十五話「二つ目の星」
翌日、午前九時二十分。
北部区域、旧星務庁第四資料棟。
六年前まで星脈医学研究棟の資料保管施設として使われていた建物は、周囲を高い金属柵に囲まれていた。
地上四階。
地下二階。
外壁の一部は黒く変色し、窓のほとんどが内側から塞がれている。
正面入口の上に残された星務庁の紋章も、半分以上が剥がれ落ちていた。
「ここに、御門朔夜の研究記録が残っている可能性があるんですね」
雨宮奏が建物を見上げる。
《正確には、星魔第二確認個体に使われた三人の記録だよ》
戦術通信端末から、扇原蘭の声が届く。
《昨日確認した研究番号の一つが、この施設から発行されていたの》
「星務庁には記録が残っていなかったのでは?」
「正式な研究記録は削除されてるよ。でも、当時の資料搬送記録までは消されてなかったの」
奏の端末へ、六年前の記録が表示される。
第四資料棟。
地下第二保管区画。
搬入物――星脈接続試験記録。
搬出記録は存在しない。
《書類か記録媒体が、今も残されている可能性がある。今回はそれを確認してほしいの》
『分かりました』
九条桜が答えた。
その後ろには、柊木伊織と水城斗真が立っている。
今回の調査へ参加する心導隊は四名。
桜。
奏。
伊織。
斗真。
さらに、建物の安全確保を担当する創雅隊隊長、鷲宮彩乃。
空間異常を調査するため、界航後方支援部隊副隊長の相馬千景が同行していた。
「建物全体の構造は確認したわ」
彩乃が端末へ表示された設計図を見る。
「老朽化は進んでいるけれど、今すぐ崩れる状態ではない。地下へ下りても問題ないはずよ」
「空間座標にも大きな異常はありません」
千景が地面へ手を触れる。
淡い紫色の星素が正面入口から建物内部へ流れていく。
「ただし、地下二階の一部だけ座標が僅かにずれています」
『どの程度ですか?』
「約十二センチです」
「建物そのものが動いたんですか?」
斗真が尋ねる。
「違います。部屋の位置は設計図と一致しています」
千景は端末の立体図へ、紫色の点を表示した。
「空間の座標情報だけが、意図的に別の場所へ重ねられています」
「中継点ですね」
奏が言った。
「幽星から引き出した星素の到達地点を隠すため、複数の座標を経由させていた。その一つがここにある」
《私も、その可能性が高いと思う》
蘭が答える。
《中継装置が残っていたら、無理に解除しないで。現在地を記録するだけでいいよ》
「御影隊長のゲートは?」
伊織が千景へ顔を向ける。
「今回は使用しません。移動を目的とした任務ではありませんから」
界航隊が担当するのは、あくまで後方支援である。
今回、必要とされているのはゲートではなく、地下空間に残された座標の調査。
そのため、空間座標を固定できる千景だけが派遣されている。
「私の界錨で、異常な座標の動きを抑えます。ただし、何が接続されているのか確認できるまでは、完全には固定できません」
『十分です』
桜が建物へ顔を向ける。
『それでは、調査を開始します』
◇
旧資料棟の内部には、紙と埃の匂いが残っていた。
受付台。
壁際に並ぶ長椅子。
星務庁の施設であることを示す案内板。
放棄されてから六年が経過しているにもかかわらず、当時のものがほとんど手つかずのまま残されている。
「人がいなくなったというより、突然いなくなったみたいですね」
斗真が受付台へ積まれた書類を見る。
「片づける時間もなかったのかもしれないわ」
伊織が床へ視線を落とす。
埃の上に、新しい足跡はない。
少なくとも正面入口から入った者はいないように見える。
『奏』
桜が奏を見る。
『何か聞こえますか?』
「試してみます」
奏は受付台へ手を触れた。
「リフレイン」
金色の星素が、指先から木製の台へ流れ込む。
その場所に残された声が蘇る。
「第四資料棟、入館許可を確認しました」
「地下資料の閲覧には主任研究官の承認が必要です」
「御門主任は、今日は研究棟にいらっしゃいます」
六年前、ここで働いていた職員たちの声。
書類をめくる音。
端末を操作する音。
受付を通過する人々の足音。
どれも日常的な感情しか残していない。
「ここでは何も起きていません」
奏が手を離す。
「少なくとも、この受付には強い感情は残っていない」
『地下へ向かいましょう』
桜を先頭に、一行は奥の階段へ進んだ。
地下一階。
扉の並ぶ長い通路。
資料の分類番号だけが壁へ表示されている。
斗真が立ち止まり、目を閉じた。
「音の反射がおかしいです」
『どこですか?』
「右側の壁。設計図では資料室があるはずですが、その手前に空間があります」
斗真が壁へ手を向ける。
「無響室」
周囲から音が消える。
斗真の星素に覆われた範囲だけ、音の伝わり方が遮断される。
壁の奥から返ってくる振動が、輪郭となって浮かび上がった。
「壁の内側に、別の壁があります。間隔は一・八メートル」
「隠し通路かしら」
彩乃が壁面へ手を触れる。
「白亜」
白い星素が広がり、既存の壁へ沿って薄い枠を形成する。
壁の表面へ、設計図には存在しない接合部が浮かび上がった。
「あとから塞いだのね」
彩乃が接合部へ指をかける。
白亜の枠が内側へ食い込み、壁の一部を扉のように切り離した。
重い壁が、ゆっくりと手前へ倒れる。
その向こうに、人一人が通れるほどの狭い空間が現れた。
「先に確認します」
伊織が前へ出る。
「盲点」
伊織の存在感が薄れる。
姿は見えている。
それでも意識を外せば、そこにいることを忘れてしまいそうになる。
伊織は隠し通路へ入り、奥を確認する。
「罠はありません。地下へ続く階段があります」
桜たちもあとに続いた。
階段は、建物の正規構造とは別に造られている。
壁は剥き出しのコンクリート。
照明もない。
床には、太い配線と星素伝導管が這っていた。
千景が伝導管の一つへ触れる。
「座標のずれが大きくなっています」
「この先ですか?」
「はい。地下二階の保管区画と、別の座標を繋いでいる」
《接続先は追える?》
蘭が尋ねる。
「残留反応だけでは難しいです。ただ、どこかへ星素を送るために使われた形跡があります」
「幽星から引き出した星素ですか」
「波形は一致しています」
千景が立ち上がる。
「ここは、中継点で間違いありません」
◇
地下二階。
階段の先には、金属製の扉が一つだけ設置されていた。
取っ手も認証装置もない。
扉の中央へ、薄い黒色の板が埋め込まれている。
「黒い装置と同じ素材ですね」
奏が板を見つめる。
《星素波形も一致してるよ》
蘭が答える。
《でも、起動反応はない。今は動いてないみたい》
『触れずに開けられますか?』
「やってみるわ」
彩乃が扉の周囲へ白亜を展開する。
白い枠が壁と扉の隙間へ入り込み、固定具を一つずつ押し出していく。
四つ。
八つ。
十二。
最後の固定具が外れる。
金属扉が、白亜に支えられたまま手前へ移動した。
地下保管区画の内部に、淡い非常灯が点灯する。
正面の壁には、大型の記録端末。
左右には、無数の保管棚が並んでいる。
棚のほとんどは空だった。
「持ち出されたあとですね」
伊織が周囲を確認する。
部屋の中央には、三つの透明な容器が置かれていた。
人間の頭部ほどの大きさ。
内部は空になっている。
容器から伸びる伝導管は、部屋の奥にある中継装置へ接続されていた。
「三つ……」
奏が容器へ近づく。
星魔第二確認個体が持っていた核も、三つ。
《容器の識別番号を送って》
蘭の指示を受け、斗真が端末で番号を読み取る。
「接続試験体、四二一」
「四二七」
「四三〇」
蘭の返事が途切れた。
『蘭?』
《……一致したよ》
通信越しに、蘭が息を呑む。
《昨日回収した二つの核と、自壊した核の残骸から特定された研究番号と同じ》
透明な容器。
ここに、三人の星脈片が保管されていた。
生きていた証拠も、名前も奪われ、研究番号だけを与えられた三人。
その残された一部が、星魔を作る材料として持ち出された。
『記録端末を確認しましょう』
桜の声が僅かに低くなる。
『三人の名前が残っているかもしれません』
奏が大型端末の前へ立つ。
画面は暗い。
電源も切れている。
「起動させますか?」
《待って。外部回線へ接続されている可能性があるよ》
蘭が端末の構造を遠隔で確認する。
《まず、背面の接続端子を切り離して》
「私がやります」
伊織が端末の背後へ回る。
背面板を外し、外部へ伸びる配線を一つずつ確認する。
「通常回線、切断」
「星務庁内部回線、切断」
「不明な星素伝導線が一本あります」
「どこへ繋がっていますか?」
千景が尋ねる。
「壁の中です。上へ伸びています」
千景が床へ界錨を刻む。
紫色の星素が伝導線を辿り、建物全体へ広がっていく。
その表情が変わった。
「これは、中継用ではありません」
『何のためのものですか?』
「建物の支柱へ繋がっています」
同時に、大型端末の画面が点灯した。
誰も触れていない。
暗い画面の中央へ、赤い文字が表示される。
不正な接続を確認。
保管記録の破棄を開始します。
「全員、端末から離れて!」
彩乃が叫ぶ。
壁の内部で、何かが連続して弾けた。
一つ。
二つ。
建物の四方から、低い破砕音が重なる。
《建物内部の星素反応が急上昇!》
蘭の声が響く。
《地下から地上へ向かって、支柱の接合部が壊されてる!》
「証拠隠滅装置……!」
千景が床へ両手をつく。
「界錨!」
紫色の紋様が地下保管区画を包み込む。
ずれ始めた空間座標が固定された。
直後。
建物全体が大きく沈んだ。
◇
天井から、無数の破片が落下する。
「白亜!」
彩乃が両手を広げた。
白い壁が桜たちの頭上へ展開され、崩れてきた天井を受け止める。
激しい衝撃。
彩乃の両脚が床へ沈んだ。
「全員、階段へ!」
『記録端末は諦めます! 撤退してください!』
桜の指示で、伊織と斗真が扉へ向かう。
しかし、来た道へ続く階段の上部が崩れた。
コンクリートと鉄骨が、狭い通路を塞ぐ。
「退路が!」
「別の経路を探します!」
斗真が無響室を広げる。
壁の向こうから返る振動を探る。
「北側に空間があります! 設計図の地下搬出口です!」
「距離は?」
「ここから七十二メートル!」
彩乃が白亜で北側の壁を突き破る。
その向こうに、暗い通路が現れた。
『移動します!』
桜たちが通路へ飛び込む。
最後尾の彩乃が白亜を維持したまま後退する。
頭上から響く破砕音は止まらない。
建物を支える柱が、下から順番に破壊されている。
《地上部分が地下へ沈み始めてる!》
蘭から建物の立体図が送られる。
赤く表示された崩壊範囲が、上階から地下へ向かって広がっていた。
《完全崩壊まで、推定四十秒!》
「搬出口まで何秒かかりますか?」
「最短でも五十秒です!」
伊織が答える。
「間に合わない……!」
通路の前方で、床が大きく傾いた。
千景が片手を壁へ触れる。
「界錨!」
紫色の紋様が床と壁へ広がる。
沈みかけた通路の座標が固定された。
だが、千景の表情が険しくなる。
「固定できるのは、この区画だけです!」
『十分です。先へ進んでください!』
「私が残ります」
『いけません』
「界錨を解除すれば、通路が折れます」
千景が床から手を離さない。
「皆さんが搬出口へ到達するまで、ここを固定します」
『それでは、あなたが間に合いません』
「役目です」
千景は迷わなかった。
「界航隊は、全員を帰還させるためにいます」
「だったら、あなたも帰るのよ!」
彩乃が千景の隣へ白亜の柱を造る。
傾いた床と天井の間へ、白い支柱が何本も立ち上がる。
「これで数秒は保つ。手を離しなさい!」
「ですが――」
「残るなら私も残るわ。二人分の時間が無駄になるだけよ!」
千景が歯を食いしばる。
界錨の出力を弱め、ゆっくりと床から手を離した。
「固定を白亜へ移します」
「任せて」
二人が走り出す。
背後で白亜の柱が軋んだ。
崩壊まで、二十八秒。
搬出口まで、五十メートル。
桜たちは走る。
だが前方の天井にも、太い亀裂が広がっていた。
「桜隊長!」
斗真が叫ぶ。
頭上の鉄骨が外れる。
伊織が奏の腕を掴み、横へ引いた。
巨大な天井材が二人の前へ落下する。
通路が分断された。
桜と斗真。
奏と伊織。
その後方に、彩乃と千景。
『奏!』
桜が落下した天井材へ駆け寄る。
『聞こえますか!』
「聞こえています!」
天井材の向こうから、奏が答える。
「怪我はありません!」
「こちらも無事です!」
伊織の声も届く。
彩乃が瓦礫へ白亜を食い込ませる。
「どかすわ!」
白い星素が、巨大な天井材を持ち上げようとする。
だが、建物全体の荷重が上からかかっている。
瓦礫だけを動かせば、周囲の壁まで崩れる。
「無理ね……!」
《完全崩壊まで二十秒!》
蘭の声が響く。
《北側搬出口までは、あと三十二メートル!》
『別の出口は?』
《ない! 地下部分が全部沈み始めてる!》
頭上の亀裂が広がる。
床が沈む。
壁が内側へ傾いていく。
彩乃が白亜を展開する。
一本。
二本。
三本。
崩れようとする通路へ、次々と支柱を造る。
だが、支えた先から別の場所が壊れていく。
「建物全体は無理よ!」
彩乃の額から汗が流れる。
「一か所を支えても、荷重が別の場所へ移る!」
千景が界錨を展開する。
「空間座標も固定し切れません! 建物そのものが形を失っています!」
『蘭、救助部隊は?』
《最短でも三分!》
間に合わない。
崩壊まで、十五秒。
奏は目の前の壁へ手を触れた。
胸の奥が脈打つ。
一度。
僅かに遅れて、もう一度。
「奏?」
隣にいる伊織が顔を向ける。
「聞こえる」
「何が?」
奏は目を閉じた。
「リフレイン」
金色の星素が、壁から建物全体へ広がっていく。
無数の声が流れ込んできた。
「第四資料棟、建設工程は予定どおりです」
「地下搬出口の強度を確認」
「第二支柱、接合完了」
「最終検査に異常なし」
この建物が造られたときの声。
壁を組み立てた者。
柱を設置した者。
構造を確認した者。
今は崩れ落ちようとしている建物にも、完全な形で立っていた時間がある。
奏の意識へ、過去の構造が流れ込む。
柱の位置。
壁の厚さ。
鉄骨の接合部。
床と天井を繋いでいた、全ての形。
崩壊まで、十秒。
「聞こえる……」
奏の星素が、再び脈打つ。
リフレインとは異なる流れが、星脈の奥から生まれた。
熱い。
それでも、不快ではない。
ずっと前から自分の中にあり、流れる場所を探していたもの。
金色の星素が二つに分かれる。
一つは、建物に残された声を拾う。
もう一つは、その声が生まれた過去へ触れていく。
崩れた柱。
折れた鉄骨。
失われた壁。
奏の意識に、全てが見えた。
「この建物は、まだ覚えてる」
『奏?』
壁越しに聞こえた桜の声へ、奏が顔を上げる。
「壊れる前の形を」
奏が両手を壁へ押し当てた。
「戻って……!」
精神系とは異なる星素が、建物全体へ放出された。
◇
落下していた天井が止まった。
砕けたコンクリート片が、空中で淡い光に包まれる。
一つずつ持ち上がり、欠けた天井へ戻っていく。
折れた鉄骨が伸びる。
崩れた柱が立ち上がる。
内側へ傾いていた壁が、元の位置へ押し戻された。
失われた部分を埋めるように、淡い金色の輪郭が建物の中へ広がっていく。
壊れたものが修復されたのではない。
現在の建物へ、崩壊する前の形が重なっている。
桜は、目の前で起きている光景を見つめていた。
『……奏?』
その目が、大きく見開かれる。
奏の星素を見間違えるはずがない。
何度も任務を共にしてきた。
奏がリフレインを発現した頃から、その成長を見守ってきた。
副隊長として、誰よりも信頼している。
だが、今流れている星素は違う。
奏のものでありながら、精神系クラフトの波形ではない。
『これは……リフレインではありません』
「私にも、分かりません」
瓦礫の向こうで、奏も自分の両手を見つめている。
そこから流れ出す星素は、建物へ過去の形を与え続けていた。
桜が言葉を失う。
それは、ほんの一瞬だった。
すぐに崩壊前の構造を見渡す。
『彩乃先輩!』
「分かってる!」
『再現された柱を、白亜で補強してください!』
「任せて!」
彩乃が両手を広げる。
「白亜!」
淡い輪郭だけで再現された柱の周囲へ、白い構造体が形成される。
過去の形に沿って、新たな支柱が立ち上がった。
『千景さんは、再現された構造の座標固定を!』
「了解しました!」
千景が床へ両手をつく。
「界錨!」
紫色の紋様が、奏の星素によって再現された通路へ広がる。
現在と過去。
重なっていた二つの位置が、一つの座標へ固定された。
揺れていた金色の輪郭が安定する。
『伊織さん! 奏を連れて搬出口へ!』
「了解!」
『斗真さん、前方の安全確認を!』
「了解しました!」
桜の指示で、全員が動き出す。
道を塞いでいた天井材も、崩落前の位置へ戻っている。
桜が瓦礫のあった場所を越え、奏のもとへ向かう。
『奏』
「桜隊長……」
奏の顔から血の気が引いている。
それでも両手を壁から離さない。
「まだ、手を離せません」
『どれくらい維持できますか?』
「分かりません」
奏の呼吸が乱れる。
「でも、出口までは保たせます」
『無理をしてはいけません』
「今やめたら、全員が埋まります」
桜は奏の顔を見つめた。
反論できる状況ではない。
『必ず、私のそばにいてください』
「当然です」
桜が奏の身体を支える。
奏は壁から片手を離し、残る片手で星能を維持した。
六人が搬出口へ向かって走る。
斗真が先頭で、建物の振動を確認する。
「前方、三十メートル!」
再現された天井に、細い亀裂が走る。
奏の星素が急速に減っていく。
《奏の星素出力が二つに分かれてる!》
蘭の声にも、明らかな驚きが混じっている。
《一つは精神系! もう一つは――》
観測結果が定まらない。
造形系。
一度表示された判定が消える。
再び同じ文字が浮かび上がる。
《造形系と推定! 別々の系統反応が、同じ星脈から出てる!》
「分析はあとです!」
奏が叫ぶ。
「出口までの距離を!」
《残り二十一メートル!》
金色の輪郭が揺れる。
白亜に覆われていない壁の一部が、現在の壊れた形へ戻りかける。
「奏さん、もう少しよ!」
彩乃が背後から声をかける。
「あなたが形を保てば、私が支える!」
「はい!」
奏が星素を送り込む。
崩れかけた壁へ、再び過去の形が重なった。
千景の界錨が、その位置を固定する。
「座標固定!」
一本の通路を維持するために、三人の星素が重なる。
過去の形を再現する奏。
再現された構造を補強する彩乃。
現在の座標へ繋ぎ止める千景。
「搬出口を確認!」
斗真の正面。
厚い金属扉が閉ざされている。
『伊織さん!』
「解除します!」
伊織が扉の横へある非常装置へ手を伸ばす。
認証機能は停止している。
手動開放用のレバーを引く。
扉は動かない。
「外側が塞がれています!」
《地上側に瓦礫が積み重なってる!》
「白亜で押し出すわ!」
彩乃が扉の前へ出ようとする。
その背後で、白い支柱が軋んだ。
建物全体の重さを受け続け、表面に亀裂が走っている。
「私が前を開けば、後ろが保たない……!」
『奏』
桜が奏を見る。
奏は呼吸を整えようとしていた。
「できます」
『まだ何も言っていません』
「桜隊長の顔を見れば分かります」
『私には、奏の心を読む力はありませんよ』
「私もありません」
奏が金属扉へ手を触れる。
「でも、桜隊長のことは分かります」
リフレインが、扉へ残された声を拾う。
「搬出口、開閉確認」
「外側軌道に異常なし」
「閉鎖時の固定具を作動させます」
正常に動いていた頃の音。
扉の構造。
外側へ開いていた形。
二つ目の星素が流れ込む。
歪んでいた金属扉へ、過去の輪郭が重なった。
「開いて!」
扉が動く。
外側を塞いでいた瓦礫が、押し戻される。
夕方前の光が、地下通路へ差し込んだ。
『全員、外へ!』
斗真が最初に飛び出す。
伊織。
千景。
彩乃。
桜は奏の身体を支えたまま、搬出口を越える。
最後の一歩。
奏の足が地上へついた。
「もう……無理です」
壁へ触れていた手が離れる。
建物全体を包んでいた淡い金色の輪郭が消えた。
過去の形が失われる。
白亜の支柱が一斉に砕けた。
界錨で固定されていた座標が解放される。
旧第四資料棟が、中央から沈んだ。
「伏せて!」
彩乃が全員の背後へ白亜の壁を展開する。
轟音。
地上部分が地下へ崩れ落ち、巨大な土煙が周囲へ広がった。
白亜の壁へ、無数の破片が叩きつけられる。
やがて音が止まる。
四階建てだった建物は、原形を失っていた。
桜の腕の中で、奏の身体から力が抜ける。
『奏!』
「聞こえています」
奏は薄く目を開けた。
「少し、疲れただけです」
『少しではありません』
桜が奏を強く抱き寄せる。
奏の呼吸。
心拍。
星素反応。
どれも弱まっているが、危険な状態ではない。
それでも、桜の腕から力は抜けなかった。
《桜。聞こえる?》
『はい』
《奏の星脈に損傷はないよ。保有星素量が急激に減っただけ》
蘭の声に、桜が僅かに息を吐く。
『今の現象は、何だったのですか?』
通信の向こうで、蘭が沈黙する。
《まだ確定じゃない》
『推定で構いません』
《異なる二つの系統反応が、同じ星脈から同時に出てた》
桜は腕の中にいる奏を見る。
『二つ……?』
《一つは、精神系クラフトのリフレイン》
奏の右手には、見慣れた金色の星素が僅かに残っている。
《もう一つは、造形系と推定される未知のクラフト》
左手には、同じ金色でありながら異なる波形を持つ星素。
二つは混ざることなく、それぞれ別の流れとして奏の星脈を巡っている。
『一人の星能者から、異なる二系統のクラフトが……』
桜の声に、隠しきれない驚きが滲む。
《うん》
蘭が、信じられないものを口にするように告げた。
《ツインズかもしれない》
彩乃と千景が奏を見る。
伊織も、斗真も言葉を失っていた。
理論上だけ存在するとされてきた、幻の複系統星能。
公的な確認記録は、一度もない。
奏が、その最初の一人になる可能性がある。
「ツインズ……」
奏が小さく呟く。
桜は奏を抱く腕へ、無意識に力を込めていた。
「桜隊長」
『はい』
「少し苦しいです」
『申し訳ありません』
桜が慌てて腕を緩める。
その様子に、伊織が僅かに笑った。
「桜隊長が、そこまで動揺するのは珍しいですね」
『動揺していません』
「奏副隊長を抱き潰しかけていましたけど」
『無事を確認していただけです』
「普通、無事を確認するのに締め上げる必要はありませんよ」
『伊織さん』
「はい」
『負傷がないのなら、救護班の到着地点を確認してください』
「逃げましたね」
『任務中です』
桜の頬が、僅かに赤くなっている。
奏はそんな桜を見上げたあと、自分の左手へ目を向けた。
何も残っていない。
崩壊した建物も、元へ戻ったわけではない。
ただ、壊れる前の形が一時的に再現されていた。
「直したんじゃない」
奏が呟く。
『何ですか?』
「建物を修復したわけではありません」
過去に残された形。
それを読み取り、現在へ重ねた。
「一度、再生しただけです」
奏の左手で、二つ目の星素が僅かに脈打った。
「リプレイ」
『それが、新しいクラフトの名前ですか?』
「仮です」
奏は目を閉じる。
「今は、それしか思いつきません」
《記録しておくね》
蘭が答える。
《造形系クラフト、暫定名称――リプレイ》
奏の星脈が脈打つ。
一度目は、過去に残された声を拾う星。
二度目は、過去に残された形を再現する星。
一つの星脈。
二つのクラフト。
幻と呼ばれていた星能が、十四歳の少女の中で初めて観測された。




