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夏期休暇中、それも夕方である。大学の敷地内は閑散としていた。それを抜けて駅に近づいていくにつれて、当然往来は増えていく。それに比例して五智の視線は落ちていった。改札前にたどり着いたころにはもはや足下しか見ていない。うつむいて歩く五智が人にぶつかることはない。その厳つい体躯や顔つきのせいで相手が勝手に避けていくからだ。それでも下だけを見ていては進めない。ポケットから交通ICカードを取り出して改札口を望んだ五智は、そのそばで立っている一人の男に気づいた。スーツ姿のその男はしっかりと顔を上げ周囲をしきりに見回している。明らかに誰かを探している様子だった。誰かの顔を確認しようとしている人間は、反対に誰かからもよく見える。瀬良か巡か。おそらく自分ではないだろう。訝しみながら五智が彼を見ていると、相手方も気がついたらしい。五智に向かって早足で歩いてきた。
その男は「私、株式会社……」と自己紹介を始めようとしたので、五智はさっさとそれを遮った。
「巡んとこのやつだろ。さっき来た」
「……よく覚えていらっしゃいますね」
「一度見た顔は忘れねえんだ」
男は少しばかり驚いた表情で「それは、羨ましい特技ですね」とのたまった。五智はうっかり舌打ちをする。相手はすぐに顔を引き締めて本題に入った。おそらく五智の舌打ちを『無駄話をするつもりはない』といった意味で解釈したのだろう。
「お時間は頂戴しません。家までお送りいたしますので、車内で社長とお話しいただけますか」
当然、素直にうなずくわけがない。なにが楽しくてあの奇人と会話をしなければいけないのか。そして予想外にも探していたのは五智らしい。瀬良本人がどうあがいてもなびかないことに気がついたのか、どうやらこの数時間で方向転換を試みたようだ。外堀から埋めるつもりなのだろう。
五智は正面の男をにらみつけながら逡巡した。協力者だと思われるなどめっぽう御免だが、また襲撃されてサークル室を壊されてはこちらも困る。扉、壁ときたのだから次はきっと窓が割れる。そうなったら本格的にエアコンは意味をなさなくなるだろう。瀬良はなにをされても絵を描くばかりだ。であれば五智が一人でなにかしらの対策を練るほかなく、それをするためには情報があまりにも足りない。感情を優先すれば微塵も行きたくない。しかし五智は小さくうなずくことを選択した。
それと同時に男の表情に安堵が浮かぶ。五智を連れていけなかったらこいつは巡になにをされるのか。「こちらです」と改札口から離れていく彼の後ろを着いて進みながら、五智は眼前のスーツ姿の背にほんの少しだけ同情した。
「はい、捕まえました。今車に戻ってます。はい」
スマホ相手にそう伝えている男とともに立体駐車場を上り、やたらでかい高級車の後部座席に案内される。男は運転席から自宅の住所を尋ねてきたが、それ以外に口を開くことはない。「お待たせしましたー」とずいぶん軽いノリで巡が隣へ乗り込んできたのは五分後のことであった。絶対に合わせてやるものかと無言でにらみつけると、すぐに巡の顔色が変わる。
「前置きや挨拶は不要ですかね」
「そうだな」
五智の返事とともに車は動き出す。当然それに気を取られることなく、両者にらみ合ったままである。
「瀬良さんに描かせたいんです。協力願えますか。もちろん報酬は出します。……まあ、その分瀬良さんの取り分を減らしますがね」
「俺が協力するように見えるか?」
「言ってたじゃないですか、描いてやればいいだろって。それに今もこうして車までのこのこついてきている。僕が殴ろうが引きずっていこうが、頑として描かないんですよあの人。お金積んでもだめでした。こっちとしてももう手立てがないんですよね」
「なんでそんなに描かせたいんだ」
「なんで、と言われましても。欲しいからですよ」
当たり前だろうと言わんばかりに、巡は平然とそう言った。欲しいから、とはずいぶんとシンプルだ。あまりにも単純すぎて余計に五智には理解できない。どこかにとっかかりはないかと五智は切り口を変えた。
「あの絵に描かれていた女は誰なんだ?」
「分かりません」
流石に五智も目を見開いた。つまり目の前のこいつは、知らん女の絵を描かせるために金を積もうとしたり殴ったり、挙げ句の果てに瀬良を連れ去ろうとしたわけだ。本物の基地外かも知れん、と五智はもはや身の危険すら感じて窓の外を確認した。確かに車は五智の自宅へ向かって走っている。今のところは道は合っている。
「あの絵はお前が描かせたのか?」
「いえ。あれは元々、僕の祖父が所持していたものです。遺品整理で見つけまして、まあその、なんといいますか」
一目惚れ、ってやつです。と巡は遠い目をして言った。
「作者を探すのに大変手間取りました。瀬良さんだと分かって、そして居場所を見つけ出したときのことは忘れませんよ。大喜びで札束をもって駆けつけました」
五智はその返答にほんの少しだけ安堵した。流石に初手から暴力を奮いにいったわけではないらしい。にらみ合っていた巡は前のめりの体勢を解いて背もたれにゆったりと沈み込んだ。そのまま五智と反対方向へ、車窓へ視線を向けてぼんやりとした声で語り続ける。
「またこの女性を描いてほしい。そう言って写真を見せたんです。瀬良さんは横目で一瞬、ちらりと見ました。そして興味なさげに無言でまたキャンパスへ戻ってしまう。僕もそれを見ました。そうしたらね、まさに今の瀬良さんが描いているような絵なんですよ。三年前の話です。何度頼み込んでもだめでした。前の絵柄に戻すというのはそんなに難しいものなのか、と悩みましたよ。僕が芸術に疎いせいかと勉強もしました。そして分かったんです」
「……なにが」
巡はゆっくりと首をまわし、改めて五智へ視線を向けてくる。そこには表情がなかった。全てが抜け落ちたような真顔であった。
「今の瀬良さんの絵には何の価値もありません」
価値、と五智は反復した。絵画には、芸術には価値がある。それを測るためのものさしが人間社会には存在する。現代日本を生きる人間にとって当たり前の認識を、五智は今やっと思い出した。
「僕が理解できないだけで、美術として、現代アートとして優れているのかと思ってました。違います。ありません。今の瀬良さんの絵には価値も、文脈もなにもない。画材と時間を浪費しているだけです」
巡の、なんの感情も読み取れないほど黒い瞳の中に、五智は窓際で絵を描く瀬良を投写した。まるでキャンバスを睨みつけるようにぎゅっと目をしかめながら、それでもゆっくりと一筆一筆置いていく姿を、五智はこの数ヶ月で毎日のように見た。その間、瀬良は何枚もの絵を完成させている。部屋にはいくつもの瀬良が描いた絵が積み上がっている。
「あいつは一生懸命に描いてる」
「それに何の意味があるんですか」
「結果が出なければ意味がないのか?」
「違います。たとえば、あなたはあの彫刻やデッサンを一生懸命にやったんでしょうね。それは意味があると思いますよ。未来につながるでしょう? 一生懸命やった分、あなたは上達してうまくなっていく。でも瀬良さんは違う。昔の作品は確かに評価されていて価値もありました。今は違う。過去に得たはずの技術を全部捨てて、上達のためでもなく価値すらないものを量産している」
五智は一つの確信に至った。巡は描く側として絵に、芸術に向き合ったことがないのだろう、と。確かに五智は、うまくなるためにデッサンを始めた。そこに嘘偽りはない。しかしそれは価値のあるものを作るためでは決してない。己が生み出したいものを、少しでも近い形で表現するための技術を身につけるためだ。少なくとも五智はこの数ヶ月で、価値あるものを作りたいと願ったことは、そのために上達しようと思ったことは一度もない。そしてそれは瀬良も同じだろう。もしかしたら五智の知らぬ過去ではあったかもしれない。しかし今現在の瀬良は間違いなく違うと断言できる。言葉で聞いたことはない。それでもそばで見てきた。描いてる姿をずっと見ていた。
「お前はどうしたいんだ? あの女の絵を描かせたいのか? それとも瀬良を昔に戻したいのか?」
「両方、ですかね。また描いてほしい。そしてさらに上達して、また描いてもらう。金なら払いますよ。そんなに難しい要求をしているつもりはないんですけどね。あの人は本当によく分からない」
「で、俺にどうしてほしいんだよ」
「描きたがらない原因を探って解決してください。あなたの夏期休暇が終わったらもう一度部室へ伺います」
車窓は見知ったアパートを切り取り、車は停止した。巡の要求は理解した。それを五智が叶えるかどうかはまた別問題である。五智はさっさとドアを開けた。
「それは前金です」
「いらねえよ」
巡は何かを指さしたようだが、食い気味に断りを告げ、示した先へ目もくれず五智はドアを閉じた。




