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京葉文化大学美術サークル及び株式会社スラストーン美術課活動報告書  作者: 荒間文寧


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2-4

 その後、五智は約一ヶ月をかけて一冊のスケッチブックの空白を埋めた。ほぼ毎日サークル室へ通った。瀬良も毎日そこに居た。

 夏期休暇の終了とともに、大学構内にも活気が戻ってくる。夕方のサークル室は、浮き足だったままの学生たちから隔離されているかのように静かであった。いつものように二人そろって、黙々と手を動かしていた。空いたままのドアからたまに、外を歩く若人たちの姦しいはしゃぎ声が風に乗って入り込んでくる。しかし五智の耳には届かず、そして瀬良の耳にもおそらく届いていなかった。

 その沈黙を破ったのは二つのノックであった。

「お久しぶりです」

 相変わらずうさんくさい笑顔を貼り付けた巡は気取った様子で入り口に立っている。五智はそれを横目で確認し、すぐに手元の木片へ意識を戻した。デッサンの成果は現れるのか、あまり期待はせずに彫刻刀を入れていく。巡はご丁寧に壊れたドアを小突いたらしい。そんなお上品なキャラじゃないだろ、と五智は彼の立ち振る舞いに若干のいらだちを覚えた。

「誰だね。この部屋に」

「巡宗佑です。お約束通りに来ました」

 お久しぶりですね、五智さん。と続く声はずいぶんと明るい。完全なる嫌味だと五智は受け取った。よって無視を決め込んだ。

「ああ来たね。それじゃあ糾弾を始めよう」

「……糾弾?」

「ああ。嘘をついたのがどちらなのか、はっきりさせようじゃないかね」

 部屋の奥で筆を置く音がする。反対側からは巡の衣擦れが聞こえる。五智はそのどちらにも反応を示さなかった。瀬良の声は嬉々としており、物騒な単語を耳にした巡は反対に声のトーンが露骨に下がった。自分を挟んで対峙する二人の様子を音だけで把握しながら、ただ手元の木片を見て、ただ削り続ける。

「巡は夏期休暇明けに来る。そこに座る五智が、そう言っていた」

「はい」

「だけど君は一週間前にも来たね?」

「……はい?」

「それを五智に問いただしたところ、『俺はそう聞いていた』の一点張りなんだよ。だから五智が嘘をついた、もしくは君が予定を破ったかの二択なわけだね」

 瀬良の言葉は正しい。確かにその二択しかありえない。五智はそれをよく理解していた。だから反論もせず弁解もせず、こうして手元に集中している。しかし巡は違う。理解できないはずである。今この部屋に訪れている数秒の沈黙は、巡の困惑を如実に表していた。糾弾と宣言にされているにもかかわらず、次に出た巡の声には戸惑いだけが乗っており、そこに怒りや不満は見受けられない。

「ちょっとまってください。なにを言っているんですか」

「君はこいつになんと伝えた?」

「僕は来てませんよ?」

「は?」

「描きたがらない原因を探って解決してください。あなたの夏期休暇が終わったらもう一度部室へ伺います」

 五智は巡からあの日聞いた言葉を復唱した。二人分の視線が一瞬で五智に向けられる。五智はまだ座ったままである。顔を上げずにただ木片と向き合っている。

「はい。だから今日来ました」

「悪いがお前の願いは叶わない。瀬良は描かないんじゃない。描けないんだ」

 一から説明してもらえませんかね、と呟く巡の声はずいぶんと冷ややかだ。その反対側から、今度は瀬良がカッとなった口調で吐き捨てる。

「ちょっと待て、来てないってなんだね。嘘にしてもずさんすぎるよ。じゃあ私は誰としゃべったって言うんだね?」

「俺だよ」

 そう呟いて五智はやっと彫刻刀を置いた。巡は予定など破っていない。五智が嘘をついたのだ。しかしそれを知るのは五智だけである。

「お前は一週間前、ここで巡を名乗る人物と話した。それは俺だ。巡と名乗った俺だ」

「意味が分からないです。なんで僕と五智さんを間違えるんですか?」

「相貌失認、という障害がある。人の顔が覚えられない障害だ。でもこいつのは多分そんな次元じゃない」

 五智はやっと腰を上げた。そのまままっすぐ巡の正面へ立つ。その目線は十センチ以上も高さが違う。髪の色も長さも違う。顔だって似ても似つかない。着ている服も正反対だ。見た目だけではない。声も話し方も、間違える要素など一つもない。

「こいつは人を識別できない。俺がお前だと名乗っても、そのまま対面で会話をしても、それに気づかないほどに」

 巡はなにも言わない。ただ無言で五智の目を見ている。しかしその瞳には明らかな喫驚が映し出されていた。

 五智は左手で壁を指さす。巡の首がそれを追いかけてゆっくりとまわる。そこにあるのは大きな穴、その向こうには一枚のポスターがある。

「生身の人間だけじゃない。絵もそうだ。……あのキャラクターを知ってるな?」

「知ってますよ、セーラームーンでしょう? ……知ってますよね、普通」

「瀬良は答えられない。人の形をしているから」

「意味が、分からないです。なにを言っているんですか」

「お前は何度も絵を見せただろう。でも瀬良には見えていない。お前が見せた絵がどんな顔なのかこいつは識別できていない。だから描けない。……それどころか、あいつは自分が今描いているものすら見えていないんだと思う」

 描かないんじゃない。描けないんだ。

 五智は念を押すように、もう一度そう言った。

「……なんですか、それ。冗談でしょう? いつからですか。昔は描けてたじゃないですか」

 たちの悪いジョークだと、自分を遠ざけるための嘘だと思い込みたいのだろう。巡は口角を上げた。その頬は完全に強張っており、無理矢理作ったその表情は到底笑顔とは呼べないだろう。彼はスマホを取り出した。泣き出しそうな目を伏せて数秒操作してから画面をこちらへ向けてくる。

「ねえ、これですよ。瀬良さんが描いたんでしょう? 間違いないでしょう?」

 五智に見せているわけではない。その後ろにいる瀬良へ、懇願するような声で目の前の男は呟いた。画面いっぱいに広がる油絵には優しく微笑む女性が描かれている。写実的な精密さと、現実では再現できない柔らかで美しい色使いが両立したその絵は小刻みに動いている。持っている巡の手が震えているからだ。

 それを視界に納めているのだろう。五智の後ろから、先ほどまでの憤りが嘘のように穏やかな、しかし明確な拒否の言葉を瀬良は紡いだ。

「分からないよ。……何が描かれているのかも、分からないから」

 脱力した巡の腕がだらりと下がった。同時に顔の強ばりも、瞳に映る懇願も抜け落ちる。能面のような無表情になった巡は踵を返した。そのまま一言も発することなく、二人に背を向けて退室していく。それを見送ったのち、先に口を開いたのは瀬良であった。

「……どっちが帰ったんだね?」

「巡が帰った。五智が残ってる」

「……その証言は信用していいのかね」

「悪かったな、嘘ついてよ」

 五智はため息をつきながらブルーシートの上に座り直す。そして置かれた、完成したばかりの仏像を手に取って瀬良へ向けた。

「だから、人の形になってないよ。下手くそめ」

 そんなにだめか? と首をかしげる五智を無視して、瀬良はまたキャンバスの前へ、まるで何もなかったかのようにいつもの日常へ戻っていった。


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