく柔らかかった。
春の風が頬を撫でるように、暖かかった。
「─恐れる?俺が──何を─」
美夜の眼差しに怯む。
「私達はあなたを大事に思っています」
「大事に─」
「ええ」と美夜は頷くと宗助が少し笑った。
それは人を蔑むような笑いだった。
「戯れ事をぬかすな。たぶらかすなら他の男にしてくれ。生憎、俺はそんな言葉には─」
その言葉を遮ったのは美夜の平手打ちだった。
宗助の頬を打ったのだ。
美夜は俯いたままだった。
久しぶりに交わす会話がこれだなんて──
「何をする」
声変わりを終えた宗助の低い声が腹に響く。
「私たちは─」
─なぜ
宗助を見る。
「あなたを─」
─私たちの
宗助がこちらを睨んでいる。
「大切に─」
─心は
宗助の肩を引き寄せる。
「思っています」
─通わないのです?
美夜は優しく宗助を抱きしめた。
「な─何をする!」
その時だった。
「おうおうおう。お邪魔かな?」
扉にもたれ掛かっている武郎が、こちらを見て気持ち悪い笑みをうかべている。
美夜は宗助を離した。
─いつの間に?
「私の弟に何をしていた?」
猫撫で声で武郎が言う。
美夜の身の毛は逆立ったようになり、全身が緊張した。
この前、写真撮影をした時とは別人の態度に困惑する。
「ここで何をしている?─え?」
だんだんと鋭くなる口調が恐ろしく、言葉を発しようとも上手くいかない。
喉の奥で引っ掛かって、ただ心臓の音が耳障りなほどに聞こえてくるだけだ。
「おい。言葉を無くしたか?」
武郎は徐々にこちらに近付いてくる。
「俺の─弟だ。弟なんだ」
そんなことは分かっている。
「奪う気か?え?」
─そんなことは
「宗助の事を奪いに来たのだろ!束になって俺から離そうとしてんだろう!」
武郎の視線が痛くて怖かった。
武郎の目は血走って赤くなり、涙を溜めているように見えた。
「兄ちゃん!」
宗助が庇うように美夜の前に立つ。
「俺はどこにも行かない」
彼の声は優しかった。
「嘘だ!」
武郎の声は駄々をこねる子供のそれにしか聞こえない。
「嘘じゃない」
「お前はこの女と組んで、俺の事を陥れるんだろ!そうなんだろ!」
武郎のヒステリックな叫びは抑えようがなかったが、宗助は怯むことなく優しく兄を宥めた。
「そんなこと、ちっとも考えてなんかいない」
「では今、何をしていた?ここを出て行く計画でも立てていたのか!」
宗助は「違うよ」と頭を振った。
「俺はどこにも行かない。ずっとここにいる。兄ちゃんと一緒にいる。この人はただ寝ぼけていただけだ」
そう言って宗助は美夜に向き直った。
「さぁ、もういいだろう?出て行ってくれ」
美夜は深く頭を下げてその場を後にした。
美夜は自室へ駆け込むと、鍵をかけてその場にへたり込んだ。
宗助の頬を打った手は痛み、彼を抱きしめた胸は早鐘を打った。
しかし、武郎の目が脳から離れない。
目を瞑ってしまえばあの記憶が鮮明に現れる。
武郎のことが─
恐ろしい─
両手の震えは宗助の頬を打ったせいではない。
足も震えている。
涙が止まらない。
「おい、美夜!いるのだろう!」と藤一が扉を叩く音が振動とともに伝わってきた。
「美夜!大丈夫か?いるなら開けてくれ!」
美夜はそろそろと腕を伸ばし鍵を解いた。
すると扉を開けて、藤一と弥太郎が入ってきた。
「美夜!」
藤一は妹の無事を確認して安心すると、その場に座り込んだ。
「急にいなくなっては心配するだろう」と震える声で言った。
しばらく3人で話をしたが結局のところ、宗助の怪我の原因を知る事はできなかった。
弥太郎も落胆の色を隠す事ができずに、藤一の横で頭を垂れていた。
「恩を仇で返されたか」と藤一が呟いた。
「しかし─」と弥太郎が言う。
「武郎さんはいったいどこへ行っていたのだろう?」
藤一は「さぁ」と首を捻り、美夜も同じような動作をした。
「宗助は硝子でも拾いに行ったのではないかと言っていたが、武郎さんは何か持って帰ってきた様子はなかった」
弥太郎と藤一が石倉家から出て郡司家の前で話をしていた。
すると、武郎が石倉家へと入って行くのが見えたという。
その時、手には何も持っていない事を確認したのだという。
そして、美夜が居ない事に気付き、慌てて戻ってきたのだ。
美夜は己の軽率な行動を恥じ、離れでの出来事を言わないでおくことにした。
その時、扉の向こうから声が聞こえてきた。
「藤一さん、いらっしゃいますか?」
藤一が「お母様だ。いけない、忘れていた」と頭をかいた。
「今日はお母様と陶芸展を観に街へ行くので、夕方まで戻らない」
そう言うと藤一は部屋を出た。
「美夜ちゃんは行かないの?」
「はい。私は踊りのお稽古がございますので」
その言葉を聞くと弥太郎は立ち上がった。
「どちらへ?」と美夜も立ち上がる。
「使用人が家にいるなら安心だろうから帰るよ」
そう言って微笑む。
「もう少しの時間、ここにいることは可能でしょうか?」
自分の口からそう出た時は驚いた。
同じように弥太郎も驚くと思っていた。
「大丈夫だよ。そうだよね。美夜ちゃんが安心できるまでここにいよう」
弥太郎は優しく微笑むと床に腰を下ろした。
美夜はどこからか座布団を持ってきて、そこに弥太郎を座らせると、次いで自分も同じようにした。
「わがままを言って申し訳ありません」と美夜が頭を下げる。
「どうってことないさ。帰ろうとしていたけど、本当は心配だったんだ。これで何の気兼ねもせずにこの家に居られるよ」
「お茶をいれてきます」と美夜が立ち上がる。
「大丈夫だよ。気をつかわないで、楽にしようよ」
その言葉に美夜は座り直した。
「宗助さんのお怪我の具合はよろしいのでしょうか?」
弥太郎は眉根を寄せる。
「大丈夫だろう。気にする事はないよ」と明らかに不機嫌な声で答えた。
「ほっといてくれと言われたんだ。そうするしかないんだよ」
美夜は悲しくなり、弥太郎を見た。
「心配すれば迷惑だと言われ、ほっといても構っても怪我をするんだから。こっちだってどうすればいいのか分からなくなる。なら、思い切って突き放すしかない」
俯いた弥太郎の表情をうかがう事はできなかった。
美夜は、もうどうもできないのだと思い、溜め息をついた。
「だが、そんなことは俺にはできないよ」
弥太郎は両膝を軽く叩いた。
「いくら迷惑だと言われてもね」と口角を上げる。
その言葉に美夜は安堵した。
いくら酷いことを言われようとも、突き放すことなどできないと思っていたのは自分だけではないと知ったのだ。
弥太郎は宗助の事を弟のように思っているのだ。
「それに、それはあいつの本心ではないように思えるんだ」
「そうなのですか?」
「俺が勝手にそう思っているだけなのかもしれない。そう思っていてほしいと願っているだけなのかもしれない。でもね、あの時の宗助の目は、威嚇していながらも、いつものように優しさを宿していた」
美夜には宗助の言動が理解できなかった。
「なぜ、あのような態度を?」
それには弥太郎も頭をゆるゆると振った。
『なにを恐れているの?』
そう聞いた時、彼は悲しそうな表情を見せた。
それが何の表情だったのかを分かってあげられたらと心から思う。
「どうやら美夜ちゃんも同じ事を考えているようだね」
「はい」
「宗助も罪なやつだ」
弥太郎はそう言うと、美夜を視界に入れないようにして、窓際に立った。
思わず美夜も立ち上がる。
「美夜ちゃんをこんなにも悩ませるなんて」と小さく笑う。
「悩んでいるのは弥太郎さんも同じですよ」
「違うよ。同じではない─」
少し間があく。
美夜はその続きの言葉を待ち、弥太郎はここまで言ってしまった事を後悔する。
「俺の場合は─」
─言うべきなのだろうか?
「そう。俺の場合」
─何を迷っている。
「─もっとも、複雑な感情が取り巻いているのだよ」
「もっとも複雑な感情?」
「そう。世の中にある単純だけれども、厄介な感情さ。大切な人を対岸に置いて、今にも切れてしまいそうな吊橋を渡るようなものさ。その人のもとへ行きたいのに吊橋が怖くて渡れない」
─その大切な人というのは君なのだよ。
弥太郎は心でそう呟いた。
美夜とは幼い頃からいつも一緒になって遊んでいた。
兄妹仲が良かったので、藤一と遊ぶとなれば、必然的に彼女がついてくる。
木登りであろうが、川遊びであろうが、「お兄様と弥太郎さんがいらっしゃれば怖くありませんわ」と輝く笑顔で平気な顔をしてついてくる。
そんな美夜は弥太郎にとって太陽のような存在であった。
大袈裟ではない。
美夜はまさしく対岸に咲く美しい華である。
手に届く範囲にあるのに触れてはいけないような気がしていた。
美夜を好きだと思い始めると、その関係はただ苦しく胸を詰り、その距離に歯痒くなるだけだった。
『お前のようなやつが美夜の相手になってくれれば良いのだ』と藤一が言った時は、心臓が今までにないくらいに跳ね上がった。
この感情は誰にも言っておらず、また、誰にも悟られないようにしていたはずなのに、どうしてそのような話をするのか驚いたのだ。
聞いていると藤一は冗談でそう言っただけであることが分かった。
しかし、その言葉は弥太郎にとって嬉しいものだった。
藤一がそう言ってくれるということは、石倉家で信頼してもらえているのだ。
ただ、美夜の気持ちが問題であった。
彼女は弥太郎を慕ってくれているが、それ以上を求めてしまってはいけない気がしていた。
気がしていたわけではない、求めてはいけないのだ。
彼女を困らせてしまう事になるし、悲しませる事になる。
藤一からの信頼もなくしてしまうだろう。
多くのものを失う可能性を犯してまで打ち明けるべき感情ではない。
弥太郎は自分の気持ちをそう結論づけた。
しかし、その迷いが今になって再び押し寄せてきた。
美夜は宗助に恋をしているのだ。
本人もそう言っていたではないか。
あの時は分からないと言っていたが、相手を気にかけていると、その情が愛の類に変わることなど珍しくはないし、至極自然な成り行きといえる。
美夜は、宗助が弥太郎を好いていると言っていたが、それは大きな勘違いである。
宗助は同性愛者ではない。
ただ、女性への対応が分からずに困惑しているだけである。
美夜は宗助の事が好きなのだ。
それが事実なら弥太郎にとって嬉しいが苦しい結論になる。
美夜があいつの側に居れば、宗助が徐々に心を開くことは確実だ。
それは弥太郎にとって最高に嬉しい。
宗助の笑顔を見れば安心するし、心が温かくなる。
──そう、それが一番の道なのだ。
突然、美夜の声が聞こえてきたので我にかえった。
振り返ると「どうかされましたか?気分でも優れませんか?」と美夜が心配そうに顔を覗かせた。
「いいや、大丈夫だよ。少し考え込んでしまっただけだから」
いま両手を伸ばせば彼女を包み込める。
しかし、弥太郎は美夜から顔を背けた。
「やはり、帰る事にするよ」
そう言うしかなかった。
部屋で弥太郎と二人きりになった時から美夜は決心していた。
しかし、彼が「対岸に大切な人を置いて吊橋を渡るようなもの」と言った時は怯んだ。
大切な人とは誰のことなのかとは聞けなかった。
弥太郎の個人的な事を聞き出すのは躊躇われたというのもあるが、本音を言えば真実を聞いて落ち込むのが怖かった。
少し戸惑ってしまえば、その後のきっかけを掴むことは困難だ。
案の定、弥太郎は黙り込んでしまった。
彼は今、誰の事を考えているのだろう?
『大切な人』が羨ましくなる。
こんなにも想ってくれる人がいるなんて、相手の人はなんと幸せなのだろう。
できればその方になりたいと美夜は思った。
弥太郎を愛し返す自信がある。
もしこれが彼の片想いならば余計に辛い。
好きな人の苦しむ姿はとても見ていられない。
自分なら彼を苦しめたりはしない。
弥太郎は自分の事をお転婆な女の子としか見ていないかもしれない。
手のかかる女の子。
そんな状況で気持ちを曝してしまえば、自分も弥太郎の事を悩ませる人物になる。
心の内を伝えるのはやめるべきだ。
伝えてしまえば様々な所で亀裂が生じることになる。
藤一と弥太郎の関係、宗助と弥太郎の関係、そして自分と弥太郎の関係。
今や石倉家にとって弥太郎は欠かせない存在になった。
それを壊してしまう自分の想いは、ふせておくべき事実。
もはや、それ以外には道はない。
果たして、そうなのだろうか?
弥太郎なら真実を聞いても受け止めてくれるかもしれない。
石倉家との関係を絶つようなことはしないはずだ。
ただ、心にしまい込んで何食わぬ顔で過ごしてくれるかもしれない。
2人の秘め事でこの恋は終焉するのだ。
彼の優しさに甘える──。
それはそれで良いのかもしれない。
弥太郎の後ろ姿はたくましい。
背も高く、体躯が良い。
その凛々しい顔立ちに女性から人気があるのは周知のこと。
美夜の友人も弥太郎を目当てで石倉家に遊びに来る事もよくある。
ただ、美夜自身は弥太郎への想いは誰にも話さないようにしていたし、気付かれないようにしてきた。
しかし、今は2人だ。
このような機会はもう二度とないかもしれない。
伝えないでおこうと決めた想いは、すぐそこまで出かけていた。
つい声をかけてしまった。
「弥太郎さん?」
振り向いた弥太郎の表情は冴えない。
「どうかされましたか?気分でも優れませんか?」
その言葉に弥太郎は「いいや、大丈夫だよ。少し考え込んでしまっただけだから」と言ってぎこちない笑みをうかべると、美夜に背を向けた。
─なぜ、そんなに悲しい顔をするのです?
宗助さんのこと?
それとも大切な人のこと?
こんなに好きなのに伝えられないのがもどかしい。
弥太郎の心に美夜の入る余地などないだろう。
─ただ、私はあなたの悲しむ顔は見たくはありません。
美夜は土壇場になって迷っていた。
この想いが弥太郎を悩ませる事には間違いないだろう。
だが伝えたいという思いから目を背けることはできない。
「やはり、帰る事にするよ」
弥太郎はそう言って扉の方へと歩きだした。
部屋の張り詰めた空気が、まだ恋を知ったばかりの2人の清らかな想いを押し潰そうとしている。
弥太郎は拳を作って唇を噛み締める。
美夜は視界を滲ませながら痛む胸を抑える。
もどかしい。
苦しい。
わかってほしい─。
こんなにもあなたが愛おしい─。
弥太郎がノブに手をかけた時、その後の行動を阻止するように美夜が扉を押さえ付けた。
驚いた弥太郎は美夜を見る。
彼女は背中を扉にくっつけたまま弥太郎を見据えた。
「聞いてください」
震えて弱々しい声だった。
弥太郎はノブから手を離した。
好きなのだ。
そう伝えたいだけ。
その気持ちを伝えて関係が悪くなることはない。
自分はそんな薄情な人を好きになったりはしない。
─弥太郎さんのことは誰よりも存じております。
美夜は大きく息を吸った。
「私を、弥太郎さんの傍に置いてください」
時は止まるものなのだと美夜は感心した。
静寂の中から己の鼓動だけが聞こえてくる。
ゴンゴン─
ゴンゴン─と。
弥太郎は表情ひとつ変えずに立っていたが確実に驚いている。
そして、ふいに眉を寄せた。
「何を言っているのか分からないよ」
そう言って困ったように目を伏せる。
ガラガラと何かが壊れて、崩れた音が頭に響いた。
それはそうだ。
予期してはいたものの、実際に目の前にその結果が表れると──どうも辛い。
「この人生、最期まで弥太郎さんと添い遂げたいと願っております」
もう一度言ってみる。
弥太郎は戸惑っている。
まさか、突然このような事を言われるとは考えてもみなかったのだろう。
「なにを言っているのか分からないとは言わないでください。この言葉の意味は分からないはずがありませんもの。弥太郎さんだって、私と同じように恋をしていらっしゃる身。相手がどなたであろうと問うたりはしませんし、私の気持ちを押し付けるような事もしません。もし、弥太郎さんが傷付くことがあっても、私は必ず全てを受け止めます」
美夜はそれだけ言うと扉から離れ、窓際へ歩いた。
弥太郎は美夜の告白を聞いて戸惑った。
彼女は緊張しているのか、早口で喋っていたので弥太郎が口を挟む余裕もなかった。
話し終えたのか、そのまま窓際へと歩いて黙り込んだ。
「美夜ちゃんは─」
2人の視線がぶつかる。
「美夜ちゃんは、宗助の事が好きなのだと──思っていたのだけれど」
ほとんど呟くような声でそう言う。
「それは俺の勘違い──?」
美夜はこくりと頷く。
「私が好きなのは弥太郎さんだけです」
これで良いのだろうか─。
このまま自分も同じ気持ちであることを告げても良いのだろうか?
彼女が勇気を出して伝えてくれた想いを、無駄にはできない。
─無駄にする理由などないではないか。
弥太郎は美夜のほうへ向き直った。
─やっと素直になれる。
美夜は頬を紅く染めて不安げにこちらを見ている。
弥太郎は彼女の元へと歩きだした。
吊橋を渡るように。
一歩ずつ慎重に。
対岸の大切な人。
それは。
「ありがとう」
弥太郎はそう言って、美夜の肩を抱き寄せた。
蝉の声が耳障りな夏の日、美夜が庭で植木の手入れをしていると、弥太郎がやって来た。
「暑いね」と水筒を差し出してくれる。
「ありがとうございます」
それを受け取り、ひと口飲む。
あの時以降、2人の関係は両家公認の仲となった。
「今日この後、少し散歩でもしないか?」
「えぇ」と美夜は嬉しそうに笑う。
「では、待っているよ」
弥太郎はそう言って帰って行った。
美夜はとても幸せだった。
周りも弥太郎との関係に喜んでくれている。
作業を続けていても思わず顔がほころんでしまう。
汗を拭おうと立ち上がって手ぬぐいを取ると、いつの間にか宗助が立っていた。
こちらには気付いていない様子である。
美夜は息を潜めて花たちの中に身を隠すと、宗助の様子をうかがった。
何を考えているのかはわからないその視線は、美夜の大切な朝顔に注がれた。
宗助の腕がそれに伸びると、指で花びらを撫でた。
─記憶が甦った。
宗助が石倉家に来たばかりの時の記憶だ。
その時も同じように宗助は花びらを撫でていた。
ただ違うことは、美夜は隠れずに宗助の隣で話をしていた。
それは、生まれて初めて自分で埋めた種であり、芽が出た喜びを味わった朝顔だ。
育てるという大変さ、芽吹くという喜び、散るという儚さ。
今ではいくつも花を咲かせており、毎夏、美夜の心を喜ばせてくれている。
そのような事を宗助に言って聞かせた記憶があるが彼は興味はなさそうだった。
ただ、黙って優しく花に触れていた。
その時も何を思っているのか、分からなかった。
その時、ぶちりと無惨な音が聞こえてきた。
一瞬にして現実に戻される。
─まさか。
美夜は棕助の手元を見た。
宗助の指に摘まれた青色の花。
大切な朝顔だと言ったはずなのに。
なぜ─そんな─。
大切だと─
そう言ったのに。
美夜が落胆の言葉を漏らすより先に、宗助が言った。
「笑えるぜ」
宗助は朝顔を鼻に近付けた。
「なんと、悪いやつだ」
彼が何を言っているのかが全く理解できなかった。
「嘘つきの愚か者」
宗助は朝顔を握り潰した。
「愚かなやつめ」
そう言って去っていった。
最後まで美夜の存在には気付いていなかった。
宗助の表情までは知ることができなかったが、おそらく憤っていた。
また、武郎のことを悪く言われたのだろう。
いくつになってもやることが幼稚過ぎる。
宗助もそれを受け流すことができないものか。
弥太郎と近くの公園で散歩をしている時、先程の出来事を話してみた。
弥太郎は唇を尖らせた。
「さっきあいつとを見掛けて軽く会話はしたが普通だったよ。美夜が言っていたみたいな憤っている様子はなかった。武郎さんについて何か言われたようなこともなかったのではないかな」
「そうですか」と美夜は納得がいかないようだ。
「何だか最近、武郎さんの体調が良くない気がしないか?」
弥太郎がそう言ったのには理由があった。
つい先日、武郎を河辺で見かけた。
その時の彼は劇的に痩せていた。
服はぶかぶかで全く合っていなかったし、髭も伸び放題で顔色は白く、目は虚ろであった。
手にしていたのは硝子ではなく手の平程の大きさの石だった。
ポケットにも石が詰め込まれているのか、ごつごつしたそれはいっぱいに膨らみ、今にもズボンがずり落ちそうだった。
─なぜ、石なのだろう。
武郎が集めているものは彩りのある硝子のはずだ。
しかし、新しい趣味でも見つけたのだろうと、気にしなかった。
「さっきあいつと話しをしたのだよ。武郎さんについて。体の調子はどうなのだと聞いたが、食事も毎食きちんととっているし、異常はないと言っていた」
「そのはずです。食器を戻しに来られる際に確認しましても、全て綺麗に食べていらっしゃいます」
それを聞いた弥太郎は「そうか」と唸った。
「様子がおかしく見えたのは気のせいか」
「宗助さんの様子も気になります」
「最近は喧嘩はしていないのだが」
「それではなぜ、あのような酷いことを?」
大切な朝顔を握り潰す宗助の姿─。
「虫が付いていたのかもしれない」
「それなら虫を摘めばいいのです」
「枯れていたのだろう」
「枯れているものがあれば私が剪定しています」
「では、間違って折ってしまったのだろう」
「握り潰すなんてしなくても良いでしょう?」
「では─」
弥太郎が顎に指をあてた。
「もういいですよ」と美夜が笑った。
「いずれにせよ、心配することはないさ」
そう言って弥太郎は微笑んだ。
散歩の後に美夜を送り届けて自宅に戻ると、宗助が玄関先で待っていた。
何か言いたげに俯いている。
「どうした?」
弥太郎がそう言って口ごもる宗助に近付く。
何か大切な事を言い出そうとしているのだと気付いた。
「少し、歩かないか?」と言ってきた。
「構わないよ」と弥太郎は宗助に並んで歩きだす。
会話をしないまま先程まで美夜と散歩をしていた公園へと到着した。
なかなか切り出せないところからして、簡単には言うことができないのかもしれない。
弥太郎はその時まで何も言わずに待つ事にした。
宗助は目の高さにある小さな赤い実を摘み取った。
弾かれた枝は揺れ、その拍子に何粒かの実が落ちる。
そんな事は気にも止めずに、指で摘んだ実を見ている。
─何の実だろう。
そう思った時、宗助が口を開いた。
「これ、何の実だろう?」
弥太郎は「今、同じ事を考えていたよ」と笑った。
「名前はあるのかな?」
「人の目に触れている限り、無名なものはないだろう。だから、この木にも名前があるはずだ」
赤い実を指先で潰すと、中から白いかさついた粉のようなものが出てきた。
それを地面へと落とした。
弥太郎は、朝顔を握り潰す宗助を想像してしまった。
「弥太郎。すまない」
不意の謝罪に驚いた。
「何の事だ」
「心配かけてごめん」
宗助が頭を下げる。
「いろいろと迷惑かけて─反抗して─」
弥太郎は黙って聞いていた。
「それに、悲しませた。昔から俺を気にかけてくれていたのに、大切にしてくれていたのに、酷い事を言った」
宗助に言われた事を思い出す。
『俺たちのことなど気にしない方が、お前たちも楽なんだからな!』
思い出すだけで胸が痛い。
あれは本心ではないと思っていたものの、辛いのは事実であった。
殴ってしまった事を何度も悔やんだが、正解など出てこなかった。
しかしこれで、自分も宗助も一つ成長した。
そう感じる事ができる。
長い間、頭を下げた宗助の肩を撫でた。
「俺はもういいのだが、その言葉を聞かせたい人物がまだいる」
宗助は頭をあげる。
「分かっている。あの人─美夜さんだろう?」
何年振りだろうか?
宗助の口から彼女の名前が出てきた。
長年封印してきたものが解放され、緊張が解れたように口元が緩んだ。
─彼女、喜ぶぞ。
申し訳なさそうに目を伏せる。
「彼女にはまた改めて話をするよ」
宗助の様子を見れば疑う余地はなかった。
「それでね、弥太郎。お詫びというか、何と言うか─。俺、償いをする」
「そんな事気にするなよ」と弥太郎は笑う。
「いいや。散々迷惑かけたし、嫌な思いもさせたんだ。何かさせてくれ」
弥太郎は「考えておくよ」と言ったが、何も頼むつもりはなかった。
ただ、今までのような関係に戻れただけで良かった。
その時は、近いうちに宗助の力を借りなければならなくなるとは思ってもみなかった。
美夜に誰かが付き纏っていたのだ。
妙な視線を感じたのは2ヶ月ほど前からだった。
それ以前からあったのかもしれないが、弥太郎との関係に浮かれていて気が付かなかったので、これと言った確実な時期はわからない。
習い事や学校の帰り道に嫌な視線を感じる事が多くなったのだ。
気配を感じ立ち止まって辺りを見ても見知らぬ人たちが無関心に通り過ぎるだけだった。
ただの思い過ごしだと、数週間は考えることをやめにした。
しかし、その違和感を拭うことはできなかった。
やはり、気味の悪い纏わり付くような視線を背後に感じるのだ。
─つけられている。
そう認めると、急に恐怖と不安が込み上げてきた。
弥太郎に話をすると、顔色を変えた。
「なぜ、もっと早く言わないのだ!」
つい声を荒げてしまった。
公園には2人しかいなかったので誰にも見られてはいない。
「気のせいだと─思っていました」
「何かあってからでは遅いのだぞ。誠之助さんや、藤一には言ったのか?」
「いいえ」
美夜は俯いた。
「父は今、新しい企画を立ち上げて家にもほとんど顔を出さない状態です。母も父に寄り添って日々忙しそうで、2人には心配をかけたくないのです。兄に言えば父に伝わってしまわないかと心配で─」
声を震わせている。
「大声を出して悪かった」
弥太郎はそっと美夜の肩を抱いた。
「怖いのです」
美夜が腕の中で助けを求めた。
「大丈夫だよ。─大丈夫」
そう言って、誰にも触れさせないように、いっそう強く肩を抱き、離れないように手を握った。
離れの扉を叩くと扉の隙間から宗助の顔が覗いた。
「どうしたの?」
「休みの日だからといって昼まで寝ているのはどうかと思うが?」
宗助は太陽の光に目を細める。
「それをわざわざ言いに来たわけではなさそうだ」
そう言って扉を大きく開けた宗助は美夜がいることに少し驚いた様子だった。
「─2人揃って何だよ」と面倒くさそうに頭をかいた。
「頼み事というのはまだ有効か?」
「頼み事?」
「以前、頼み事を聞いてくれると言っていただろう。覚えているか?」
「忘れるわけがないだろう」
「それ、まだ有効か?」
「もちろんだよ。何でもするよ」
「実は─」と弥太郎は事の全てを話して聞かせた。
ひと通り話し終えると「お前に頼みたいのは─」と弥太郎は手を叩いた。
「俺が学校から戻っていない時、つまり、俺が美夜の側に居てやれない時に、お前が彼女に付いてやっていてほしいんだ。難しくはないだろう?帰り道に一緒に歩いてやるとかでいいんだよ」
宗助は「付き纏われている」と首筋をかいた。
眉を潜めて悩んでいる様子だったが、すぐに「わかった。引き受けるよ。美夜さんの護衛をするよ」と言った。
「本当か!ありがとう宗助!恩に着るよ!」
安心したように笑った美夜にこう言った。
「しっかりとお守りいたします」
いくら宗助との仲が悪くなくなったからといっても初めの頃は2人になると緊張していた。
話しを持ち掛けても「はい」とか「まあ」などの短い返事ばかりで長く続きはしなかったが、今では短いながらも会話を楽しむ事ができた。
気を使わなくても気軽な話しをできるまでになった。
ある日、右斜め前を歩く宗助が「感じますか?」と聞いてきた。
「え?」
「視線です。感じますか?」
「あ、いや。感じません。誰かといると感じないみたいです。私の思い過ごしだったのでしょうか」
「気を抜いてはいけませんよ。気持ちが緩んだ時に危険はやってきます」
そう言った宗助の顔を見ることが出来なかったが、朝顔を握り潰した時のような冷たい声ではなく、穏やかな優しさを感じた。
「急ぎましょう」
宗助はそう言って、美夜が付いて来られる程度に歩調を早めた。
なぜ急ぐのかは分からなかった。
ある日、急な雨が降ったので傘を持っていない美夜は同じような境遇の人たちと駅で立ち往生を強いられた。
今日は予定より早く帰れたので、美夜は宗助が来るまで蒸し暑い待合室で本を読んで待つ事にした。
その時だった。
あの視線。
背筋がひやりとする。
辺りを確認するのが恐ろしくなり、身を固めることしかできない。
耳の裏にすっと汗がたれる。
呼吸をするものの、満足に肺に酸素が入ってない気がしてならない。
─落ち着かないと。
と大きく息を吸ってはくが、あのねっとりとした気持ちの悪い視線からは逃れることができなかった。
不安と嫌悪感が強くなる。
本を鞄にしまった。
勇気を出して辺りを見る。
怪しげな人物はいないように思えた。
やはり、自分の思い過ごしなのだ。こんなにも沢山の人の波から美夜を探し出すのは困難ではないか。とほっとして一息ついた。
その時だ。
「あの─」と男の顔が目の前に現れた。
切れ長の目は鋭く、禿頭のくせに髭が濃い。
美夜は驚いて悲鳴を上げ、立ち上がる拍子に男の肩を突き飛ばしその場を立ち去った。
その声に驚いた人たちは美夜を振り返る。
雨など構わずに外へ出た。
─弥太郎さん!弥太郎さん!
心でそう叫ぶ。
─助けて!
だが弥太郎は現れてくれない。
雨の中をひたすら走る。
視界は冴えない。
「おい!」
と美夜を引き止める声が背後から迫る。
─あぁ!あの男だわ!殺されるわ!
美夜は振り返らずにただ走った。
水溜まりに足をとられる。
「おい!待て!」
雨のせいで呼吸が上手くできないので苦しい。
目に滴が入って痛い。
もう嫌だ─。
そう思った時。
あぁ、あれは─
人影が視界に入る。
「そ─宗助さん!」
それは間違いなく宗助だった。
右手で黒い傘を差し、左手には美夜の分の赤い傘を持って驚いた顔をしている。
「宗助さん!」
美夜はそのまま宗助の胸に飛び込んだ。
「どうしました!そんなに濡れて!」
震える美夜に異変を感じた宗助は顔を上げた。
「おい、お前!」と言いながら男が近付いてきた。
宗助は背後に美夜を隠し、2つの傘を彼女に預けた。
憤った相手の男は「この野郎!」と怒鳴っている。
「あの男ですか?」
その言葉に美夜は頷く。
それが合図かのように宗助は雨の降る中を走り出し、男の脇腹を殴った。
一瞬の出来事だった。
「ぐぅ」と男が腹を抱えて崩れた。
「なに─」
声にならない声が聞こえてきた。
「お前がお嬢さんに悪いことするからだろうが」
宗助は男と視線を合わせるように屈み込む。
「な─」
「言い訳は良くないぜ」
「何を─勘違い─している」
男は着ていた服の胸元からひとつの鍵を出してそれを宗助に見せた。
「これは?」
「さっき─あんたの─大事な─お嬢さんとやらが─落っことして─行った─」
宗助は鍵を受け取る。
「それを─渡そうとしたのによ─駅では─突き飛ばされるし─あんたには─殴られるしよ─散々だぜ」
宗助は男を見た。
「あんた、お嬢さんを見かけたのは今日で何度目だ?」
「今日─たまたま─仕事で来ただけだ。それに─俺には─女房も─娘もいる。他の女に─手を出す暇なんて─ねぇわ!」
宗助は男の腕を引っ張って立ち上がらせた。
「申し訳ない。こちらの勘違いだ」
宗助が頭を下げた。
「申し訳ありませんでした!」
美夜もそう言って頭を下げた。
「事情があったんだろ。こっちも─もっと気の利いた言い方─すりゃ─よかったんだけどな」
と言って去ろうとした。
「待ってください!お詫びを!」
美夜がひき止める。
「そんなのいらないよ」
と手をひらひらさせる男の禿頭に雨が垂れる。
「これを─」と宗助が美夜の右手から黒い傘をもらい男に渡す。
「こんなに濡れちまっているんだ。今更傘なんて必要ない」と男が言ったが、宗助は構わずに傘を押し付けた。
男は「では─ありがとよ」と言って傘を受け取ると背中を見せて歩いて行った。
宗助は美夜の手から赤い傘を取るとそれを広げた。
「さて、帰りましょうか」
そう言って歩きだす。
お互いしばらく黙っていたが、宗助が「そうだ」と言った。
「これ─」そう言ってさっき男から預かった鍵を美夜に渡した。
「あ─ありがとうございます」
「大事な鍵─ですか?」
「はい。弥太郎さんから頂いた誕生日の贈り物です。宝石箱なのですが、その鍵です」
あの宝石箱を貰った日から片時も離さずに持っていた。
離したくなかったのだ。
しかし、無くしてしまえばどうにもならない。
大切な物なら家に置いておくべきだったと反省をする。
「見てみたかった」と宗助が言った。
「美夜さんがあの男を突き飛ばすところを」
宗助を見る。
「見たかったな」
「私─突き飛ばした記憶が─」
「恐ろしかったのでしょう」
その時の恐怖が甦り、立ち止まる。
宗助も立ち止まって美夜を見た。
「無事で良かったですよ」
そう言って宗助が──微笑んだ。
美夜は何故か泪が止まらなくなった。
「それでもまだ─」
真剣な眼差しに変わる。
「安心はできませんよ。付き纏っているやつの正体はしれないのですから」
「はい」と美夜は頬に伝う泪なのか雨なのか分からない雫を指で拭った。
宗助が歩き出したので離れないよう付いて行く。
いつの間にか美夜を越した背、その力強い肩幅に─笑えば可愛く垂れる目尻。
その姿に美夜は男を感じた。
弥太郎とは違う強さと優しさだ。
あぁ、もう皆、大人になったのだ。と思った。
─────────
ある日曜日の夕食時であった。
石倉家の食卓で家族4人で食事をしている最中、乱暴に扉が開いた。
驚いた4人は扉を見た。
そこには目を充血させた武郎が立っている。
「ど、どうしたんだい、武郎くん」と誠之助が直ぐさま立ち上がり、武郎の側に駆け寄る。
武郎は4人を睨みつけた。
冷たく重い空気がのしかかる。
「武郎くん」と誠之助が肩を押さえた。
藤一も立ち上がり、母親と美夜を背中に隠す。
「なぜだ─」
武郎が言った。
「なぜだ!」
武郎が誠之助の襟を掴んだ。
「何をする!」と駆け寄ろうとした藤一を誠之助が右手を挙げて制止する。
「どうしたんだい?」
誠之助は穏やかに話し掛ける。
「どうした─だと?」
武郎は眉を歪ませる。
「なにか─気に入らないことがあったのかな?」
「あぁ、そうさ。気に入らないことばかりだ!なぜ─なぜ─」
「兄ちゃん!」
宗助が現れた。
左目の周りを腫らし、唇が切れて血が出ている。
「兄ちゃん!誠之助さんから手を離して!」
武郎は誠之助から目を離さずに口を開く。
「俺達の不幸はこいつのせいだ!」
「違う。違う!」と宗助が言う。
「聞いているところなのさ!今─分かる。なぜ俺達がここにいるのか。なぜ俺達なんか助けたのか!」
武郎はそう言って誠之助を睨んだ。
その形相は誠之助の頭を食いちぎりそうだ。
「聞かせろ!なぜ俺達なんか助けた!」
襟を掴む武郎の腕は震えている。
食いしばった歯はぎりぎりと鳴り、目は飛び出しそうだ。
「俺達は今まで苦しかった。今も苦しいさ。この家の者からは良くしてもらった。それは感謝している。しかし、周りは違う。そうだろう?俺のせいで宗助が虐められていることは承知だった。俺のせいで─こいつは─苦しんでいる!なぜだ!なぜ俺達を助けた?なぜ苦しみが待つだけの人生を与えたのだ!」
武郎は泣いている。
「苦しくなんてないさ!俺は兄ちゃんがいればそれでいいんだから」
そう宗助が言っても武郎は手を離そうとしない。
「聞かせてほしい。なぜ俺達を助けた?」
武郎は懇願した。
今度は「聞かせてほしい」と囁くように言った。
「私の親友の血が流れているから」
誠之助が言う。
それは武郎も宗助も知っている。
「どんな未来が待っているのかなんて分からない。それが幸か不幸かなんて─。だが、あいつはどんな未来が待っていようとも生きたかったに違いない。あいつは君達の─武郎くんと宗助くんの成長を見たかったんだよ。私は君達に生きてほしいと思った。大切な人だから。大切に思ったから。生きてほしい。そう思ったのだよ」
静寂。
─生きてほしい。
それは悲しみと望みが混ぜ合わさった複雑な色だった。
武郎が手を離した。
藤一は母親と美夜をいっそう強く背後に匿った。
誠之助は机に後ろ手を付いて俯いている。
武郎は頬を伝う泪を拭かず、益々目に涙を溜めたまま部屋を後にした。
宗助は床を見つめたまま動かなかった。
「宗助さん」と美夜が声をかける。
宗助が美夜を見た。
「大丈夫ですか?」と聞いた美夜に小さく微笑んだ。
「ご迷惑を─おかけいたしました」
そう言って頭を下げて部屋を出て扉を閉めた。
暗く重たい空気が密集した部屋には誠之助の鼻をすする音だけが聞こえていた。
「私は悩んだ─」
誠之助が言った。
「2人を見掛けた時も、武郎くんが癲狂院に入るべきだと聞かされた時も、彼が暴れた時も、何度も悩んだ。だけど後悔はしなかった。一度も。彼らのために力を尽くすことは厭わない。しかし、それは自己満足だったのかもしれない」
「お父様」
藤一が誠之助の肩を撫でる。
「彼らが苦しむだなんて考えたことなどなかった。私はなんと─」
両手に顔を埋めた。
「なんと酷いことをしたのだろう」
「お父様、武郎さんは感情の起伏が激しい方なのです。あのような言葉をいちいち真に受けていたらこちらの精神がもちません」
「あの2人を見殺しになんてできない」
「分かっています。分かっていますよ、お父様。双川のご両親も喜んでいらっしゃいます。2人の息子が大きく成長した姿をみて喜んでくれますよ」
「死者に感情などないさ」と消えそうな声で言った。
「あいつが喜ぶのではない。あいつが喜んでくれているのだと思って自分の気持ちを納得させたいのだよ。やはり私の自己満足なのだよ、藤一」
藤一は小さくため息をはいた。
「もしあの時、2人が死を望んでいたのなら、そうなっていたはずです。でも、そうではなく生きた。必要なそれらを与えれば、自ら食事をし、呼吸をし、太陽を浴びた。体力も戻り、2人は然るべく今ここに存在するのです」
「運命というやつか?」
「─いいえ。運命など信じません。未来など誰にもわからない。昔、私はお父様からそう教わりました」
翌日、自室で裁縫をしていた美夜は喉が渇いたので、食堂に行き、紅茶で喉を潤した。
一息いれたので再び裁縫に取り掛かろうと階段を上りきったところで、大きな窓から外を見るようにして人の姿があった。
後ろ姿なので誰だか分からない。
家族の者ではない。
宗助ならすぐに分かる。
─では、あれは。
美夜は恐怖を感じたので再び階段を下りようとした。
音をたてないように、慎重に。
─慎重に。
「逃げるのか」
と声が聞こえてきた。
「武郎さん」
美夜が返事をする。
「滅多にここには来ないからな。驚いただろう?」
「ええ」
仕方なく戻る。
「この窓からは様々な物が見える。美しいものや、そうでないもの」
「ええ」
「郡司と結婚するのか?」
戸惑う美夜に武郎が不気味に笑いかける。
「宗助が聞かせてくれるんだ。いろいろとね。あいつは俺の弟だから、何を考えているのかはすぐに分かる。そうか、その表情を見れば結婚は事実か─」
美夜は「ええ」と答える。
実際には結婚はまだである。
婚約をした。
夫婦になるのは弥太郎が医大を卒業し、医者になってからという話になった。
両家と話しをして同意を得た。
「めでたいではないか!実にめでたい!」
武郎の声は言葉とは裏腹に険しく厭味を感じた。
「たいしたお方だよ、あんたは。見事だ。すばらしい。まったく─」
武郎は、ふふふと笑った。
そのねっとりとした笑い声が奇妙に廊下に響いた。
背筋に冷水が伝うような感覚。
この世に悪魔が居れば、こんな笑い方をするのだろうと思った。
「怖がらせて悪かった。邪魔物は─去ることにしよう」
美夜が壁に身を避けた。
「幸せになるんだぞ」
武郎は立ち去る間際そう言った。
廊下に取り残された美夜は急いで部屋に入り、鍵をかけた。
その日の夜であった。
弥太郎が机に向かい、医学書を読んでいると、玄関口から家主を呼ぶ声が聞こえてきた。
両親は親戚の家へ行ったので弥太郎が出ると、そこには顔を青くさせた豆腐屋の主人がいた。
「弥太郎くん!お、お父さんは!」
ずいぶんと焦っている様子だ。
甲高い声がより一層耳に痛い。
「出ています」
「帰りは!」
「今日は戻らない予定ですが、何かありましたか?」
「か、河で人が溺れていたんだ!救い出したが、い、息をしていない!」
弥太郎は大声で姉を呼び、必要な救急道具を持って河原に来てくれと言うと、豆腐屋の主人の後に付いて急いで河原に向かった。
弥太郎自身、処置をするのは初めてだったが、今はそんな事は言っていられない。
河原に到着すると人だかりができていた。
「と、通して!弥太郎くんを呼んできたぞ!通して!」
人が割れ、知った顔やそうでない顔が弥太郎を見る。
その先に足が見えた。
濡れた服が身体に張り付いている。
動いていない。
白い顔で目を閉じ、青い唇は力無く開いている──知っている顔だった。
「武郎さん!」
弥太郎は脈と呼吸を確認した。
「時間は!いつから心臓が止まっている!」
人だかりは互いの顔を見て答えを求めた。
誰も答えない。
無駄な人の集まりにしか思えない。
「誰が救助したんだ!」
弥太郎は心臓の蘇生を試みながら人口呼吸をした。
「誰が武郎さんを発見したのです!」
返事はない。
それどころか、「あぁ、あの双川の兄の方か、ついにこうなったか」「いつかこうなると思っていたよ」と不謹慎な事を呟きあっては、白い目で見下ろしていた。
「くそっ!」
武郎の指先を見た。
水分を含んでふやけている。
長い間、水中にいたのだろう。
「武郎さん!」
弥太郎は措置をしながら叫んだ。
「武郎さん!」
─届け!
「逝くな!武郎さん!」
─届いてくれ!
「武郎さん!帰ってこい!」
─宗助が悲しむぞ!
「息をしろ!」
─頼むから
武郎からの反応はない。
お願いだ─逝かないでくれ。
「弥太郎!」
背後から声が聞こえてきた。
辺りがざわつく。
「武郎さん、宗助が来ました!宗助ですよ!」
弥太郎はそう言いながら、心臓マッサージを続ける。
「弥太郎!」
宗助が真っ青になって現れた。
「宗助!声をかけろ!」
宗助は兄の顔を見てその場に座りこんだ。
「何してる!武郎さんに声をかけろ!」
その時、宗助の手が弥太郎の腕を掴んだ。
「もう無理だよ─弥太郎」
「─な、何を言う!ふざけるな!」
弥太郎は宗助の手を振り払った。
「もう無理だ─」
「諦めてたまるか!」
「兄ちゃんが可哀相だ」
宗助が武郎の胸を指さす。
胸の辺りが微妙にへこんでいる。
肋骨に損傷を与える程の心臓マッサージをしたのだ。
しかし、武郎は息を吹き返さなかった。
「兄ちゃんは死んだ」
「─そんな」
─そんな─嘘だろ─。
弥太郎は息を荒げながら武郎を見た。
宗助が武郎の頬を指でなでる。
耳に届くことのない強く激しい宗助の慟哭は弥太郎の胸に酷く辛い痛みをもたらした。
ふと武郎の着衣を見た。
不自然に膨らんだポケット。
弥太郎はその中を見ようと手を伸ばした。
その中には河原に転がっているのと同じ石が目一杯に詰まっていた。
─石
その時、思い出した。
─河原で石を拾っていた武郎。
そのポケットは石でいっぱいに膨らんでいた─
ひそひそと話し声がする。
「いつかやっちまうんじゃねぇかって思ってた」
「あの目。何するか分からなかったものねぇ」
「こりゃ─自殺─だな」
弥太郎はポケットに目をやる。
流れの遅い河だが、深い所でも弥太郎の肩の辺りまである。
それに、石がこんなに詰め込まれていれば──
弥太郎は宗助を見た。
急に強い雨が降り出した。
人込みは散り、もう誰もいなくなった。
大きな稲光が2人を照らす。
「救急道具、持ってきたよ」と弥太郎の姉がずぶ濡れになってやってきた。
武郎の葬式から1週間が経った。
宗助の様子は変わる事なく、いつもの場所で寝起きし、食事もそこで済ませた。
美夜の送迎も欠かさずやった。
会話もする。
ただ、笑わなかった。
微笑む顔も見れない。
宗助の周りには無関心という1枚の膜が張られており、何をやるにも気力を感じられず、常に視線は宙を向いていた。
その態度に前よりもよそよそしさを感じるほどだった。
石倉家の面々は心配し、弥太郎は「後を追わせてはいけない」と常に宗助の行動を見ていた。
夏も終わりに近付いてきた。
夕刻になれば外気が冷たい。
今日、大学が休みだったので、美夜の迎えは弥太郎がやった。
すると、いつもとは違う事が起きた。
石倉家の門前に宗助がいたのだ。
「お帰り」と右手を挙げて2人に挨拶をする。
「少し散歩しないか?─3人で」
宗助は「では、私は」と立ち去ろうとした美夜にも聞こえるようにそう言った。
「私も、ですか?」と首を傾げる。
「3人で。さぁ、行こう」
到着した公園には夕食のいい香りが漂っている。
「秋だな」と弥太郎。
「秋ですね」と美夜。
「よく見れば花壇が綺麗にしてあるな」と弥太郎。
宗助はポケットに手を入れて、黙って日が沈むのを見ていたが急に口を開いた。
「話し掛けるんだ」
宗助が言う。
「話し掛けると綺麗な花を咲かせてくれる。優しく接してやると良いんだ」
「花に─か?」
宗助は頷く。
「兄ちゃんそう言っていた」
「そういえば─」と美夜。
「そういえば、昔─私がまだ9歳くらいの時です。武郎さんがあの花壇に咲く花に向かって話し掛けていた事がありました」
弥太郎も宗助も美夜を見た。
「優しく話し掛けていらっしゃいました。でも─その姿を周りの子供達にからかわれて─」
美夜は言ってしまった事を後悔しながら途中で言葉を詰まらせた。
「そう─からかわれていた。それでも兄ちゃんは花と会話をしていた。兄ちゃんにとって人からの評価や視線なんてどうでもよかった。自然のものを好み、自由に生きた。逆に、自然に逆らうように生きる人間を可哀相なやつらだと哀れんだ。情報や文明に支配された馬鹿なやつらだと罵ることもあったよ。俺は─どちらでもなかった。兄ちゃんの言っている事もわかるし、周りからの兄ちゃんへの態度も──分からなくもなかった」
宗助は声を震わせていた。
「分かってやれるのは、弟である俺しかいなかったはずなのに」
弥太郎の脳裏に過去の宗助が現れた。
『兄ちゃんは狂っているのか?』
宗助は葛藤していたのだ。
そして今、兄を完全に慕えなかった事に申し訳ないと思っている。
どんな慰めも無駄である。
「もう美夜さんの送り迎えは必要ない」
宗助が急にそう言った。
「なぜだ?美夜を付け回すやつは見つかっていないのだろう?」
「見つかっていない」
「では、まだ頼むよ」
宗助はその言葉に首を振る。
再び美夜への態度が冷たくなったのだと思った2人の心配をよそに、穏やかな表情の宗助は「もう大丈夫ですよ」と言った。
「根拠はないだろう?」と弥太郎。
「ある。あるんだ」
宗助が弥太郎を見る。
弥太郎は眉をひそめた。
「兄ちゃんだったんだ」
「─た、武郎さん?」
2人は驚いて声を合わせた。
「まさか、そんな冗談を─」
「いいや、冗談ではない。美夜さんを付け回していたのは兄ちゃんだった」
弥太郎と美夜は顔を見合わせた。
「だけど、美夜さんをどうかしてやろう、なんて考えていなかった」
「では、なぜだ?」
「それは─いろいろとあるんだ。言えば長くなる」
「長くなっても構わない」
宗助が首を振る。
「今は─言いたくない」
遠くから犬の吠き声が聞こえてきた。
「お願いがあります」
宗助が言った。
「美夜さん。今晩、同じ食卓についてもよろしいでしょうか?」
美夜は「もちろん」とすぐに返事をしたが、驚いた。
「弥太郎も一緒に」
美夜は再び「もちろん」と言い、弥太郎も同じ返事をした。
その晩は石倉家の食卓に弥太郎と宗助が座り、賑やかとは言えないが、晩餐を楽しんだ。
宗助は自ら話し掛けることはしなかったが、周りの話にはしっかりと受け答えをし、笑っていた。
しかし、弥太郎の胸中は不安でいっぱいだった。
宗助が何かを心に決めたように思えた。
─悪いことでないといいのだが。
その不安を和らげるように、膝に置いた手に美夜がそっと手を重ねる。
弥太郎はその手を握った。
食事が終わると宗助が最初に席をたった。
弥太郎も立ち上がり、後を追い、部屋に入ろうとする宗助を呼び止めた。
「お前、変なこと考えてないだろうな」
宗助が眉を寄せた。
「変なこと?」
「─お前、武郎さんの後を追ったりしないだろうな?」
思い切って言ったが、どのような反応をするのかが怖かった。
「何言ってるんだよ。変だぞ」
「お前が急に皆と食事をしたいと言うからだろう」
「自殺なんか考えてないよ」
「本当だろうな?」
「疑うなら俺の監視を続ければいいさ」
宗助が悪戯っ子のように首を傾げた。
「知っていたのか?」
「─なんでも」
弥太郎は「すまない」と言った。
「何なら、今夜一緒に寝て俺を見張る?」
「それは──それは良い考えだ!」
冗談で言ったつもりだったのだろうが、乗り気の弥太郎を見て驚いた顔を見せた。
「俺の家に来い」
弥太郎のその言葉に、宗助は一度部屋を振り返った
そして弥太郎を見ると笑顔をみせるとゆっくり頷いた。
弥太郎が自宅に戻り、寝床の準備をしている間に宗助は寝泊まりの仕度をしていた。
幼い頃に何度か藤一とお互いの家に泊まりあいをしていたが、宗助は初めてだった。
藤一が双子のような存在なら、宗助は弟だ。
弥太郎はなんだか嬉しくなったがそれはすぐに消えた。
宗助を迎えに行ったが、そこには誰もいなかった。
石倉家の屋敷中を調べたが宗助の姿はない。
焦った。
河原まで走った。
やはりいない。
話しをした公園、通っていた学校、駅─
どこにもいなかった。
石倉家と郡司家総出で探したが翌日になっても見つからなかった。
部屋の中は綺麗に片付けられ、武郎の作っていた硝子の置物も見当たらない。
静かだった。
部屋の中で放心していた弥太郎の腕に美夜が優しく触れた。
宗助はもう二度と戻らない。
2人はそう思ったが、口に出すことはしなかった。
いつかはそうなると感じていた。
皆は大人になり、それぞれの人生を歩む。
別れも必要なのだ。
宗助は武郎との別れを受け入れるために自ら旅に出た。
引き留める権利は誰にもない。
しかし─
2人は知らなかった。
この別れの本当の意味を。
その後、弥太郎は医者となり、父の病院を継いだ。
そして美夜と家庭を築き、1人の娘と1人の息子に恵まれる。
藤一は美夜が斜向いに嫁にいった3年後に結婚し、本格的に会社経営に乗り出した。
弥太郎が宗助の事を考える時間は日が経つ毎に少なくなってきた。
それは美夜も同じであった。
日々の生活に埋もれた過去は、掘り出すきっかけがなければ鮮明に思い出す事ができなくなった。
日記や手記は記憶を封印するかのように屋根裏に押し込まれたが、写真は目の届く場所に置いた。
宗助の事を思い出すのには、沢山の書き物はいらない。
あの稀に見る笑顔は常に2人の頭に鮮明に残っているのだから。
──────────
冒頭で私が美夜の部屋で見つけた手紙は恐らく誰にも読まれていない。
何十年も経った今、思いもよらぬ人物に読まれたので差出人はさぞ驚いているだろう。
もしくは、したり顔をしているかもしれない。
もはや読まれる事を望んでいたのかは不明だ。
あのような場所に隠していたのだから。
あの時、美夜が喉の渇きを潤しに部屋からでなければ手紙はどうなっていたのだろうか?
タイミングがずれてしまえば、せっかくの手紙も台なしだ。
あの時、美夜が部屋を離れた瞬間を狙い、武郎は彼女の部屋に侵入して抽出しの裏に手紙を貼り付けた。
なぜ武郎がそのような事をしたのか、また、何が書かれていたのか。
今までこの物語を読まれた方は複雑な思いをするかもしれない。
噛み合わない思い。
分かりあえない嘆き。
閉じ込めた叫び。
狂おしいほどに切ない旋律は決して交じることはない。
しかし、それらはやがて一つの美しい音楽となり、儚い物語を奏でる。
フーガのように。
──────────
石倉美夜様
双川武郎です。
突然のお手紙、驚かれたことでしょう。
いや、もしかすると、あなたの手には届いていないかもしれない。
目に入らぬ事実。
ひどい話だ。
伏せておくにはあまりにも酷だ。
しかし、残酷な君にそれなりの敬意をもって伝えよう。
私は、君が嫌いだ。
君のように無害なようにみえる人物ほど警戒しないといけない。
何の気無しに生きているだけで、人を傷つけ、こうも関係を拗らせる君にもっと用心しておくべきであった。
注意が足りなかった。
警戒心が不十分だった。
何度も私は忠告をしたし、傷つく度に「それ、みたことか」と言ってやった。
あいつは良いやつだ。
私と君たちの狭間に立ち、互いの思いを受け止めようと必死だった。
幼い時からそうであった。
君にはなんの事だかさっぱり分からないだろうな。
そんなあいつを尻目にお気楽に笑っていたのだから。
宗助だ。
宗助のことだ。
私の唯一の家族。
君らは彼を傷つけた。
砂利道を散々引きずり回し、その後轟々と燃える炎の傍に置き去りにしたのだ。
ご存知であろうが、私は周りの者から一目おかれた存在である。
何かにつけて笑われては白い目で見られる。
人は私を狂いだと決めた。
君も、君の家族も私とは目を合わせようとしなかった。
そうだ。
君の兄の藤一が、私の事を狂いだと言っていると、君は親切にも反論したそうだな。
宗助が話してくれた。
「あの人は他の奴らとは違う」とね。
私は尋ねた。
「郡司と同じくらい信頼できるのか」と。
あいつは郡司を心から信頼していた。
「弥太郎は強いし優しい」
宗助は笑っていたよ。
郡司はあいつの唯一の友。
私はそんな人物はほしくもなかったので羨ましいとは思わなかった。
ただ、あいつの笑顔が見れたらそれで良かった。
私の質問に宗助はこう言った。
「信頼できる。弥太郎と同じくらいに信頼できるよ」
宗助は嬉しそうだった。
あいつの喜びに水を差すようで気が引けたが、私は忠告した。
「人を簡単に信じるな。特に女には気をつけろ。連中は陰でこそこそ話しをし、甲高い笑い声で人を欺く」
酷い言いようか?
だが、宗助のように初なやつにはこれくらい言ってやらなきゃ理解できない。
もしくは、それ以上が必要だ。
案の定あいつは「大丈夫さ」と楽しそうにしていた。
大丈夫ではなかった。
笑顔で手招きしながら後ろ手には刃物を持っているような、君は恐ろしいやつだった。
私は癇癪持ちでね、すぐに頭に血が上る。
あの晩もそうだった。
私と宗助はひどい喧嘩をした。
「お前は私を狂っていると思っているのだろう!」
「まさか、そんなことはない!」
「お前は嘘をついている!私を兄だと思っていない!」
その言葉に宗助は目を潤ませた。
私は小屋を出て母家の調理場で暴れた。
覚えているか?
あの晩だ。
病院から戻って聞かされたよ。
君の兄と郡司に押さえ付けられたあの晩、君は宗助に言ったそうだな。
「可哀相な宗助さん!あなたは悪くないわ!」
とうとう本音が出たな。
いくら言葉で上手く取り繕っても、心で思っていることは不意には隠せないのさ。
宗助は認めた。
石倉美夜はひどい女だ。
あの時の宗助は数日経っても口を開こうとしなかった。
素っ気ない返事や、投げやりな態度。
あいつがそうなってしまうのは君のせいだ。
考えてみたまえ。
信じていた人に裏切られ、頼る者もいない。
絶望だ。
身には何も纏わぬまま闇に放り出された気分だ。
耐えられるか?
乗り切れるか?
郡司にそんな裏切り方をされたら、君はどうする?
私の言いたい事が分かるか?
宗助は君を愛していたのさ。
この家に世話になったその日から、君にくびったけなのさ。
だから、いとも簡単に君を信頼した。
信頼が崩れるのは、それを築くことよりもたやすい。
恋におちた宗助は、一瞬にして深い闇に蹴り落とされた。
君は宗助に嫌われていると思っていたのではないかな?
私は何度もそうなってほしいと願ったよ。
実際そうだったに違いない。
しかし、それは際どい。
憎しみはいつか深い愛に変わる。
宗助は本当に君を愛していたのだ。
隠していてもわかる。
私はあいつの兄だからな。
問い詰めても否定するばかりだ。
「まだ懲りていないのか!」と何度も言ったが無駄なことだった。
君への態度は、まるで君を否定するかのようだったが、宗助にはそんなことしかできなかった。
君が郡司を愛し、郡司が君を愛していることを知っていたからな。
君たちが互いの想いに気が付くより前に、あいつは知っていた。
宗助は誰よりも大人で、誰よりも優しく、誰よりも傷ついた。
君たちは宗助の想いを踏みにじり、切り裂き、詰った。
あいつは君たちの関係が良好になる事を望んだ。
そのためには自分がいてはいけない。
だから宗助は君たちから距離をとった。
にもかかわらず、君は、宗助を弄ぶように笑いかけ、話しかけた!
何たる屈辱。
心の底へ閉じ込めた恋心を、あろうことか、君が無理矢理こじ開けようとしたのだ。
自覚はなかっただろうね。
君は宗助を心配しながら誘惑し、私から離そうとした。
宗助は『家族』という繋がりに頭を抱えていた。
私も宗助を悩ませている原因のひとり。
君のことを偉そうには言えない。
しかし、私は君なんかよりずっと宗助を大切に思っていた。
唯一の家族だから。
あいつを守るのは俺しかいないのだ。
宗助は君らと距離をとる事を望んだ。
それで、私は安心したよ。
君からの手紙を受け取るまでは。
あの日、宗助の様子がおかしかった。
私は君に関係することだとすぐに察した。
私はあいつの兄だから。
問い詰めると話してくれたよ。
手紙に何と書いてあったのかは分からない。
どうせ、悩んでいる素振りで宗助を誘惑するようなことを書いたのだろう。
うまくいったようだぞ。
あいつの心は迷っていた。
何せ、愛する人を悲しませてしまっているのだからな。
君は私たちの間にとんでもない事態をもたらしたのだよ。
郡司にも相談をしたようだ。
「こんなことはやめてくれと言っておいてほしい」と。
郡司は渋ったそうだ。
自分で言えと。
しかし宗助は私との約束を守った。
「あの女とは話しをしない」
だが、君はまた私たちに構った!
写真がなんだ!
そんな物をどうするつもりだ!
そう思ったが、君がどんな顔で私たちを観察するのかを見てみたくて承諾したよ。
君は本当に悪い女だ!
心は郡司にあるのに宗助を誘惑するだなんて。
その清純な姿にどんな毒牙を隠しているのか皆は知っているのか。
その日から、私たちはまた喧嘩を繰り返した。
「誘惑に負けるな」
「誘惑なんかされていない」
「心があいつの愛を欲しているなら、それは誘惑されている証拠ではないか!」
「そんなことはない」
あくまでも宗助は、君を愛していないと言い張った。
そして君はついに本性を現した。
君は私の眼前で宗助に抱き着いた。
戸惑う宗助を宥めすかし、我が物にしようとした。
私から離そうとしたのだろう?
私がいては宗助が哀れに見えたか?
私がいればあいつが幸せにはなれないとでも思ったか?
私から宗助を奪ってその後の事はどうするつもりだった?
私から離れた場所に隠すつもりでいたか?
そして、郡司と夫婦になった姿を見せ付けるつもりでいたのか?
哀れな宗助は、君らの幸福な姿を見て何を思ったか。
狂おしい程に愛していた相手に何も言えず、ただその人の幸福を優先した。
溜め込んだ想いを吐き出す場所はどこにもなかった。
苦しい事実を笑顔で受け入れた。
「弥太郎と美夜さんが婚約したよ」
あいつが笑顔でそう言った時、私が君を恨んだのは言うまでもない。
「愚か者め」
その言葉を私は宗助に言ったのか君に言ったのか分からない。
その言葉が君にどんな思いをさせるのか分からない。
ただただ、私は君が憎くてしかたがない。
君に宗助の気持ちを察する余裕があったなら、送り迎えなどさせなかったと思いたい。
郡司に頼まれ、君に頼まれたのなら、あいつが断れるわけがないだろう。
哀れな棕助。
惨い。
あぁ、しかし、私もひどいやつだった。
自分の存在が宗助を苦しめたのは分かっていた。
だが、私は宗助を地獄に留めようとした。
何度も言った。
「私を一人にしないでくれ。情けない兄を見捨てないでくれ」
地上に出ようともがく宗助の足を持って離さなかった。
あいつは優しいやつだ。
私はあいつがいなければ寂しい。
離れるのは悲しい。
苦しむあいつを見れば君を恨む反面、奪い返せたと胸を撫で下ろしていた。
この手紙が君に読まれるのはいつになるのだろうか。
この手紙に書かれた真実を宗助は君らに知ってほしくはないはずだ。
だから生涯、この手紙が君の目に触れる事がないなら、それはそれで正解なのだ。
もし読むことがあれば、その時は宗助も私も君らの前から姿を消しているであろう。
これからの君たちに幸せしか訪れない事を願うよ。
長々と失礼した。
双川武郎
──────────