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翌日、五智はいつも通りサークル室で彫刻をしていた。名乗りながら入室した際、やはり先に来ていた瀬良が「行ってきたのかね。どうだった?」と尋ねてくる。昨日見た彫刻たちの感想など見事に吹き飛んでいた五智は「悪くなかった」と適当にごまかすほかなかった。
「そう」と返事をした瀬良はなにかを察したのか、それともさほど興味がないだけなのか、それで会話は終了した。あとはいつも通りお互い自分の作品に向き合うだけであった。
ここは本当にいつものサークル室なのか、と五智の脳裏にはありえない疑問が浮かんでいた。己の体は強ばり、呼吸がうまくできない感覚があった。それは手から彫刻刀を経て、木片まで伝わっている。ただでさえ技術など持っていないのに、木はまるで五智に逆らうかのように想像と違う削れ方をしていく。それに苛立って力を込めた瞬間だった。木片を握っている左手の人差し指に刃が当たる。あ、と漏れた声の一秒後、そこからは鮮血が玉となってにじみ出してきた。
「なんだね急に」
「手え切った」
「あーあ」
それをぼんやり眺めている間に、瀬良が消毒液と絆創膏を差し出してきた。
「破傷風になると怖いからね。洗ってきなさい」
五智は気落ちしたまま外へ出た。一番近い玄関から大学構内へ入り、そばのお手洗いで指先を洗う。水気を取ってから消毒液をかけて絆創膏で止めた。そのままとぼとぼとサークル室へ戻り「五智だぞ」と呟く。瀬良は窓際ではなく、先ほどまで五智が座り込んでいたブルーシートの上にしゃがみ込んでいた。
「ひどいねこれは。ガッタガタだ。君、しばらく彫らないほうがいいよ」
瀬良の視線の先には、作りかけの仏像彫刻があった。左端には赤い斑点がある。血がついてしまったらしい。
「作品には精神状態がよく顕れるからね」
確かに今彫っていた五智の作品は悲惨な出来だ。しかし作品で精神状態が量れるというのであれば、言っている瀬良本人はどうなるのだ。福笑いのような、目隠し状態で描かれた人物画だって十二分に悲惨だ。治してあげたいと思いませんか。昨日の巡の言葉が脳裏によみがえる。巡本人はそんなこと微塵も考えていない。瀬良のために治してあげようなどとつゆほども思ってない。巡自身のために治したいだけである。
では自分は、と五智は逡巡した。自分は治してあげたいと思っているのだろうか。少なくとも瀬良本人はまた描けるようになりたいと思っているのだろう。それを確認するように、五智は窓際のキャンバスを見る。そこに描かれているのは人物画ではなかった。
五智はキャンバスと窓の外を交互に見比べる。それは風景画であった。眺めながら描いたのだろう。画角は同じだが印象は全く違う。いったいいつから描き始めたのか、五智の記憶には一切なかった。瀬良の症状に気づいて以来、五智は意図的に瀬良の絵を見ないようにしていたのだ。描きたいものと違う、取り戻すように必死にもがいた形跡を見ることに罪悪感があったからだ。
残暑の織りなす陰影の深い色合いはそのまま表現されているにもかかわらず、その絵は柔らかな空気を纏っている。大学の敷地内だからときおり人が通りかかるのだが、絵には一人も描かれていない。しかし閑散とした印象はなかった。そばに植わっている三本の木から、遠くの電線に止まる小さな鳥から、そして描かれた大学校舎の中から、五智は間違いなく生命を感じ取った。影と光を表すための点一つが、それを再現できるなかで最も美しい色が選ばれている。それが幾重にもキャンバスへ載っている。
スマホの画面で見るのとは訳が違った。作品は生で見なければ真の意味で受け取ることができない。と、五智はそのとき人生で初めて悟った。
五智の感動など素知らぬ様子で瀬良はキャンバスの前に戻っていく。そして筆とパレットを取る様子に五智は驚いた。
「まだ完成じゃないのか」
「もうちょっとだね」
そう呟く瀬良の表情は穏やかであった。そんな顔でキャンバスを向かい合う瀬良を、五智が見るのは初めてであった。いつだって睨みつけるような顔をしていた。見えない人物画を必死で見ようとしていた。
「お前、ちゃんとうまいんだな」
「そうだよ。君もうまくなりたいかね」
「……どうだろうな。無心で手を動かせれば、それでいい気もする」
「つまり君は、なにも考えず彫っているのかね」
「ん? ああ、そう、なのか?」
彫るときに何を考えているのか、五智は意識したことがなかった。
「線の一本にも意味がないといけないよ」
水墨画なんて分かりやすいんじゃないかね、と瀬良は続ける。
「線を引くことにも、引かないことにも意味がなくてはいけない。選択の可視化と凝縮こそが芸術だと私は思っているよ」
「お前はずっと人物画を選択していただろ。なんで風景画なんだ」
「ちょっとした息抜きだよ。深い意味はないね」
嘘だ、と反射的に五智は思った。
誤魔化すことを選択しただろ。浮かんだその言葉を五智はぐっと飲み込んだ。




