気まぐれな雷神
気まぐれな雷神
藍川秀一
ある雨の日、雷鳴が奏でる。
天気予報が告げていた深夜の雷雨を、私はあえて無視をした。連日に続く終電帰り。今日こそは、どんなことがあっても仕事を片付けて帰る。そんな強い意志の表れとして、普段常備している折りたたみ傘すらバッグから放り投げ家を出た。
昼までは順調だった。業務は計画通りに進み、これなら定時退社も夢ではないと胸を撫で下ろしていた。しかし、夕方を過ぎてから上司による突然の手のひら返しが、すべてを水泡に帰す。
理不尽な修正指示の嵐。時計の針は無情にも進んでいき、空は闇を広げていく。
帰る頃にはいつも通りの暗闇が続いていた。
天気予報が外れていてほしいという淡い期待もむなしく、自宅最寄り駅に降り立った私の頭上には、すでに地響きを伴う黒い雲と土砂降りによる雨音が駅全体を包み込んでいた。
朝、律儀に天気予報を確認したにも関わらずあえてカバンから傘を放り投げた自分を殴りたい。
立ち尽くしていても、自宅が勝手に近づいてくるわけでも、彼氏が迎えに来るわけでもない(そもそもいない)ので、私は覚悟を決め、申し訳程度にカバンで顔を隠し、激しい雨の中へと飛び込んだ。
雨粒がアスファルトを叩きつける闇の中、不意に視界の端がぼんやりと光った。
そっと光の方へと目を向ける。
駅前の広場、その一角に一人の青年が佇んでいた。 その目の前には一本のマイク。足元にいくつか置かれた簡易的なライトが、豪雨に煙る青年の姿を下から淡く照らし出している。パッと目を奪われていたその時、
大地を揺さぶるような雷鳴が轟いた。
その轟音と閃光に呼応するかのように足元のライトが鮮やかにともり、背後に気配すら感じさせなかったスピーカーから音が放たれる。
荒れ狂う豪雨をかき分け、幾重もの雷鳴さえも跳ねのけるような、圧倒的な音の波。それはただの歌声ではなかった。聴く者の魂に直接語りかけ、揺さぶってくるような、ビリビリとした熱量を帯びている。
雨に打たれていることすら忘れ、私は足をとめ、見入り、聴き入っていた。
曲がクライマックスを迎えたとき、青年は天に向かって鋭く人差し指を掲げた。
世界が真っ白に染まる。
凄まじい落雷と耳を潰すような轟音、そして強烈な明滅が周囲のすべてを支配する。私は反射的に両手で顔を覆い、その場に身を縮こまらせた。
おそるおそると顔を上げ、青年のほうへ目を向ける。
そこには、青年の姿はなかった。
まるで、幻だったかのように、跡形もなく消え失せている。
しばらくの間、呆然と立ち尽くし、やがて、ぬるま湯に似た雨水が、全身を濡らしていることを肌で感じ、正気にもどる。そして、早々と自宅へと向かった。
自宅へと戻った後の風呂上がり、ドライヤーで髪を乾かしながら、青年のことを携帯で調べていた。
頭の中にこびりついて離れない容姿。おぼえている限りの歌詞のフレーズ。駅前での路上ライブ情報。必死になって指を動かし、思い当たる限りのキーワードで検索をかけた。
けれど、画面に表示されるのは無機質な検索結果ばかりで、青年に関する情報は、一切存在しなかった。
まるで、気まぐれな雷神がこの世界へ舞い降り、ほんの束の間、退屈しのぎの戯れを垣間見たような、現実離れした奇妙な夜の出来事だった。
〈了〉




