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京葉文化大学美術サークル及び株式会社スラストーン美術課活動報告書  作者: 荒間文寧


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6/10

2-3

 五智は早起きが得意である。中学、そして高校時代は住人たちがまだ寝ている町のなかを歩いて学校へ向かっていた。朝練という当然のように行われている習慣は多くの犠牲の上に成り立っており、当時の五智はそれに気がついてなどいなかった。気がついたのは、その犠牲が無に帰してからである。

 翌日、ガラガラの始発を降りて五智は大学へ向かった。ほかの学生たちは夏期休暇を満喫しているのだろう。人影の一切ない敷地内を歩きながら、五智は当然のようにサークル棟の一番奥の部屋へ向かった。壊れて開け放たれたドアの向こうは無人である。流石の瀬良もここに住んでいるわけではないらしい。五智は謎の安心感を覚えながら、普段は瀬良が陣取っている窓際へ立った。一度部屋全体を見回してからため息をつく。そして隅から順番に、乱雑に放置されたキャンバスを一つずつ壁に立てかけて並べた。全て瀬良が描いたものだ。目につくところに置いてあるそれを全て立てかけて一望する。巧いか下手かと問われたら、五智は下手だと答えざるを得ない。しかしそれは、芸術に明るくないものがピカソの絵画を下手だと笑うようなものだろう、と五智は思っていた。しかし昨日、巡は言っていた。この絵には一切の価値がない、と。

 並んでいるもの全てが人物画である。おそらく人物画と呼ぶべきなのだろう。精密さは一切ない。背景こそ丁寧に塗られているが肝心のモチーフは乱雑だ。しかも統一性がない。全てが子供の落書きのようになっている絵もあれば、輪郭の途中までは形を取って陰影もつけているのに、髪や中身が唐突に簡略化されているものもある。それどころか目が一つだったり、口や鼻がない絵すらある。

 五智が絵の前で逡巡している間に、柔らかだった日光はずいぶんと夏の色を帯びて窓から差し込みだしている。瀬良はまだ来ない。

 並んで光に照らされる油絵を前に、五智は入学当初、このサークル室に来だしたばかりのころ、美術館へ連れて行かれたときのことを思い出していた。


 ここに居たいなら、なにか作りなさい。五智が勝手に居座るようになってから三日後、瀬良はそう言った。五智はその辺の紙と、やはり転がっているペンを取った。十秒だけペンを滑らせてから書き上げたものを瀬良へ見せる。

「なんだねそれは」

「へのへのもへじ」

 はあ、と瀬良はこれ見よがしにため息をついた。そして筆を置き、五智の隣を抜けてドアの前に立つ。

「行くよ」

「どこへ」

 上野、と瀬良は言った。

「あそこなら沢山あるからね。ほら支度しなさい」

 言葉とは裏腹に、瀬良は待つ気はないらしい。五智が立ち上がるよりも先にさっさとドアを開けて出て行ってしまう。なにが沢山あるのかすら分からないまま、五智は仕方なく立ち上がって後を追った。

 そしてたどり着いた先で五智は合点した。確かにそこにはたくさんの美術館が、そしてその中にはたくさんの美術品があった。瀬良は無言でチケットを買っては、はい、と五智に渡してくる。美術館という場所はずいぶんと空いているんだな、とそのとき五智は思った。それは平日の常設展だから、ということを五智が知るのはもう少し先のことである。

 入ってすぐ、絵にたどり着くより先に瀬良はペラ紙を取ってそれも五智に渡してきた。びっしりと文字が書かれたリストである。これはなんだ? と五智は紙を睨みつけた。どうやら展示品の一覧らしい。しかし題目やら作家名やらを見てもさっぱりピンとこないので、五智はそれを適当に折りたたんでさっさとポケットに突っ込んだ。

 瀬良の歩みに合わせて、一枚ずつ観賞しながら中程まで進む。一枚をどれだけ時間かけて見てんだこいつは、が五智の正直な感想であった。一瞬で全容が視界に収まるサイズのものしか飾られてない。なのに瀬良は一枚の絵を平気で数分眺めている。なにをそんなに見ているのか五智にはさっぱり分からない。

 退屈を感じながら五智が立っていると、瀬良は不意に振り返った。じっと五智の顔を見ている。おそらくなにか意見を求められているのだろう、と感じた五智は素直に口を開いた。

「この絵はなにがすごいんだ?」

「君はなにしにここへ来たんだね?」

 その理由も教えられないままここに連れて来られたのだ。その張本人がこの言い草である。五智が黙っていると瀬良はこれ見よがしにため息をついた。

「なにも勉強をさせるために連れてきたわけじゃないよ」

「じゃあなんだよ」

「こういうのが描けるようになりたい、とか。こういうのを描いてみたい、とか」

「今んとこねえな」

「そう」

 今日中に見つかるといいね、と呟いて瀬良はまたゆっくりと観賞に戻った。

 その調子で二人並んでいくつもの美術館をまわる。人混みは嫌だと瀬良が言ったので、列の出来ている企画展だけは見送ることになった。それ以外の常設展で五智は様々な美術品を見た。そのほとんどが絵画であった。

 しかし五智は、美術品に対するものさしを持ち合わせていない。退屈を紛らわせるために、五智は鑑賞対象の半分を瀬良にした。こいつは風景画や静物画が好みらしい。しげしげと角度や距離を変えながら眺め、時折喜びの表情も垣間見える。興が乗れば五智相手に解説をするときもあった。しかし対象が人物画になった途端に瀬良の様子は変わる。じっと立ち止まったまま、まるで睨みつけるように険しい目つきをした。眼前の絵を、まるで近眼の人が遠くを見るかのように目をしかめて見ていた。

 計五つの館内を観賞し尽くしたのち、瀬良は五智に尋ねた。

「気に入ったものはあったかね」

「よく分からん」

 五智の素直な感想に、瀬良はため息で答えた。まあ、ゆっくり見つければいいよ。と半ば諦めたような口調で出口へ向かっていく。瀬良は完全な無駄足だったと思っているようだが、その実、五智は今日一つ得たものがあった。芸術に関してはさっぱり理解していないが、美術館という場所そのものにかなりの好感を抱いたのだ。混み合っていれば話は別なのだろうが、少なくとも今日のような閑散としている美術館の放つ空気に五智は好感をもった。これならまた来てもいい。五智は若干の名残惜しさを覚えながら館内を見回した。出口付近には他館のポスターがまとめて掲示されている。何枚もがまとめて、きれいに整列して並ぶ様子は何の変哲もない。

 しかしそのうちの一枚が五智の目に飛び込んできた。完全に足を止め、五智はただそれを見つめ続ける。数秒後に「これか」と呟いた。瀬良がいくつもを自分に見せてまわったのは、何か一枚がこうなってほしかったからだ。五智にとってのそれは絵画ではなかった。印刷されたポスターに映っているのは、鈍色をした厳つい顔の像であった。

「おい、瀬良」

 五智は早足で追いかけて瀬良を呼び止め、再度ポスターを見て情報を拾う。上野にある別の館だが、特別展示と描かれている。混み合っていたら瀬良に断られるだろうか。嫌か? と恐る恐る聞いてみるとずいぶんあっさり「いいよ」と返ってくる。流れるようにそこへ向かい仏像展のチケットを買った。並ぶことなく展示室へ入ることが出来た。そう混み合ってもいない。

「仏像系は専門外だね。そもそも宗教と美術はどうあがいても切り離せない。それは西洋絵画だろうが、日本を含めたアジア圏の」

 と気合いを入れて初手から解説してくれていた瀬良はすぐに黙った。五智が微塵も聞いていないことに気がついたのだろうか。たしかに瀬良に対してなんの反応も示さなかった。正確には、示せなかったのだ。五智の思考には、それに割くだけの容量がなかった。目の前のそれを感受するので精一杯だったのだ。

 等間隔に並ぶそれを五智は一つ一つゆっくりと眺めていった。素材も大きさも、顔も形も当然全て違う。しかしその全てが五智を魅了していった。

 時間をかけてゆっくりと五智は進んでいく。急かしもせず、邪魔もせず、瀬良は無言でずっと五智の隣にいた。しかし中程まで差しかかったころ、瀬良はもう一度だけ口を開いた。

「ああ、これはいいね。本物だ」

 ポスターに載っていた、今回の目玉であろう仏像から少し離れた位置にそれは展示されていた。

 木彫りの、五智の片手よりほんの少し大きい程度の、小さくてシンプルな仏像彫刻であった。


 瀬良の絵を並べてからどれだけの時間が経ったのか。五智はあの日見た人物画を一つ一つ思い浮かべていた。明確に思い出すことができた。一度見た顔は忘れないからだ。

 しかし五智は目の前の、瀬良が描いた人物画がいつ描かれたものなのか、その記憶すら残っていない。描いている場面を何度も見ているはずなのに、五智はこれらを覚えていない。これは本当に人物画なのだろうか、と五智は逡巡する。ただ一つ分かるのは、己はこれを人間と認識していない、ということだけだった。

 しばらく無音であった室内に、カツンと小さな音が鳴る。五智は振り返った。開けっぱなしの入り口からいつの間にか入ってきていた瀬良が、屈んで靴を脱いでいる。

「誰か居るね。私に名乗らずこの部屋に入ることは許されていないよ」

「なあ、なんで人を描くのをやめたんだ」

「聞こえなかったかね。人に話しかけるときはまず名を名乗るんだよ」

「五智だ。ほかに誰が来るんだ」

「来るよ。一銭もよこしたことがないのにパトロンを名乗る基地外とかね」

「あいつは夏期休暇が終わるまでこねえぞ」

「そう」

 瀬良は鞄を置いて窓際へ寄ってくる。そして邪魔だと言わんばかりに手を払った。五智は並べたキャンバスを片付け始める。

「なにを並べているんだね」

「お前が描いた絵だろ」

「そんなもの見て面白いかね」

 自分が描いたものを一瞥もせず瀬良は絵を描く準備を始める。瀬良が向かい合った、描きかけの絵はいつもどおりイーゼルに立てられたままだ。瀬良の背中ごしに五智はそれを眺める。やはり巧いとは言いがたい。

「なんで人を描くのをやめたんだ」

 瀬良はぴたりと動きを止めた。ゆっくりと振り返った顔には驚きが見える。

「君にはこれが何に見える?」

 瀬良が示した『これ』はまさしく描きかけの絵だ。五智は素直に答えることにした。

「人をモチーフにした別の何か」

「……そう」

 瀬良はそのまま視線をキャンバスへ戻した。後ろからではその表情を見ることはできない。「殴られても、引きずられても描きたくないのか」

「生き物は刻一刻と変わっていくからね。そのときにしか描けないもの、ってのがあるんだよ」

 それはどちらの意味だろうか。今しか描けないものを描きたいのだろうか。それとも昔の絵はもう描けないという意味なのだろうか。

 それを尋ねることは憚られた。だからこの話を切り上げて五智は定位置へ戻る。床にどかりと座り込んで、投げ出してあるスケッチブックを手に取った。その際、ちらりと瀬良を盗み見る。眼前のキャンバスを睨みつけていた。あの日美術館で、人物画を見ていたときと同じ表情である。

 ならば瀬良にとって、目の前の絵は人物画なのではないだろうか。五智の思考を遮るように、瀬良はタイミング悪く話しかけてくる。

「ところで君はなぜあのキチガイの襲来日程を知っているんだね」

「昨日駅で会った。夏期休暇が終わったらまた来る、って言ってたぞ」

「そう。ならしばらくはここも平穏だね。君もゆっくりと、デッサンでも彫刻でも好きにやるといい」

 五智はふと思い立って、手元のスケッチブックを瀬良へ向けた。昨日描かれた石膏像デッサンのページが開かれている。それを見た瀬良は平然とした顔で言った。

「人の形をしていないね」

 未経験者は回数を重ねなさい。瀬良はまるで講師のようにそう言うが、指導してくれたことはろくにない。それでも五智はうなずいた。ほかにやることも、やりたいことも五智にはなかった。


 その後は普段通りである。二人して無言のまま、ひたすら手元と向き合い続けた。五智は昨日と同じ石膏像を今日もまた描き起こしていた。髪の波打ち、張った額、丸みの強い目に主張の強いが欠けた鼻。そして薄い唇に均整のとれた輪郭。その全てを五智は見ている。こうして眼前に置くまでもなく、五智の網膜に焼き付いている。なのに線を重ねるたび、紙へ浮かび上がる顔は目の前の石膏像からどんどんかけ離れていく。脳みそと手は直結しておらず、手と鉛筆、鉛筆と紙もまたそうである。回数を重ねなさい、という瀬良の言葉を五智はきちんと理解していた。思い描いたとおりに体が動かない経験を、五智は過去にしていた。回数と経験でそのズレを重ねていく体験もまた、五智の過去に存在している。

 黙々と手を動かすこと、その結果生まれたものが芳しくないこと、そのどちらも五智にとっては苦痛を伴わなかった。よって数時間もの間、そこに座って集中し続けていたらしい。

 とはいえ五智も人間である。その集中力を途切れさせたのは空腹感であった。飯でも買いに行くか、とのびをしたところで「あの、すみません」と背後から弱々しい声が届いた。当然瀬良ではない。その声は先日空いた穴の向こうからであった。

「誰だね」

 キャンバスと向き合ったまま、間髪入れずに瀬良が応答する。穴からひょっこりと黒髪の男が顔を出した。

「とりあえずこっちはポスターで塞ぐんで、壁直すとき教えてもらっていいですか」

「だから誰だね」

「……隣のアニ研の者です」

 じゃあ塞ぎますねー、と男は頭を引っ込めた。パリパリと硬い紙独特の音が鳴り、やがて穴には蓋がされた。コントラストの強い、エンタメ色を全面に押し出したアニメ絵のポスターであった。紙一枚隔てたことで声も若干くぐもって聞こえる。

「なんでそっち向きに貼るんすか! うさぎちゃん見えないじゃないですか!」

「はるかがこっちだろ」

「なんでですか!」

 どうやら両面印刷らしい。集中力が完全に途切れた五智はぼんやりとそれを眺めた。目は顔の三分の一ほどの面積を占めており、鼻はないに等しい。目の色は日本人離れした水色で、髪はあり得ないほど長い。解いたら余裕で床に引きずるだろう。手足は異常に長く、現実にいるとしたらパリコレモデル並の等身になるだろう。

 そんなアニメ特有の誇張表現が施されていても、五智はそれを人間として認識している。五智だけではない。地球上に存在するほぼ全ての人間はこれを人間と認識するだろう。

 果たして人の絵はどこから人なのか。

 五智はスケッチブックをめくった。新のページ半分に棒人間をざっくりと描く。その隣にまた丸を描いて、中に黒丸の目を二つと、半弧の口を簡易的に引いた。

 おい、と瀬良を呼ぶ。振り返った瀬良の視界に入るようにその落書きを掲げた。瀬良の眉間がぎゅっと寄っている。

 五智はそのまま穴越しに貼られたポスターを指さす。それに釣られて首を回した瀬良は相変わらず目つきが悪いままであった。

「なんだね」

「なんでもねえ」

 つまりは三つとも人間らしい。少なくとも瀬良はそう認識しているのだろう。またキャンバスへ絵の具を載せだしたその顔はやはり先ほどまでと同じ表情である。

「飯食ってくる」

 五智が立ち上がると同時に「ん」と瀬良が五百円玉を差し出してくるので、五智はそれを受け取って学食へと向かった。

 ガラガラの食堂で適当に定食を食べ、購買で瀬良用のパンを二つほど見繕う。それを片手に五智はゆったりとした足取りでサークル室へ戻った。そうして開けっぱなしのドアから入室し、瀬良へ「ほらよ」とパンを手渡す。瀬良は無言で五智を睨みつけていた。人物画を見るときみたいに。

「なんでお前は人間の絵を見るときそういう顔をするんだ?」

「私の目の前に経つ人間はまず名乗る必要がある」

「五智だよ。何回言わせんだ」

「絵は名乗らないからね」

 同時に瀬良は顔の強ばりを解く。パンのセレクトに不満はないらしい。開封と同時にセロハンの音が鳴っている。

「名前がそんなに大事か」

「そうだよ。君は違うんだろうけどね」

「なんでそう思うんだよ」

「なんど聞いても君は下の名前を言わない」

 瀬良は開けたばかりのメロンパンへ一口かじりついた。ゆっくりと咀嚼し、飲み込み、そして顔を上げる。五智を見る目は真剣そのものである。

「なぜ君はここに来る? なぜ私を探しに来た? なぜ名乗らない?」

 五智は答えなかった。代わりに机の上から、散々向き合った石膏像を持ち上げる。

「こいつの名は?」

「知らない」

 五智は反対の手で、アニメ絵のポスターを指さした。

「あいつは?」

「知らない」

 その手をゆっくとキャンバスへ向ける。瀬良が真剣に描いている絵を五智は示す。

「こいつは?」

「知らない」

「……じゃあ俺は?」

「五智だろう? 君がそう名乗った」

「そうか」

 一度見た人間の顔を忘れなくなった。五智がかつてそう零したとき、キャスター椅子に座る医者は困惑の表情を浮かべた。そして濁すように始めた雑談の内容を、五智は思い出した。

 五智だと名乗った。だからこいつは五智である。

 瀬良の中ではそうなっているらしい。その事実を五智は素直に飲み込んだ。

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