第2話 拳に宿る「想い」
人の形をしている。
だが、どこか歪んでいる。
呻き声と怒りと悲しみが混ざったような存在。
それは生き物というより、感情が形を持ったように見えた。
「……逃げて!」
俺は男の子を庇うように前へ出た。
足が震える。
怖い。
それでも、逃げられなかった。
背後にいる存在を、見捨てる選択肢が浮かばなかった。
男の子が転んだ。
立ち上がれない。
怪物が、ゆっくりと首を傾けた。
「――グ、ゥゥゥ……」
腹の底を引っ掻くような、低く濁った鳴き声が響いた。
空気が震え、路地裏に反響する。
「ひっ……!」
男の子が、短く息を呑む。
足がもつれ、そのまま転んだ。
「こ、こないで……!」
泣きそうな声。
地面を擦る音。
怪物が、ゆっくりとそちらを向いた。
首の骨が軋む嫌な音が路地裏に響く。怪物の輪郭がじわりと滲み、周囲のアスファルトが、熱を帯びたようにドロリと歪んだ。
――また、間に合わないのか。
あの日の光景が重なった。
手を伸ばさなかった後悔。
残ったのは、どうしようもない自責だけ。
何もできなかったという事実が、今も胸に刺さっていた。
「……もう嫌だ」
拳が熱を帯びる。
皮膚の内側を、何かが流れ始める。
「また……届かないなんて……!」
内側から、何かが溢れ出した。
理屈ではない。
だが、不思議と分かる。
――喉の奥で、鉄の味がした。心臓が跳ねるたびに、血管が爆ぜるような熱が全身を駆け巡る。思考が焼き切れ、ただ「あの背中に届け」という願いだけが、拳を突き出させていた。
周囲の音が、すっと遠ざかった。
泣き声も、呻き声も、風の音さえも薄れていく。
残っているのは、自分の呼吸と、胸の奥で脈打つ鼓動だけだった。
「拳だけでいい……」
俺は一歩、踏み込んだ。
肩が引け、腕が後ろへ下がる。
拳に、熱が集まっていくのが分かった。
殴る。
ただ、それだけだ。
「届け!!」
拳を突き出した瞬間、視界が白く弾けた。
右腕の骨が軋み、皮膚が焼けるような錯覚。放たれた衝撃は、空気を強引に圧縮しながら、真空の道筋を作って怪物の胸を抉った。
悲鳴とも叫びともつかない音を残し、それは消えた。
静寂が、路地裏に落ちた。
男の子と猫は無事だった。
俺はその場に膝をつき、震える拳を見つめる。
「……何だよ、これ」
分からない。
何もかもが、理解の外にある。
それでも、一つだけ確信できた。
――この力があれば、
もう、手が届かないなんてことはない。
だが、膝をつく俺の耳には、消えたはずの怪物の「悲鳴」が、今もこびりついて離れなかった。




