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背景に関しては何の問題もなかった。当然五智が出る幕もない。精神的な負担を減らすため、悪魔のシルエット部分をマスキングした状態で完全に瀬良へ託すことにした。普段と変わらない様子で、瀬良はさっさと描き上げた。
そこから先が長かった。
途切れ途切れに、満身創痍で少しずつ描き進めるほかなかった。
スケッチブックとキャンバスを行ったり来たりさせながら、瀬良は徐々に精神的に困憊していく。描き進めるにつれて手の震えが増え出す。絵の具を載せだしたころから「見えない」と繰り返し言うようになった。終盤はもう泣いていた。涙を流しながら「見えない、見えない」とうわごとのように繰り返していた。
そんな状態の瀬良をキャンバスの前に立たせて、五智はパレットナイフや筆を持たせた。その手を上から握りこんで誘導し続けた。
「大丈夫だ。描けてる。……大丈夫だ」
五智もうわごとのように何度もそう繰り返す。
五智はずっと油絵に苦手意識があった。美大でやらされたことはある。表現の幅を広げるため、などと言って様々な画材を経験させられたさいに、油絵も含まれていた。
彫刻とは正反対である。削っていくのが彫刻で、盛っていくのが油絵だ。
何より瀬良の絵を知っていた。
だからお試し感覚で触るのも、できあがったそれを見るのも正直嫌だった。
今では後悔している。
あの一回でもいいから、もう少し積極的にやっておけばよかった。
しかし後の祭りである。
己の未熟さに顔を顰めながらも、五智はひたすら瀬良の後ろに立った。毎日、本当に少しずつではあるが絵の具が載っていく。形が作られていく。それをひたすらに二人で積み重ねた。
完成した。五智がそう認識した瞬間だった。瀬良はキャンバスの前で崩れ落ちていた。そのまま膝を抱えて、ひたすらにめそめそと泣き続けた。
できあがった悪魔の絵は非常にアンバランスであった。瀬良が持ち前の技術と才能で描き上げた背景は文句の着けようがない。
その中央に鎮座する人物は、とてもじゃないが出来がいいとは言えない。筆跡もディテールも完全に甘い。色使いも褒められたものではない。なにせ既に載っている色が見えないのだ。瀬良に選ばせたはずなのに、持ち味であるあの豊かな色彩はここには現れていない。
精密で情緒ある背景と、決して褒められないような人物が非常にちぐはぐであった。
それでも、人はこれを人と認識するだろう。
少なくとも瀬良が一人で描き続けてきた福笑いとは比べものにもならない。
性別、顔つき、髪型や背丈、そして服装。それらは十二分に判別することができる。
それが誰なのか、五智にはとっくに分かっていた。やっぱりな、としか言い様がない。
それでも瀬良に描かせ続けた。
五智がひたすら手を貸したのだから、この絵には五智の作品としての要素も含まれているはずである。
だから五智は期待している。
「完成だぞ。……立てるか?」
下を向いたまま、未だ泣いている瀬良は首を振った。その脇に手を入れて後ろから立たせる。
「見えるか?」
瀬良はひたすらに首を振っている。顔は下を向いたままだ。
「顔あげろ。見えるだろ」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら瀬良の頭がゆっくりと持ち上がる。後ろからその表情を見ることは当然できない。そでも五智の耳にはしっかりと、本当にか細い声だがしっかりと届いた。
瀬良が呟いた「お母さん」と言う声が。
瀬良朋佳。五智はその名も、その顔も知っている。どちらも荒木から見せてもらった資料にあった。
瀬良も五智もとっくに分かっていたのだ。
ただ五智は確信が持てず、そして瀬良は受け入れることができなかっただけだ。
見る者によって、人は大きく姿を変える。
五智と永旗が同一人物を作り違えたように。
そして人は変わっていく。
肉体が、精神が、そして取り巻く環境が変わっていく。瀬良も、その母親も双方に渡って変化していった。
素質がある子供であった瀬良と、その価値を理解しない母親。実際に売買が行われる画家になった瀬良と、知識のないまま画家の親になった母。
そこでなにがあったのか、当然五智には分からない。
だけど変わったのだ。
母には瀬良が、きっと今までと違う姿に映っただろう。そして瀬良には母親が、はっきりと違う姿に映った。
それは徐々にだろうか。それとも急激なものだったのだろうか。
いずれにせよ瀬良は分けた。
分けねば耐えられなかったのだろう。
理解を示さず強く当たる母親を瀬良は悪魔と名付けた。かつてのように穏やかなときは母と呼んだ。
そして後者は瀬良の願望をかぶせられ、その姿を変えていった。
棒立ちしていた瀬良はふらふらとキャンバスの前から離れていく。そばにある棚の前で立ち止まった。目の前には五智が彫った彫刻が並んでいる。荒れ果てたアトリエの中で、その棚だけが何事もなかったかのように無事であった。
その中の一体に瀬良は手を伸ばす。
かつて瀬良が母と呼んだ、それを模した彫刻を手にとる。
それを抱えて瀬良はまた崩れ落ちた。
五智はそれをただ後ろから眺めていた。




