3-1
この部屋は不思議な力でこの世から隔離されているのではないか、と妄想するときが五智にはある。大学の講義室にはそれぞれ大量の人数が整列して座っており、そして終了と同時にそれらが廊下へ吐き出される。一塊の群衆のようにも見えるのに、実際は個別に意思を持って笑い、しゃべり、呼吸をしている。そして個別の意思決定により次の講義室へ、食堂へ、構外へ、サークル室へと己の肉体を運んでいく。
暦は秋を迎えているが、地球はそれに従う気はないらしい。未だ厳しい残暑の中で、五智はサークル棟の外階段を昇った。廊下を進んで一番奥の扉は三ヶ月前に故障したまま放置されている。開けっぱなしのそれをくぐりながら「五智だぞ」と名乗った。瀬良はもうそこに居た。「ああ」とも「うん」ともつかない曖昧な返事を聞き流しながら五智は床に座り込む。あとは何も変わらない、入学当初からの日常を二人は続けていた。
瀬良は窓際を陣取り筆を奮う。五智は床に座り込んで、木片を彫る日もあればデッサンをする日もある。五智はここに通い続けている。ここでだけはまともに呼吸ができる。要因は部屋なのか、それとも瀬良なのか。もしかしたらどちらも違うのではないかと考えるときもある。ほんの少しの期待と希望を持って、五智は今日も彫刻刀を手にしていた。
珍しく瀬良が手を止めて五智に声をかけてきたのは、作業を始めて一時間後のことである。
「君は彫刻がやりたいのかね? それとも仏像を作りたいのかね?」
予想外の質問に、五智もやはり手を止めた。考えたことすらなかった。どちらだろうか、と脳裏に思考を走らせたが、そもそも仏像以外の彫刻をきちんと見たことがない、という事実が浮かび上がるのみである。
「そもそも仏像以外知らねえ」
「一回ほかの彫刻作品も鑑賞してきたらいいよ。それでも仏像、ってなるなら、デッサンも仏像をやったほうが早いんじゃないかね」
なるほど、と五智は素直に腹落ちした。仏像に焦点を絞り込むのであれば、そこに向かって一直線に進んでしまうのもありなのだろう。
「スケッチ程度なら大抵の美術館でできるよ。消しゴムは禁止だから気をつけてね」
「分かった」
五智は素直にうなずいた。
というわけで翌日、全ての講義を受け終えた五智はサークル室へ行かず美術館へやってきた。
昨日、帰る前に瀬良へどこがいいかと尋ねると、西洋彫刻の常設展示を行っている美術館をいくつか教えてくれたので、そのうちの一つへ足を運んだところである。
閑散とした館内には、一つ一つの彫刻作品がスポットライトを浴びて立ち並んでいた。台座にのって深い陰影を見せているそれらはどれも金属と石によって作られている。自分で掘りだしてから、人の作品を鑑賞するのは今日が初めてであった。手を動かしだしたからこそ分かる凄さに五智は目を見張った。本当に人の手で作られたものなのか、と五智は思わず苦笑した。人の形をしていない、と瀬良が何度も繰り返す理由をやっと理解した。
それでもあの日、堂々たる姿で立ち並ぶ仏像と向かい合ったときほどの高揚感は五智の中に生まれなかった。しかしせっかく来たのだから、と五智は持ち込んだスケッチブックを開く。常設のおかげか空いており、立ち止まっても邪魔になることはなさそうである。五智は鉛筆を持ってそれを紙に描き落とそうと努めた。
「少しはマシになったじゃないですか」
全体の形を取ったあたりで背後からのんきな、飄々とした声が五智に届く。聞き覚えこそがあるが予想外のそれに五智は振り返った。相変わらずうさんくさい姿をした巡宗佑が、五智のスケッチブックを斜め後ろからのぞき込んでいた。
「……なんか用か?」
「治りませんかね、瀬良さんのあれ」
「無理だろ。俺とお前の区別すらつかないんだぞ」
二度と会うことはない。失意に塗れて帰る巡を見て、五智はそう思っていた。まさかこんなに早く復活するなどだれが想像しただろうか。というか素直に諦めろよ、と五智は辟易した。
「調べましたよ相貌失認。脳の障害らしいですね」
「知らねえよ」
「でも瀬良さんのは違うと思うんですよ。昔は間違いなく見えてたわけじゃないですか」
「普通は生まれつきの病気なのか?」
「いや、先天性も後天性もどちらもあり得る障害です」
じゃあ別におかしくないだろ、と五智は顔をしかめる。それを読んだであろう巡は「でも」と続けた。
「脳の、顔を認識する機能の障害なんですよ、普通は。でも瀬良さんは会話してても気づかなかったんでしょう? 五智さん実は声まねがめちゃくちゃ得意だったりします?」
「……それどころかため口で話したぞ、普段通りな」
「顔だけじゃない。身長や服装、声や口調すら認識して区別することができない。……おそらく精神的なものじゃないかと踏んでます。いわゆるトラウマ、PTSDのによる症状ではないか、と」
五智は無言でそれを聞いた。べらべらと言葉をつなぐ巡の魂胆はまだ見えない。反応を示すにはもう少し判断材料がほしかった。
「治してあげたい、って思いません? だってあんなに一生懸命に描いてるじゃないですか。あの人、人物画以外の作品も残ってるんですよ。風景画や静物画は今でもきっと描けるはずです。でも瀬良さんは人物画だけを描き続けている。取り戻そうとしているように見えません? 毎日毎日一生懸命に。目の前のキャンバスすら見えないのに、それでも記憶から引っ張りだして……」
五智はスケッチブックを閉じた。そして語り続ける巡にしっかりと視線を合わせる。
「お前、そんなこと考えるタマじゃないだろ」
五智が睨みつけると、巡はにやりと笑った。ばれましたか、と言わんばかりの表情に、五智はさらに神経を逆なでる。
「描かせたいだけだろ」
「……それともう一つ」
巡は口角を上げたまま指を一本立てた。偽の善性で誤魔化せるなど最初から思っていなかったのだろう。
「あの女性が誰なのか、僕は知りたい」
「お前のじいさんが持ってた絵だろ? 誰かしらねえのか、親父とか」
「それが分かったらこんな粘着してません。だからあなたにこうして頼んでるんです。おそらくあなたしかいません。少なくとも、今一番解決できる可能性が高いのはあなたです」
「解決する理由が俺にはない」
「お金は受け取ってもらえないんですよね、どうせ。では就職はどうですか? 卒業後うちで雇いますよ」
「興味ねえな」
「でもあなた、どこもいけないでしょう? それにお金がいらないってのも解せませんね。この世で一番簡単で、分かりやすい誠意ですよ。あげたらいいんです。できることはありませんが、せめてもの償いで一生懸命稼いだお金をお送りします。なんて簡単で分かりやすいんでしょうね。そうしたらいいじゃないですか」
スケッチブックのリング部分が五智の手のひらに痛いほど食い込む。それほど力を込めて握っている。
「それじゃあ、頼みますよ。五智将さん」
反射的に「おい!!」と怒鳴る五智を完全に無視して巡は去って行く。館内の端で座っていた監視員が慌てて飛んでくる様子が五智の視界の端に映った。
「すみませんが、館内ではお静かにお願いします」
五智は一瞬だけその女性を見た。意図的に作ったであろう真顔の下には緊張と恐怖が敷かれていた。すぐに視界から追いやって、五智は無言で美術館を出た。




