儀式
人が人として存在する世が生まれて以来、常に表裏一体として生まれて来た、魔と云う存在。人の内底にも闇は侵食するも、人にはそれを打ち破る光が必ず同居する。魔の心中に、光は在らず。胎動するのは漆黒の闇のみ。これはあくまで人間の勝手な思いであるが、少なくとも人間にとって魔の存在は、脅威以外の何ものでもなかった。
何故、その力がその人間達に与えられたのか、それを知る者はいない。当人達ですら、その真意は全くもって霧の中だ。だが、確かに禍々しい魔の存在を葬り去る力を宿した者が世に産み落とされたのは、紛いもなき事実である。
以来、数え切れない程の戦いが、力を持つ人間と、魔との間で繰り広げられた。倒し、倒され、お互い一歩も引かぬ壮絶な死闘。和睦など一切ならぬ、先の見えない争い。何時しか力を持つ者は「守護者」と呼ばれ、その血は代々継がれるものとなっている…。
果てしなく広がる大海。断崖からそれを眺めながら、一人の青年は瞳を細めた。潮風が柔らかくその髪を撫でる。心地よい初春の陽光。新緑の芽吹きが生命の輝きを躍らせる。木々は葉の衣の合間から可憐な色彩を覗かせ、その香りは風に乗り、人々の鼻腔を擽る。この季節が一番好きだな。青年は大きく呼吸を吸い込むと、少し微笑んだ。
「準備は、もういいのか?」
背後からの声に、青年の表情が少し不満げに曇る。情緒のカケラもない、沈んだ声。およそ春の穏やかさとは程遠いな。
「ああ。用意って言っても、特にないし」
不機嫌を隠さず、青年は応えた。振り返る。青年の眼前に、声の主である男が立っていた。老人と云うにはまだ若い、白髪の男。青年の返答に、口元を少し釣り上げる。笑っているのだ。その態度が、青年を再び不機嫌にさせた。
「余裕がありそうだのう」
白髪の男が細い眼差しを青年に向けながら、くっくっと喉を鳴らした。笑ってる。
「別に。只、別に恐ろしいわけでもない」
ぶっきらぼうに青年が応える。白髪の男が、満足気に頷く。
「行くぞ」
そう言うと、白髪の男は青年に背を向け、歩き出した。
道は、すぐに深い森に伸びる。初春の陽光瑞々しい葉の間から木漏れ陽となり、二人の頬を、衣服を、足元を照らす。響きわたる鳥の歌声が、耳に安らぎを与えてくれる。
特に何か喋る訳でもなく、青年は黙々と白髪の男の後ろに続いて歩く。暇を持て余すかのように、腰に差した刀の柄を撫でながら。
道は少しずつ、細くなっていく。木々の茂みもそれに比例して深くなっていくが、木漏れ陽は今だその処処に光の線を織り成している。相変わらず、二人は口を開かない。
不意に、森が開けた。無論、二人には驚く光景ではない。この場所に向って歩いてきたのだから。
一人の男が、倒れた大木に腰をかけている。広場に現れた二人の姿を確認し、微かに微笑む。切れ長の瞳に、優しい光が差す。片方だけ。
「兵衛殿」
青年が声を上げ、足早に近づいた。兵衛と呼ばれた男が微笑んだまま腰を上げる。
「虎一、いよいよだな」
長い黒髪を後ろに縛った兵衛が、青年に声をかけた。瞳同様、優しい声だ。
「別に望んでる訳じゃないけど」
虎一と呼ばれた青年が応える。白髪の男への返答とは少し違う、親しみのこもった声。
長い黒髪、虎一と呼ばれた小柄な青年よりも少し高い背、細身な体躯、そして、優しい右目と、閉じられた左目。隻眼。名を叢雨兵衛。今年で四十歳。守護者の血を引く者。
無造作に刈られた頭髪、細身ながら、衣服の上からでもわかる引き締められた体躯、若さ溢れる少し大きめの溌溂な眼光。相良虎一。今日、二十歳になったばかり。
そして白髪の男。相良永泉。六十歳。虎一の父。守護者の血を引く者。
三人の眼前、今まで通って来たそれとは雰囲気の違う、鬱蒼とした森。良く見ると、細い綱のようなものが、大木同士を繋ぎ合っている。どれほどの範囲なのだろうか。ぐるりと壮大に取り囲んでいるようだ。
「さっさと終わらせる」
相良虎一は言い放つと、暗黒の形相を覗かせる巨木群に歩を進める。叢雨兵衛、相良永泉、共に無言。永泉に至っては、うっすら笑みを浮かべている。
綱の前に立つ。深い闇。陽光は深い葉に遮られているのか。明らかに感じる、禍々しい負の妖気。それでも、少なくとも虎一の表情に一切の変化はない。
無造作に、綱を飛び越える。その瞬間、綱の外界の景色が一切消えた。振り返る。見える筈の兵衛、永泉の姿は見えない。焦りはない。こういうものなのだと感じるだけだ。
暗黒の森。一歩、一歩、歩を進める。腰の刀に手をかけながら。焦りや緊張はない。しかし、勿論油断もしていない。嘲笑って挑めば、命を落とす可能性も低くないことは十分に承知している。その上で、自信もある。
急速に、辺りの空気が冷気を纏う。虎一の瞳が左右を見渡す。気配。感じる。人ではない。例えようのない、粘着するような妖気。
「…!」
頭上から。青白き奇態が声もなく虎一に襲いかかる。草履が大地を蹴る音。二体の妖魔の長い腕のようなものが、今虎一の立っていた地面を叩く。後方に飛んで交わした虎一が、猿のような青白き影を纏った妖魔に踏み込むと同時に抜刀。左右に風の如く振るう。二体の妖魔は猫のような奇声を発し、瞬く間に蒸発した。何事もなかったかのように、虎一は下段に刀を構える。その刀身は、ほんのりと赤く輝いている。通常の刃では斬ることの出来ない妖魔。虎一は体内に流れる退魔の気を刀身に宿しているのだ。この力、まさしく守護者の血を引く者の専売特許。
枝枝がざわめいた。殺気。粘りつく妖気。上下左右、前後から、無数の妖魔が一斉に虎一向って飛びかかってくる。
迷わず虎一は前方に飛んだ。下段からの一振りで、二体の妖魔が断末魔を上げる。激しい攻撃を一寸の見切りで交わしながら、赤色の刀身を確実に打ち込む。動きを止めることはしない。常に走りながら、正確無比な斬撃。
後方からの鉤爪の一撃を前転して交わし、立ち上がり様懐からギラリと光るものを投げ付ける。勿論それも赤い気に纏われている。苦無。妖魔の額を貫き、大木に突き刺さった。右から襲いかかる妖魔を袈裟に斬りながら、苦無を引き抜く。返す刀で頭上に放つ。妖魔の股間から頭頂を、苦無が貫通した。斬っては駆け、投げては駆け、一体、また一体と妖魔が溶けていく。虎一、呼吸の乱れは全く無し。
突然、地面が揺れた。反射的に大地を蹴り、大木の枝に腕を回し、曲芸師の要領で枝の上に立つ。眼下の大地が轟音を立てて裂けた。二つ、三つと枝を飛び移り距離を取る。
割れ目から姿を現したのは、巨大な岩の塊だった。腕があり、脚がある。頭には二つの黄色い光があった。おそらく目であろう。
「親玉…か?」
虎一は不敵に笑った。その瞬間、岩の化け物の掌から、数個の石礫が飛来。枝から落ちるような格好で難なく交わす。再び礫。右に飛ぶ。礫。また右に飛ぶ。
「そんなの当たらねえよ」
言いながら、懐の苦無を右手で取り出す。同時、左手に握る刀を脇下から後方に突き出した。
「ギャア…!」
猫のような悲鳴。今まさに鉤爪を降り下ろそうと策していた妖魔が蒸発する。虎一、油断はない。
振り返らず、苦無を一直線に化け物目掛けて飛ばす。狙いは目。腕を上げて化け物がそれを防ぐ。巨体に似合わず、中々に反応が早い。
再び石礫。今度は両掌から広範囲に。伏せるような格好で交わしながら、三つを刀で弾き返す。二つが化け物の胸と右脚を打ったが、化け物、意に関せず。見た目通り、硬い皮膚のようだ。
踏み込んだ。一瞬にして、化け物と虎一の距離が詰まる。まさに目と鼻の先。化け物が右腕を虎一に叩きつける。寸でで交わし、股ぐらを潜って背後へ。刀を振るう。右脚。キンと言う擦過音と共に、火花が散る。斬れない。化け物の右腕が唸りを上げながら竜巻のように襲いかかる。しゃがむ。髪の毛が触れる。思ったより速い。もう一度。今度は股間を斬り上げた。同じ。火花が散るだけだ。
化け物が蹴りを繰り出しながら振り返った。その動きに合せ、虎一は再び背後へ回り込む。二発斬撃。やはり斬れない。
(やはり目か…)
一度距離を取る。対峙。不気味に輝く化け物の眼光。
礫。弾き返し、距離を詰める。唸る右拳。眉毛付近で交わし、その腕に飛び乗る。神速。黄色い目。刀を突き刺そうとした瞬間、化け物が初めて口のようなものを開いた。
「お!」
思わず声が出た。同時に化け物の口から火球のようなものが吐き出される。間一髪、虎一は腕を蹴り、斜め後方へ飛び避ける。直撃を貰った大木が、紅蓮をまき散らしながら根元から崩折れる。
「危ない危ない…」
言いながら、化け物を見つめる。耳を劈く咆哮。化け物が土煙を立てながら大地に平伏した。その両眼。刀と苦無が突き刺さっている。あの交わし様の刹那に、刀と苦無を狂いなく両に目に突き刺したのだ。驚くべき反射神経。
ゆっくりと近づき、刀と苦無を抜く。両の目から血のような液体は流れておらず、光を失ったガラス玉が割れたようになっていた。
刀を鞘に収める。そして、右手の苦無を頭上に投げる。最後の悲鳴。妖魔が蒸発した。
ふわりと、陽光が差し込んできた。