モノラル【旧】
近代的なビルなどの建造物と古き時代を感じさせる城や石造りや煉瓦の家。それらが共存し、新しいものと古きものが見事に調和したこの街は、絵に描いたような景観だ。古き伝統を重んじる住民の愛情が窺える。あちこちに見られる曲がりくねった道は昔の名残で、泥棒よけのためでもあった。さまざまな店も並んでいる。カフェや洋服店、昔ながらの骨董品屋などだ。交通の便もよく、充実した施設が存在するこの街は実に住みやすく、活気に満ちた都市空間である。
18歳の少年ダリル・アボットは、今月からそんな町での生活を始めることになった。田舎育ちの彼にとってここは新鮮そのものだったが、彼が住む場所は町外れの薄汚いアパートでキッチンも付いていなかった。だからと言って彼は華やかな暮らしに憧れてこの町に来たわけでもなく、そのアパートにそれほど不満を感じてはいなかった。
――ここは寝るための場所
――目的は大学に行くこと
その条件さえ満たしていれば良かったのだ。
(雨だ……)
バイトの面接の帰り。道路を歩いていた彼の顔に一粒二粒の滴が落ち、手にもそれが当たり、すぐに雨だと気付く。そして彼は原付バイクにキーを差し込みエンジンをかけ、家路を急いだ。
彼の新居となったのはアパートの二階だった。帰宅するとすぐにラジカセの再生ボタンを押す。十年以上も愛用しているそのラジカセは故障もせずよく働いている。意外にパワフルな低音は、なかなかのものだ。といっても彼が聴く音楽はインストゥルメンタルが主流で、ベースやエレキギターなどの重低音を基調とするハードなロックや騒々しい曲は聞かなかった。だからと言ってトップチャートに並ぶようなインパクトの強い曲の良さが理解できないわけではなく、ただシンプルなモノラルで聴く音楽はとても心地よく、彼はそれが好きだった。 レコード版をCD化された物をたまにレンタルショップで借りて聴いていたが、出来れば本物のレコードの音源で聴きたいぐらいだった。
今年から彼はこの街の大学に通うことになった。そこは有名な医科大学で、エリートや医者の子供などが多数在籍している。彼がそこを選んだのは強い意志があるからだった。それは幼なき頃、共に暮らしていた祖父が発作を起こし倒れた時のこと。その地域には医療施設やその他の公共施設が整っておらず、家族が祖父を病院まで運んだ。到着した時祖父はまだ息をしており、すぐに処置を施せば助かる可能性はあった。しかし……
「担当医が不在なので他へ行って下さい」
それが受け付けの事務員の言葉だった。仕方なく、その病院から一番近くにある病院へと向かったが、着いた時既に祖父は昏睡状態に陥っていた。
――それから一時間後
祖父は帰らぬ人となった……
ダリルは悔しかった。病院を憎み、あの事務員を憎み、そして住んでいた――あの村を憎んだ。
今なら分かる。
あの時応急処置をしていたら、祖父は死には至らなかったと……しかし、時間は元に戻せない。せめて同じ悲劇が起きぬよう――自分は『救える医者』になろう。 設備の整った医療施設を作り……その為には、十分な知識と経験を養わなければならない――そう心に決めた彼は必死に勉強した。同年代の人間が過ごした青春の時も惜しむことなく勉強に費やし、同時に新聞配達をして入学資金を貯めて行き――そして、夢は半分現実となり、この大学に入学したのである。
学校生活は彼が思い描いてたものとほぼ同じだったが、いきなりやって来る合コンの誘いにはうんざりしていた。目のくりっとした顔立ちがキュートに見え、一見好感の持てる彼だが、中身は淡白でどこか冷めた感じの少年だ。そのためか、そんな軽い誘いに乗ったことは無く、気楽で良いなとはしゃぐ生徒達をいつも冷たい目で見ていた。 また同じような誘いを断ったあとである――
ふと一人の男子生徒に目が止まった。 生徒達が教室内でそれぞれに戯れている中、一人静かに頬杖を突いて座っている。横顔のラインはまるで寸分の狂いも無い精巧に作られたオブジェのようだ。窓に差し込む柔らかな日差しを反射する髪はココアのような風合いで、見事にその横顔と調和している。長めの前髪が少し妨げになっているが、目に掛かる部分から覗く瞳が逆に程よい色気のようなものを感じさせた。
「綺麗だろ? “ジョゼ”」
「!?」
突然話しかけられ、びっくりして振り向くと横に地味な銀のフレームの眼鏡をかけた小柄な男子生徒がいた。
「ジョゼ?」
「そう、あの頬杖を突いてる奴。あいつは成績優秀で、この大学にも推薦で入ったんだ――理事長のパパも気に入ってる」
「あの、君は……?」
「僕は、エドワード・ロスチャイルド。この大学の理事長の息子だよ」
そう言うとすぐにその男子生徒はどこかへいなくなった。
翌朝ダリルは肌寒さを感じながら原付バイクで大学へと向かった。並木通りに囲まれた校内はいつも似たような光景が広がっている。同じ時間に同じ人間が登校し、毎日代わり映えしない。そんな彼らのことをダリルが無関心なように、向こうもダリルのことに無関心だ。声を掛け合うこともなくすれ違う。
教室に入ると前列の空いている席に座った。隣りには、約一人分空けて男子生徒が座っていたが、彼は机に突っ伏していた。ダリルが席に座り教科書などを出していると、突然電子音が鳴った。
「……?」
するとその音に気付いた隣の男子生徒は、鈍い動きで机の上にある携帯電話に手を伸ばす。寝ぼけた様子でボタンを押すとその音は止んだ。彼は上体を起こし伸びをすると、ふとダリルを仰ぎ見る。
「おはよう……」
彼はココアブラウンの髪を掻き上げた。
「おはよう」
ダリルがそう返すと
「オレはジョゼフ・コールだ。よろしく」
彼は穏やかに微笑した ――水平に流れるような形の瞳で。
「オレは、ダリル・アボット……」
見惚れてしまった。頬が熱くなり、紅潮して行くのが分かる。この少年はあの時見た完全なる“美のオブジェ”だ。青を水で薄めたようなその瞳は透明度の高い海のようだ。それはずっと見ていたい容姿だった……
「あいつとは関わらないほうがいいぜ」
ある日ダリルは教室で突然、話もしたこともない男子生徒にそう言われた。
「あいつって?」
彼が尋ねるとその男子生徒はジョゼフ・コールのことを指すように顎をしゃくった。
「あいつはこの学校で告白して来た女を全員振ってるんだ。この前なんか学校一もてるメリッサのことまで振っちまって、男からかなり反感を買ってる。仲良くしてると友達がいなくなるぜ」
そう言われてみればジョゼフの周りには、いつも友達がいない――自分以外は……
しかし、そんなことは気にすることではない。自分は友達が欲しくて苦労してまでこの大学に入ったのではないのだから――そう思った。
「ダリル、今日家に遊びに行ってもいい?」
帰りがけにジョゼフが声を掛けて来た。
「ああ、でも……うちに来ても何もないけど」
そう言ったが、来て欲しくないわけではなかった。
「いいよ、何も無くて――じゃあ、行こう」
ジョゼフは嬉しそうに微笑んだ。
それから、ダリルは原付バイクでバイクのジョゼフを誘導し、ダリルの住むアパートへと向かった。この地域の天気は気まぐれだが、幸いにもその日は穏やかで雨が降ることは無かった。途中で安いシャンパンやつまみなどを買い、アパートに着く。
「わぁ〜オレが住んでるアパートに似てる!?」
部屋に入ると驚いたようにジョゼフが言った。
「ジョゼフもこういう所に住んでるんだ?」
「うん――あのさ、オレのことは“ジョゼ”って呼んで?」
「ああ……」
「じゃあ、呑もうか? 友達になった記念に」
ジョゼフは陽気にそう言った。それから二人はダリルが最近買った小さなブラックのソファーに腰掛け、乾杯した。
そして、呑み始めてから数分後……
「オレの名前はね……」
「……」
突然ジョゼフが語り始めダリルが彼のことを見てみると、酔っているのか空ろな目をしていた。
「オレは本当は“ジョゼフ”じゃなかったんだ」
「どういうこと?」
唐突な話の内容にダリルは首を傾げた。酔ってるな……そう思う。
「本当は……“ジョセフ”だったんだ」
「ジョセフ?」
ほろ酔いのダリルは漠然として、問い返す。
「……オレの母親が役所に届ける時、スペルを間違えてjozephって書いたらしいんだ。ふふっ……有り得ないだろ? こんなこと……ふふふっ……」
ジョゼフは吹き出すように、そして情けなそうに笑った。
「オレの母親は……バカなんだ――しょっちゅう家に男を連れ込んだり」
「……」
話の内容が重くなり、ダリルは困惑したがジョゼフは愉快そうに笑みを浮かべながら話を続ける。
「若いのから年取ったのまで、いろ〜んな男を連れて来て……同じ男はほとんど見たことがない。すぐに新しいのを連れて来て、子供がいるのも構わずやりまくってた」
言い終えるとジョゼフは哀しげに微かな笑みを浮かべた。そしてシャンパンをグラスに注ぎ一口飲むとソファーに身を預け、顎を天井に向けた。
「だからオレは女が抱けない」
「え?」
衝撃的だった。ダリルはすぐに意味を把握できず、伺うようにジョゼフの顔を見詰めた。
ジョゼフはそこで話を止め、つまみのナッツを黙々と食べ始める。
「女が抱けない……?」
疑問を捨て切れなかった。確かめずにはいられなくなる。
「子供の頃に植え付けられた母親の記憶がトラウマで……ベッドの上の女を見ると、どうしても浮かんで来てしまうんだ――“あの光景”が……だから、できないんだ」
「……」
ダリルはジョゼフが女を振り続ける理由が分かったような気がした。心に刻まれたその光景が悪夢となり、彼に女性に対する嫌悪感を植え付けてしまったのだろう。
ジョゼフはグラスに残ったシャンパンを飲みほし、再びシャンパンをグラスに注いだ。ダリルはそんな彼のことを静かにじっと眺めていた。水平に流れるような形の目、青空を映した水面のような色の瞳、筋の通った高い鼻、長い睫毛、少し厚めの下唇……どれもが繊細で純度の高い宝石や芸術品のようだ。こんなに側で、こんなにじっくりとその横顔を見るのは初めてだった。 気が付くと完全に見入ってしまっていた。その美しさの虜となり、もはや目を離せなくなくなっている。
「ねぇ」
「えっ!?……」
急に振り向いたジョゼフに驚き、思わずダリルは持っていたグラスの中身を零しそうになった。
「何か音楽聴かない?」
「音楽?」
ダリルの胸は異常なほど早鐘を打ち、動揺していた。ぎこちない返事を返すとジョゼフはソファーから立ち上がり、ラジカセの前にしゃがみ込む。
「何かCD聴こうよ」
弾むような声でジョゼフは言った。まるで子供のようにはしゃいでいる。学校では優等生で冷静沈着な印象を持つ彼だったが、意外な面を見てダリルは少し驚いた。
「うん……」
「わぁ〜これ聴きたい〜」
感嘆の声を上げジョゼフが取り出したのは70年代のヒット曲ばかりを集めたベストアルバムだった。さっそくそれを再生させる……
流れて来る音楽は彼らが生まれる前に作られたものだったが、不思議と懐かしさを感じさせ、それがとても心地良かった。ジョゼフは時々リズムに合わせて身体を動かし、ダリルはその音楽を聴くことで気持ちが安らいで行った。
何曲か聴いてからふとダリルが横を見ると、ジョゼフはグラスを片手に持ったまま瞼を閉じていた。
「ジョゼ……?」
そっと声をかけるが返事はなく
「寝ちゃったのか?……」
と顔を覗き込むと、静かな寝息だけが聞こえて来た。
「しょうがないなぁ……」
ダリルはジョゼフの持っているグラスをテーブルに置いた。そして彼の身体を横にして寝かせると毛布を掛け――そこで一瞬手が止まった。
「……」
夜中の11時を過ぎたその部屋にジョゼフの寝息が静かに響いていた……
翌朝、先に目覚めたジョゼフはソファーから起き上がろうと足を床に下ろした。
「う゛っ……」
すると呻き声と何かを踏んだ感触がして彼は下を見た。
「ダリル!?……」
「痛……っ」
床には寝転びながら頭を押さえているダリルの姿があった。
「ごめん!? でも、何でダリルがここに居るの?」
ジョゼフの頭は混乱した。
「何でって、ここは“オレの部屋”だから」
痛〜〜ッ、靴を脱がせれば良かったな……心の中でダリルはそう嘆く。
「ダリルの部屋?」
ジョゼフは辺りを見回した。テーブルの上はダリルが片付けてしまったので何もなく、自分の住むアパートに造りも似ていたが、ただ一つ“あるはず”のものがここには無かった。
二人はアパートを出ると駅前の早朝から営業しているファーストフード店に入り、登校時間までそこで寛ぐことにした。
「ごめんダリル。泊まり込んだりして……オレ、ずっと友達がいなかったから嬉しくて、つい舞い上がってた……」
哀しい表情でジョゼフが言った。
「気にするな」
ダリルは明るく笑顔で返し、それを見たジョゼフは安堵した。
「ダリル、今度はうちに来てよ?」
「え……?」
「一緒にレコード聴かない?」
「レコード?」
ジョゼフの意外な言葉に、ダリルは思わず目を丸くする。
「昔オレが家を出る時、祖父からもらったんだ。もう耳がよく聞こえなくなったからいらないって」
「本当か? オレ、ずっと生でレコードの音聴いてみたかったんだ……! じゃあ、絶対行くよ!」
ダリルはすっかり感激し、興奮気味にそう言った。
ダリルは24時間営業のファミレスでウエイターのバイトをしている。ある日バイトを終え、新しいシフト表を見るなり、さっそく彼は携帯端末から電話をかけた。
「ジョゼ、来週の火曜か木曜空いてるか?」
「ダリル? ……火曜なら空いてるけど……」
電話に出たジョゼフは、眠たそうな声をしていた。それもそのはず――その時、夜中の三時を回っていた。しかしダリルはこのことを早くジョゼフに知らせたくて、深夜であることをすっかり忘れていたのである。
翌週の火曜、大学の授業を終えるとジョゼフがバイクで誘導し、ダリルは原付バイクでジョゼフの家へと向かった。
ジョゼフの家は彼が言っていたようにダリルが住むアパートに造りがとてもよく似ていた。中へ案内されるとダリルは“例の物”が気になって仕方がなかったが、さっそくジョゼフがそれを見せてくれた。
「わぁぁ〜これがレコードを聴く機械なんだぁ……」
初めて見る本物のレコード・プレイヤーにダリルはすっかり感動して瞳を輝かせ
「何聴く?」
というジョゼフの問い掛けに
「じゃあ、これっ!」
と声が弾む。ダリルは嬉しそうに一枚のレコードを棚から取り出した。 それは70年から80年代前半にかけて一斉を風靡した伝説のロックバンドのものだったが、ミディアムテンポな曲が多く、誰もが口ずさみたくなる曲ばかりでロックはあまり聴かないダリルもこのバンドのものは結構好きだった。
やがて再生が終わるとジョゼフがプレーヤーの蓋を開け、中からレコードを取り出した。
「次は何聴く?」
すっかり気持ちを高ぶらせながらダリルがレコードを選んでいると下のほうに伏せて置かれた額縁を見付けた。彼はなんとなくそれをひっくり返す。すると椅子に腰掛けた男性を描いた絵が入れられていた。
「これって、ジョゼか?」
「ああ……そうだけど」
その絵の下の方にイニシアルが書いてある。
“E・R”
それが誰なのかダリルは気になった。
「この絵どうしたんだ?」
「もらったんだ。エドワード・ロスチャイルドに」
「エドワード・ロスチャイルドって、まさか理事長の……!?」
「そう、理事長の息子の」
ジョゼフは、あっさり答えた。
「お前、アイツと知り合いだったのか!?」
「うん」
それは意外で驚いたが、ダリルは何か不自然なものを感じていた。
「でも、何でアイツがお前の絵を?」
「分かんないけど、よく頼まれるんだ。絵を描くのが好きみたいで」
「よく?……この絵は何でもらったんだ?」
「それが一番よく描けたからあげる――って言われて」
ジョゼフは何の不信感も抱かない瞳でそう言った。
「それなら自分で持ってればいいのに……」
ダリルは何となく腑に落ちなかった。そして、彼がその絵をもとに戻そうとすると……
何かが外れて床に転がった。
「何だこれ?」
拾いあげると、それは何かの部品か機械のように見えた。
まさか!? と不吉な勘が過り、鳥肌が立つ。
「ジョゼ!」
「何?」
ダリルが急に声を張り上げたので、ジョゼフは少し不思議そうな顔で振り向いた。
「これに“盗聴器”みたいなものが付いてたぞ?」
「盗聴器?」
ジョゼフは理事長の家で娘の家庭教師をしているらしく、息子のエドワードとはそこで知り合ったと聞いた。そして度々、絵のモデルを……そんなことを考えながらダリルが校内の階段を下りて行くと、廊下にジョゼフとエドワードの姿を見付けた。ジョゼフは何やら困ったような表情をし、エドワードは何か説得をしているようだった。
しかし、その視線に気付いたエドワードはちらりとダリルのほうを見ると、逃げるように早足でいなくなった。
「?」
ダリルはそれを不審に思い、ジョゼフの側へ駆け寄る。
「ジョゼ」
「ダリル?」
「何か困ってたみたいだけど、大丈夫か?」
「……」
その問い掛けにジョゼフは苦笑いした。
「ヌードを描かせてくれって、頼まれてさ……」
「ヌード!?」
ダリルは唖然とする。
「それで、断ったのか?」
「いや……」
ジョゼフは首を横に振り
「まさか、OKしたんじゃ……!?」
気が気ではなかった。ジョゼフは無防備だと思ってはいたが、“そんなこと”があっていいわけがない。
「いや、まだ“イエス”も“ノー”も言ってない」
「そんなのすぐに断れよ!」
何で断らないんだ!? お人よしな彼に憤りさえ込み上げてきた。
「やっぱ、そうしたほうがいいのかなぁ……?」
ダリルは溜息が出た。呑気なジョゼフのその言葉にすっかり呆れてしまう。一息ついてから言葉を吐き出した。
「当たり前だろ?……すぐに断れ!」
「でも、お世話になってるしなぁ……」
「そんなこと関係ない! ――あいつは変態だ。お前のことを……『綺麗』だなんて言ってたし……」
それは自分が言った言葉ではなかったが、ダリルは言うのが恥ずかしかった。それを聞いたジョゼフは
「綺麗?……ははっ、冗談だろ」
と全く真に受けていなかった。
「今日、空いてる?」
ある晴れた日の午後、授業を終えるとダリルが言った。
「うん。空いてるよ」
ジョゼフはそう返事した。穏やかな陽気が心地いい。こんな日はカントリーでも聞きたいな。ダリルはそんなことを思いながら伸びをした。
すると携帯電話の着メロと連動してバイブが鳴った。
「……」
ジョゼフがバッグから携帯電話を取り出し、着信メールを読む。
「ごめん、今日彼女がうち来るってメールが来ちゃった……」
「彼女?――」
ダリルの頭の中は真っ白になった。
「本当ごめん! また今度っ」
申し訳なさそうにジョゼフは言ったが、ダリルは何も言わずに無言で去って行った……
ダリルは原付バイクを飛ばした。このままフルスピードで駆け抜けたい気分だ。スピードを上げると容赦なく風が全身に吹きつける。空は穏やかに晴れていたが、彼の心は薄暗く曇り、ぽっかりと浮かぶ怪しげな雨雲を連想させた。それはまるで土砂降りの前のような……
自宅のアパートに着き、部屋に戻ると彼はCDを流した。
「――」
70年代のベストアルバムを聴き――それに浸る……
しかし、すぐに気分は苛立ちへと変わった。
「くそっ!」
クリアなその音は鮮明に当時の楽曲を再現していたが――違っていた。
彼は“あの音”が聴きたかった。
ターンテーブルに乗せたレコードに
モーターアームの先に付いた針を乗せ
回転を始めた瞬間……
パキパキッと擦れる
レコード盤との
――摩擦音
回転が進み
それをシンプルに再生する
スピーカーの あのモノラルの音が
ジョゼフに彼女ができたことはすぐに校内で噂になった。ジョゼフはもちろんのこと、ダリルが誰かに話したわけでもない。どこかで見かけた者がいたのか、とにかく根も葉もない噂ではなくそれは事実だった。
「あいつ趣味悪いな」
「何で、あんなブスなんかと」
相手は同じ大学の生徒で地味で目立たない同級生の女子らしい。悪い子ではないのかもしれないが、散々他の美人な女子生徒達を振り続けてきたジョゼフが彼女を選んだことに納得するものはいなかった。誰もが二人を祝福せず、非難と嫉妬の嵐である。そんな中ダリルは彼女がどんな女性か知らなかったが、やはり祝福はしていなかった。そして、その存在を知ったあの日以来――彼とは距離を置いていた。
『女が抱けない』
そう言った彼も、彼女を抱くのだろうか
キスは……
こんなことを考えてしまう自分が分からず、苦悩する日々が続く。
ある日の明け方、深夜のバイトを終え帰宅すると玄関の前で携帯電話の着メロが鳴った。
上着のポケットからそれを取り出す。
“Jozeph”
ディスプレイの表示がそれを示す。着信はジョゼフからだった。
「……」
ダリルは電話に出るのをためらう――しかし、電話は鳴り続けていた。
「……ちっ!」
舌打ちをしながら仕方なくダリルは電話に出ることにし、端末を耳に当て――
「――」
話したくないので無言で待つ……
《良かった。出てくれて……》
久しぶりに聞く、ジョゼフの声。
「何か用か?」
冷たくダリルはそう言い放った。
《彼女が死んだ》
「――?」
ダリルは言葉を失った。
《オレは彼女と恋人のふりをした――彼女はあんなに幸せそうにしてたのに……オレに愛されてると思い込んだまま死んでった……だから、“罪を償う”ことにした》
「!?」
衝撃が走った。悪夢の妄想がジョゼフを予期せぬ最悪の結末へと引き寄せ、急速に展開し始める。
「ジョゼ!? 何を考えてる!」
《ダリル、最後にオレの声を聞いてくれてありがとう……》
電話の声はそこで途切れた。
「ジョゼ?……」
ダリルは闇を振り切るかのように原付バイクを飛ばした。信号待ちが煩わしい。立ち並ぶ家々がうっとうしい。ぜんぶ突き抜けて一直線に彼の元へ行きたかった。ただの勘違いか、冗談であってほしい。しかしジョゼフは冗談であんなことを言うような奴ではない。ジョゼフがいなくなってしまう……! そう思えてならなかった。
ジョゼフの住むアパートに着くと無我夢中で階段を駆け上がり、ジョゼフの部屋のチャイムを鳴らした。
「……」
しかしドアの向こうは無反応で、苛ついてドアノブを捻り引っ張ると――ドアが開いた。
「……ジョゼ!?」
彼はすぐさま部屋に駆け込んだ。
「ジョゼ!?」
室内を見渡すが、ジョゼフの姿は見当たらない。
「どこだよ……ジョゼ?」
泣きたくなるが冷静に考えを巡らす。そしてシャワールームへ行き、ドアを開けた。
「ジョゼ!?」
するとそこに、ぐったりとして壁に横たわるジョゼフの姿があった。大量の血が流れ、床に広がっている。
「ジョゼ――!?」
呼び掛けるとジョゼフは少しだけ瞼を開けた。
「ダリル……来てくれたんだ?……」
細くかすれたような声で彼はそう言い、最後の力を振り絞るように弱々しく微笑んだ。
「何で、こんな……」
ダリルの身体が震え出す。眼はギンギンに開かれていた。ジョゼフの両手首はリストカットされ、いくつものためらい傷と深い傷とがあり、その傷、血液を見ると気が狂いそうだった。それが覚めない悪夢であり、現実ということから回避したくなるがそんなことができるわけもない。血だらけになりながらジョゼフを抱き締める。
「ダリル……」
ジョゼフはそう言うと脱力し、意識を失った。
「ジョゼ――――!?」
病院に運ばれ、ジョゼフはなんとか一命を取留めた……
「命に別条はありませんが、安静が必要です」
医師にそう告げられダリルは少し安心したが極度の精神的な疲れを感じ、精神安定剤をもらった。しかし、それも全く効果は得られず、ジョゼフのことが心配で堪らなかった。
「ジョゼ……」
病室のベッドで静かに瞼を閉じるジョゼフの姿は弱く、今にも死んでしまいそうで怖かった。
「……」
死んだりしないよな?
血は足りてるよな?
医者が大丈夫って言ったんだから
絶対平気だよな?
ダリルは心の中で自分にそう言い聞かせるしかなかった。彼はジョゼフの側から離れたくなかったが『安心して学校へ行ってください』という医師の説得で仕方なく大学に行った。
その日の授業はこれまでにないほど一分一秒がとても長く感じられた。教授の話も口の動きが見えるだけで何を言っているのか分からない。まるで上の空だった。周りの学生達は映像で、自分はそれらをテレビ画面から見ている視聴者のような感覚だ。
やがて長かった授業を終えると、ジョゼフの入院している病院へ直行した。
病室までやって来てドアを開けたダリルは唖然とした――そこにジョゼフの姿はなく、シーツを変えていたナースがこちらを振り向いた。
「あの、この病室にいた患者は……?」
「ああ、あの患者さんなら相部屋に移動しましたよ――23号室です」
ダリルは、すぐにその部屋へ向かった。中に入るとパジャマを来た中年男性の患者同志が起きて、他愛もない会話をしている。その奥に窓側に顔を向け、ベッドで寝ているジョゼフらしき人の頭が見えた。
側で見てみると、やはりジョゼフだった。
「ジョゼ?」
声を掛けるとジョゼフは振り向いた。
「ダリル?」
彼はまだ顔色が良くなかったが、確かに
――生きている。
動く彼の姿を見ることは、気休めの精神安定剤なんかよりも確実にダリルを安心さてくれた。
「傷、痛むか?」
「うん。でも、動かさなければ平気」
明るい笑顔が返ってくる。一時はもう、二度と見れないかもしれないと思った人懐こい、その笑顔が目の前でまた見れた。
「そうか……」
だが彼の両手首に巻かれた包帯が、痛々しい。
傷はどうなったのか?
綺麗に縫合してあるのか?
その傷跡は残らないのか?
腱は傷付いていないのか?
ダリルは心配で堪らなかった。その身体に傷跡を残してほしくない。
「傷は、ほとんど残らないって」
何故か微笑してジョゼフが言った。
「そうなんだ……」
ダリルは少し、また安心した。
「医療用メスで切ったから、切り口が綺麗だったみたい」
「……」
「細かい傷がたくさんあっただろ? 実は、なかなかできなかったんだ。怖くて手が震えちゃってさ、クスッ……医者になろうって奴のメスを握る手が震えてたんだぜ? 笑えるよな。クスクス……」
まるで笑い話のようにジョゼフはそう言った。
「ふざけるな」
「……?」
ダリルの真剣な言葉と表情にジョゼフの表情は凍り付く。
「死にたくないのに死んでった人がいるっていうのに……自殺して、罪が償えるなんて思うな?――彼女の分も……生きて償え!」
ジョゼフの彼女の死因はクモ膜下出血だった。数日前、貧血で倒れた時頭を打ち、その時の検査で脳動脈瘤が見付かった。そして医師に手術を進められたが彼女はそれを断り、余生を生き抜くことにしたらしく
『もうすぐ死ぬって分かったら、こんなにも大胆になれるものなのね』
そのことをジョゼフに全て打ち明けた。もうすぐ死ぬから恋人になってほしいと。
ジョゼフはそれを承諾し
恋人を演じた。
「彼女は綺麗だったんだ。どんな美人の女優やモデルにもない、美しさを持っていた」
彼女のことを知らないダリルにジョゼフはそう話した。そして彼女が亡くなる前日、二人はベッドを共にした。
――その事実も
「……」
その事実はダリルの心を深く抉った。
――最低だ
オレは……
死人に“嫉妬”するなんて……!
ダリルはその気持ちをなんとか打ち消そうと、自分自身の中で葛藤した。
そして
「お前は、彼女を幸せにしてあげたんだな」
言いたかったこととは全く別のことを口にした。
「彼女は、その病気になったことと引換に、お前を恋人として手に入れたんだ」
穏やかな口調でそう言い。
「死んでしまったら意味ないじゃないか……?」
ジョゼフは泣いていた。
「彼女は死ぬ前に幸せになれたんだ。悔いを残して死んでったんじゃない――“意味”は、あったんだ」
ダリルはジョゼフの微かに震える肩に触れようとしたが言葉で、そう慰めた。
彼女の葬儀は『義理で参加されても娘は浮かばれない』という父親の強い希望から、身内だけで行われることになった。その為、大学の関係者――もちろんダリルも出席しなかったが、ジョゼフはそれに出席した。
彼は彼女を恋人として愛してはいなかったが、彼女という一人の人間の尊い命が失われたこと、死ぬ前、彼女がどれだけ純粋に彼を求め
そして、それが最期であったことを悔やみ……
ダリルがこの町に来てから四度目の六月。彼は大学の卒業の日を迎えていた。毎年式が行われるのは丘の上の大聖堂で、卒業生達は皆、伝統である黒のマントと博士帽を被る。見物客もいる中晴れやかに式は行われ、無事幕を閉じた……
これでまた夢へと一歩近付けた。次は総合病院で働きながら経験を身に付け、やがては故郷に病院を建てる――その夢に向かって……
現実主義で冷静な彼も、この時は喜びで少し涙が零れた。そんな中ジョゼフは、女子生徒達からの熱い抱擁や接吻を受け、彼の周りにはすっかりハーレムができていた。そのハーレムから逃れるように、彼はダリルの側へとやって来た。
「ダリル〜」
そう言った彼は少しやつれ気味だった。
「モテモテだな?」
ダリルはちょっぴり意地悪な顔で笑う。こんなジョゼフを見られるのも今日で最後かもしれない。しかし、それは二度と会えないと決まったわけでもなく、会おうとすれば会えなくもない。だが……
この気持ちは過去に置いて行こう
そう決めた。
そしてダリルは最後にジョゼフを抱き締めた。その声も、髪の色も、海のような青い瞳も、その形も、全て記憶の中に刻み込む。そして二人で聞いたレコードのあのモノラルの音をBGMに……いつかまた思い出すだろう。
快晴の空が今日の日を祝福してくれている。心地よい風は二人を新たな道へと導き、別々の世界が存在することを知らせているようだった……
ラストシーンは、『ORDINARY WORLD』を聴きながら読んで頂けるとうれしいです。(この話のイメージソングなので♪)
※続編も執筆中です。出たらそちらも是非、御覧くださいませ♪