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指示            :約2000文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/10/09

「はいはい、今帰りましたーっと……」


 とある夜。アパートの一室に帰ってきた彼は、スマートフォンを耳に当てたまま玄関のドアを閉めた。


「靴を脱いで、洗面所に向かってまーす。はい、着きました。蛇口をひねって水を出して、うがいと軽く顔をすすぎますよー」


 そんな調子で話しながら彼は薄暗い廊下を歩き、自室に足を踏み入れた。窓際のレースカーテンの向こうの街灯の光だけが壁や家具の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。


「灯りをつけまーす」


 そう言って、彼が壁の電気のスイッチに手を伸ばした、そのときだった。


「動くな」


 横からぬっと人影が現れた。

 彼は思わずびくりと肩を跳ねさせた。伸ばしかけていた手はスイッチの直前で止まり、息を呑んだ。


「そのまま悟られないように電話を切れ」


 低く冷たい男の声だった。


「え、え、あの、えっと、あのー」


「そのあと、電話を床に置け。いいな。逆らったら殺すぞ……」


 そう言うと、男はわずかに腕を動かした。一瞬、その手の中にあるものが鋭く光った。どうやらナイフらしい。彼は小さく喉を鳴らした。


「いや、あのですね、ええと、いやー、いや、別に一人ですけど」


「早くそれらしい理由を言って切れ……」


「ええ? ええと、それらしい理由ですね。あー……」


「こっちの話はするな」


「あーっと、いや、別に普通ですけどね。ええ、何も起きていませんよ。え? いや、ほんとですよ」


「いや、下手か?」


 男は眉をひそめた。


「下手? あ、いや、違うんですよ。こっちの話です。ですよね? ね?」


「おれに呼びかけるなよ」


「えっと、ですからね、今、リビングに入ったところでして、ええ、これから電気を点けようかなと」


「いや、さっきから自分の状況を喋りすぎだろ」


「えーっと、ですからね、いや、別に他に誰もいなくてですね……え? いや、ほんとですよ。ええ、え? いやいやいや」


「悟られかけてるだろ。さっさと話を切り上げろ」


「ええ、ええ。本当に一人なんです……ええ、毎日寂しくて、恋人が欲しくて……」


「どうでもいいだろ。いや、まあいい。納得してもらえたらすぐに切れ」


「だから、そのう、ね、あの、エッチなサイトに登録したりして……」


「そんな話をされても相手は困るだろ。もういい。早く切れ。それから金だ。カードも出せ。殺すぞ」


 男は苛立たしげに言いながら、ナイフを彼の顔の前でちらつかせた。彼は無意識に目だけでその動きを追い、ごくりと唾を飲み込んだ。


「え、え、いや、はい。あの、そろそろ一回切らないとって感じなんですよね、はい」


「そうそう、そうやって自然な感じで切れ」


「あ、はい。はい。いや、でも違うんですよ。え? いや、別に変じゃないですよお、もおーうふふふ、やだもー、やだやだ、いやん」


「変だろ……。いや、いいからさっさと切れ。それとも逆らうつもりか?」


「いや、全然全然、そんな、逆らうつもりなんてないですよ! 信じてください!」


「だから、こっちの話はするなって言ってるだろうが! 悟られるだろ……!」


「あ、あの、はい、はい、わかっております。はい、それはもちろん。え、ええ、はい、はい、ははい、はいはい、はいはいはーいはいはいはい」


「どういう会話してんだよ」


「ええ、もちろん、もちろんですよお。もーう、物騒なのはナッシングにしましょう? ね?」


「何触ってきてんだよ! 離れろ!」


「ええ、ええ、もちろんです。はい……はい……」


「そうだ。そうやってトーンダウンさせていけ」


「はい……はい……必ずやります……はい……はい、はいっ、ははいっ、はいはいっ、はいははいはいっ!」


「上げるな。下げていけ……!」


「はい、はい……ええ、もちろんです。はい」


「そうだ。相手に警察を呼んでもらおうなんて考えるなよ」


「いや、警察なんてそんな全然……」


「だから、こっちの話に反応するな! 馬鹿か!」


「いや、そうではなくてですね、ええと、いや、全然、全然、はい」


「もういい。五秒以内に切れ。殺すぞ」


「ええ……はい、やります。もうやります。はいはい。必ず……!」


「よし……は?」


 男は思わず声を漏らした。

 彼はスマートフォンをゆっくりと耳から離した。しかし、床には置かず、そのまま胸の高さで構え、まっすぐ男に向けたのだ。


「えっと、見えますか……?」


「いや、ビデオ通話か? お前、何してやが――」


 男が逆上しかけた、そのときだった。

 彼の拳が男の顔面を正面から捉えた。鈍い音が部屋に響き、男は床に倒れ込んだ。すると彼は間髪入れずに飛びかかり、男に馬乗りになると、そのまま拳を振り下ろし続けた。


「やってます! やってます! これで! いいですか! どうですか! はい! はい! はい! ははい! はいはいっ! ねえ、どうですか! もう動かなくなりましたよ! ねえ、そろそろいいですか! まだですか! これでどうですか! ちゃんと指示どおりにやってますよ! 『一番近くにいるやつを殴りに行け』って! 言われたとおりに! だから! だから……僕の……あのー、恥ずかしい写真をばらまくのだけはやめてください……。お願いですから……警察にも絶対に言いませんし……あれ? あのー、もしもし? もしもーし……」

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