#7 サキの真名とサラの説教
ベッカーは1時間馬を休憩した以外は、10時間ずっと走り続けた。9時間経ったところで、馬は泡を噴いて倒れた。
残りの1時間はベッカーが沙姫を抱えて走った。通常1日かかるはずの距離を半分以下の時間で走破した。
道中、2人の間には全く会話はなかった。ベッカーは口を開けば、何が出てくるか分からない位神経が擦り切れていた。
サキはベッカーの話し掛けて欲しくない気持ちは何となく分かっていた。
山間の小さな村に着くとすぐ、ベッカーは村で一番大きな屋敷に向かった。
ちょうど玄関にいたサラという40歳位のおばさんに、薬と運搬を依頼した男の手紙を渡したベッカーはその場で倒れた。
気を失ったベッカーが目覚めたのは、それから1日後のことである。
「んっ?んー~。」
身体にうっすらと温かみを感じる。目を開けたベッカーはサキが小さく寝息をたてているのを見て微笑んだ。
過去の事件のこともあったので、サキと"リザベラの使い"が引き起こしたことに拒絶反応を起こさず乗り切ったのはベッカーにとって喜ばしいことだった。
ベッカーの右手はしっかりサキの両手で包まれている。以外にも力強く、起こさないように一本一本丁寧に外していく。
サキの頭を解放された右手で撫でようとして、手を伸ばした。とその時、ベッカーの眼前に仁王立ちした"リザベラの使い"がその手を弾いたのだ。
きゅいーきゅぅいぃ~と鳴きながら、その大きな目がベッカーの顔を睨みつけている。
「少年が俺に遣わしてくれた女神だぞ?その眷属たるお前になんで叩かれるんだ。」
ベッカーの言葉に鼻で笑って、ファイティングポーズをとる珍妙生物。腹筋だけで起き上がったベッカーも珍妙生物を睨みつけ、まさに一触即発の空気だ。
ベッカーが右手の人差し指をくいくいっと動かして、珍妙生物を挑発した瞬間だった。コンコンとノックしたサラがサキの食事を持って入ってきたのは。
サラの怒鳴り声に目を覚ましたサキは状況がのみこめず、首をかしげた。
サラが床にベッカーと珍妙生物を正座させているし、2人はおとなしく小さくなっている。板の間なので膝は痛いだろう。
「分かってるんですか?無理したらいけないことが。大体貴方も今度こそ絶対安静にしないと命にかかわるんですよ。
"リザベラの御使い"様、あなたもです。女神の眷属なら、少し考えればわかるはずですよ。
もし重症人と魔法のぶつけ合いなんかしたら、どうなるのかなんて簡単な話です。反省してくださいっ!」
「おっしゃる通りデス。言葉もありません。」
「きゅきゅっ。」
一方が小動物で一方が人間の男のはずがしゅーんとなった背中はあまりにもそっくりである。
恐ろしきは、盗賊よりも豪胆なおばさんである。
「女神様も目覚められたようですし、ベッカー殿にも食事を持って参ります。
く・れ・ぐ・れ・もおとなしくなさいませ。分かりましたね。」
まなじりを上げたサラが肩をいからせて去って行った。出ていくときに、サキにちゃんと見張っててくださいと言って扉をバタンと閉めた。
「で、お前の名前はシマダ サキで、ひどく遠い土地から来たんだと。だから帰る方法を探していて……ん?お前まさかシマダ サキって真名じゃないのか?」
口にライ麦パンのようなモノをもぐもぐさせながら、くぐもった声で喋る。
「えーっとマナってなんですか。」
スプーンでシチューのような料理を口に運んでいたベッカーがぶーっと口から液体を噴き出した。
それは目の前にいたサキではなく、珍妙生物にかかった。ベッカーが顔をサキから逸らしたからだった。
それにより第2ラウンドが始まりそうになった。が、サキが即座にサラさん呼びますよと言ったために、2人して硬直してしまった。
「真名っていうのは、本当の名前と同義だ。ふつうは10歳になった年の神祝の日、神様に人が祝福されたとされる日に両親に貰う。
神と両親に誓って結ぶ契約の名前だ。普通は自分の両親と配偶者、その子どもしか知らない。例外的に生涯の同盟者とか主と決めた者と交換することもあるがな。
真名は"信頼し合ったもの同士がお互いを縛る鎖"なんだ。おれの本当の名前はベッカーじゃねぇ。
真名を使うことで命令することも、呪詛さえ出来てしまう。だから命の次に大事だ。」
俺がまわった国の中で真名がないところなんてまずなかった。真名を知らないなんてどんな所から来たんだよ、深くは詮索しないけどな、と続けた。
「真名が島田 沙姫なのかはわかりません。ですが、私が名前として使っていたのはそれだけです。
もしかしたら、そうなのかも。ベッカーさんよかったら、命令してみてください。」
「あのなぁ。俺がもし変なこと要求したらどうするんだ。お前は迂闊すぎるんだよ。」
「私はベッカーさんがそんなことをする人じゃないことぐらい知ってます。
こんな短時間しか過ごしていないけど、貴方が私を思いやってくれてるのは知ってますから。」
にっこりと口角だけを上げた、いわゆるアルカイックスマイルをしたサキに固まったのは、ベッカーばかりでなく珍妙生物もだった。
「うえっほんっ……お前なぁ~もう分かった。言うだけ無駄だってことだな。安易に人に命令してくれとか言うなよ。シマダ サキ。分かったら、右手を上げろ。」
予想に反して、サキの手はぴくりとも動かなかった。
「あっ……!もしかして文字が違うのかも。」
サキは書き物机のインクと羽ペン、皮羊紙を使って漢字で島田 沙姫と書いてベッカーに渡した。
「見たことない文字だな。この辺りで使われてるゾンガ文字には程遠いし、南の山間にある小国使われてるデルベ文字に近いか。
ってなぁ。おい、てめぇ……何考えてんだっ!スペルとか文字は言葉以上の力を持つんだぞ。」
ベッカーは机に置いてあったランプの火で紙を焼いてしまった。
「良いか。こんな辺鄙な村でさえ、やってはいけないレベルの所業だぞ。迂闊過ぎるわ!島田 沙姫、これから金輪際考えなしに行動するな。俺の近くを離れるな。分かったら右腕を上げろ。」
と言われても全く動かない右腕。言うことちゃんと聞くよ、と沙姫はベッカーに口では誓った。
それからリザベラだの女神だの考えられるすべての名前を挙げても、サキの右腕は動く気配が全くなかった。
沙姫は"島田沙姫"とは別に真名を持っている、もしくは、真名に操られないだけの何らかの力を持っているという結論に達した。
「真名が島田 沙姫かは不明だが、一応通り名は必要だ。通り名は自分になじんだものでないとだめだ。
名前を呼ばれて分からないような奴は信用されない。いくつも名前があるのを自分で言ってるみたいなもんだからな。
名前がいくつもある奴も知ってるが、奴は管理が徹底してるからな。俺も全部は知らん。
後、敬語禁止な。敬語を正確に喋ることができるのは、王侯貴族か騎士団にいるような人間だけだ。
平民はまず話さない。敬語を話すと否応なしに目立つことになる。誘拐の危険も増える。」
「敬語はがんばってみます……がんばる。うーん。沙姫……サキ……さひめ…ひさめ…ヒサメでどうで…どうかな。
沙姫の姫の字はひめとも読むの。だからヒサメ。」
貴族や王族、王の外戚しか使ってはならない名も存在する。
ベッカーは脱敬語の道も険しければ、こいつの本当の身分を考えれば旅も難しくなるかもしれないと溜息を禁じ得なかった。
このときベッカーが姫の字を使えるということは、本当に貴族かもしれないと思うのは杞憂に終わることになったのだが。
タイトルを"ベッカーvs珍妙生物 一回戦"と迷ったんですが、
こっちにしました。
馬には身体強化の魔法がかかった鞍をつけてました。
が、基本はフィクションです。馬が9時間も走れるわけないです。
1時間の休憩があっても2時間も走らせれば泡噴いて倒れるはずです。
注)大幅改定しました。3月27日に。
透夜の性格が大幅に変わりました。
その他は情報の出し方と順番を変えただけで同じ話です。